おべんきょうノート

自分用です。

書簡訳

♦︎♢ はじめに ♢♦︎

上のカテゴリータグからとんでください。 ・このブログは自分の勉強メモです。 ・サーチエンジンからは検索できないようになっています。 ・解釈違い、間違い等あるかもしれませんが放っておいてください。 タグの説明 安政、元治、嘉永、文久、慶応→年号。 …

加藤櫻老『在鴻日記』赤禰武人の条

慶応2年正月25日 加藤櫻老『在鴻日記』で赤禰武人が記述されている部分を抜粋。 廿五日晴暖、赤根武人死罪梟首せらるゝ由。捨札は此者御國を缺落致し、幕府に召捕えられ候處、存外の書出し致し、此度立返り候處、不忠不義の所業に付斬首仰せ付けられ侯由なり…

安政4年(ヵ)「松下村塾規則」

一、兩親の命必ず背くべからず 一、両親の言うことには必ず背かないこと。 一、兩親へ必ず出入を告ぐべし 一、両親へ必ず(塾への)出入りを告げること。 一、晨起盥梳、先祖を拝し、御城にむかひ拝し、東にむかひ 天朝を拝する事。假令病に臥すとも怠るべか…

嘉永6年6月、12月 清内・栄太郎→大野 2通

嘉永6(1853年)6月24日 吉田清内、栄太郎から大野信吾への書簡。父である清内が栄太郎(稔麿)と連名にて記したもの。筆跡は清内のものだろうとの事 一筆啓上仕候 甚暑之節に御座候処、先以貴所様・御満家中様御安全に可被成御座珍重の至に奉存候 於為元親…

安政4年7月28日(ヵ) 松陰→岸御園

イタリック部分は富永有隣の筆 雲陣茶話寫させ候につき、小倉へ贈らるべく候 ◯川角太閣記二冊丈け貴覧に入れ候 ◯小金原御狩記一卷返璧 ◯先大津烈婦(登波)寫貌一條御周旋忝く候 討賊始末相濟み候はば御取りかへし下さるべく候 雲陣茶話、写させましたので小…

安政5年6月 松陰→市之允

安政5年(1858年)6月 山田市之允が元服を迎えるにあたり、松陰は「與山田生」と題した漢詩を扇面に揮毫して授け立志の目標を示した ほなな:3〜5行目は初見で「俗流」にかかっているものと感じたので、ひとまず訳をこう置いています 立志尚特異 (立志は特…

万延元年3月30日〜5月23日 東帆録

万延元年(1860年)3月30日〜5月23日 東帆録(高杉晋作 書) 藩命により軍艦教授所に入所し航海実習として4月5日に丙辰丸に乗船。萩から2ヶ月かけ江戸へ向かう事になる。その間の航海日誌。 巻之一 一巻 我公嘗制 軍艦名日丙辰丸 既航西海九州四国際而未航東…

安政4年8月12日 松陰→栄太郎

若し曾子の心あらば即ち竜比の身首分裂と手足を啓くと一般なり もし全孝を本当に理解していれば竜蓬・比干が王を諫めて刑を受けた事は、臨終の時に門弟子を呼びて「予が手を啓け、予が足を啓け」と心法を示したのと同じである。※1 然らずんば則ち牖下に老死…

戊辰戰爭實歴談

会津白虎士中二番隊隊士 酒井峰治 明治年間に書き認めた手記 原文にはない注記や補足:青括弧() 今般福良村ニ出張精々盡力ノ段一統大儀 右ノ通り福良村ヘ出張ノ際ニ大殿様ヨリ城中大書院ニ於テ 御言葉ヲ賜フ茲ニ記憶ヲ録シテ此編ノ諸言トナス この度福良村…

文久2年11月 御楯組 攘夷血盟書

文久2年11月 攘夷血盟書(気節文章) 久坂玄瑞 書 此度我々共、夷狄を誅戮し、其首級を掲げ罷帰、急度攘夷之御決心被為遊、今般被仰出勅意、速に致貫徹度存詰発足候処、恐多も世子君御出馬被為遊候て、壮士感服の至に候得共、我等孤立ニてハ心細ニ付一先帰参…

安政5年2月下旬 松陰→月性

調停一事御心頭に懸けられ候段、實に感銘致し候 右に付き、何卒折角の御厚情徒事に相成らず候様にと種々案勞仕り候より同志へ申し談じ候處、孰れも同意に御座候 仲介の一件を念頭に留められておりました事、実に感銘致しました。右の件に付きまして、どうか…

安政5年2月28日 松陰→久坂

著者である山口県教育会は『観月先生は普通小田村伊之助を指す、小田村は当時松本村観月河原に移住して居ったからである、然るにこの書簡は久坂宛に違いない』という。 阿月の貴書達し候 御壯志妙々 京師の事何如やらんと至極案じ申し候 桂小五郎來原に與ふ…

文久2年2月15日 淵上→下川

後で訳し直します 謹而呈一書候 今般天下に一大事之儀差起り、兼而人間の道相辨へ候者共は是非参り不申候ては難叶候事故、御願も不申上家出仕候事は何共不孝之至に御座候へ共明て難申上儀も有之出奔仕候 謹んで一書申し上げます。この度天下に重大な事件が起…

安政5年4月13日 高杉→松陰

松陰全集6コマ48、49 原文並び替え 玄瑞君も益慷慨、浪華過京師至愉快々々、京師之事實悦可懼可、 玄瑞君も益々意気盛んとし、大阪を越え京都に至ったと聞きとても心が浮き立つようです。京都の事象に直に触れ、さぞ驚喜している事でしょう。 実ニ天下之安危…

安政6年4月11日 松陰→久坂

*亢龍は易学二十八宿のひとつ。真っ直ぐな龍という意味。『亢龍有悔』という慣用句があり「天高く究極まで昇りつめた龍は最早それ以上昇るところはなく、下ることのみで後悔する」ということ。 *何心隱論は蔵書ではなく焚書 *萱野勘平は萱野三平重実の事…

安政6年2月23日頃 久坂→松陰→某

黒字は久坂筆、赤字は松陰筆 久坂からの手紙の末に松陰が書き加え、某に出した書簡 松陰先生に與ふる書松陰先生足下、僕の歸るや將に先生と晤言し其の思ふ所を盡さんとす 而るに今既に繋がれて岸獄に在り、至痛至憾 然れども義事を謀りて敗る、鐵石笑坐之れ…

安政4年「秀實、字は無逸の説」

榮太郎年甫めて十三、始めて江戸に役す 會々墨夷の變あり、深く自ら奮勵し、武技を學びて以て致す所あらんと欲す 其の後、家を辭して遠く遊ばんことを謀りしも、事諧はず 栄太郎が十三歳の頃、初めて江戸へお役目を勤めた。ちょうどその時墨夷(アメリカ)の…

慶応4年閏4月11日 世良→楢崎

楢崎頼三宛 楢崎頼三陣中日記(https://www.d-library.jp/hgi02/g0102/libcontentsinfo/?conid=138563)では楢崎は閏4月13日にこの書簡を見た様子。 引続御尽力奉察候 然は庄内表も賊兵甚多勢にて暴動致し、薩長僅百五六十人の兵にては、防禦も行届兼、他藩…

明治2年8月25日 大村→琴

御地皆様御無事にそんじ候 此方も七月廿七日東京発足、木曽路通り無事に八月十三日京着致し候 そちらの皆様もご無事と存じます。こちらも七月二十七日に東京を出発、木曽路を通り、無事八月十三日に京へ到着致しました。 御用有之、廿日に下坂 尚又、御用相…

慶応4年3月6日 世良→寺内

大坂からの手紙 拝啓 此度朝廷の御勘渡金御下渡の事、九条殿付の芸人・戸田大和守家人両人え相尋候所、夫は朝廷より直二御渡方相成候訳にて、右両人之ものは関係不致由 拝啓 この度、朝廷のお勘渡金を下ろし渡す件、九条(道孝)殿お付きの芸人と戸田大和守…

慶応元年閏5月20日 世良→大村

以手紙致居達候 然は、先達てゲベール二百挺之辻御買得被下候様にと、馬関え申越置候処、如何{ この間欠 }様子承り候 手紙にてお伝え致します。先日ゲベール銃二百挺の件でお買入れくださるようにと馬関へ言って寄越したところ、どのように{ この間欠 }…

慶応元年5月9日 世良→入江(和作)

下関豪商の入江和作宛 尓後御健固ニ御周旋被成候半と不堪欽然候 然は近日上茶之分積廻し致せ候間、御取捌可被下候様、御頼致候 その後精力的にご周旋なさっている事でしょうと(思えば)喜びが堪えられません。それでは近日上茶の積荷を送るよう致しますので…

文久3年4月28日 淵上(郁)→淵上(謙)

依幸便一書啓上候、時下薄暑之砌に御座候処愈々御安康之由大賀存候 此方に於ても無異消光罷過候条御安心可被成候 幸便にて一書申し上げます。夏が始まり薄らと汗ばむ季節でございますところ、より一層平穏無事とお聞きし大変喜ばしく思います。こちらにおい…

安政6年2月25日「赤根武人に與ふ」

吉田松陰→赤禰武人 已んぬるかな、已んぬるかな 肉食者は鄙なり、國其れ喪びん 然りと雖も草莽安んぞ瑞穂を食するの民なきを知らんや 況や 今上聖明にして、公卿人あり、加ふるに吾が公勤王の志尤も深きを以てす、則ち瑞穂の民、何ぞ獨り草莽のみならんや も…

安政5年 弾正益田君に奉るの書(抜粋)

東行net:http://www.togyo.net/cgi-bin/togyo/shinsaku/index.php?c=8-21 「弾正益田君に奉るの書」は高杉晋作 「暢夫の対策を評す」は吉田松陰 対えていわく、昔王通言あり、夷狄の徳、黎民これを懐う、三寸それこれを捨つ、某常におもえらく、虚語にあら…

安政4年正月26日 松陰→月性

松陰 在萩 月性 在京 改歳已來大いに御無沙汰打過ぎ申し候、眞平御海恕下さるべく候 舊冬は安藤・廣瀬二家澁木生を哭する詩御贈致下され、難有く御厚情謝し奉り候 廣瀬の詩殊に其の用意に服し候 年明け以来長らくご無沙汰でおりました、どうぞ(海のように広…

安政4年9月2日 松陰→桂

杉原辰之助組の者自稱吉田氏 榮太郎秀實は無逸 此の生僕甚だ愛する所、前途期すべし存じ候 僕鑑定の處は此の生の名字説其の外書き與へ候詩文にて御承知下さるべく、老兄御目鏡に乗り先々有用と思召され候はば、然るべく御教示頼み奉り候 杉原辰之助組の者、…

安政3年3月5日 清内、栄太郎→大野親子

筆跡は清内 音三郎は後に栄太郎(安政3年11月25日入塾)の勧めで村塾へ入る 一筆啓上仕候 春暖之節に御座候得共、先以尊君様・御満家中様御安泰可被成御座珍重至極に奉存候 一筆申し上げます。春暖の候にございますが、まずは大野様、ご家族様ご安泰になられ…

安政6年2月某日 松陰→岡部

子揖・杉蔵の妻を持つは 尤も杉蔵近来親迎説はやめたか承りたし どうも其の説を得ず 説あらば知らせよ 富太は大俗物とか、杉蔵は勤王の事は言わぬとか、今日は大丈夫そんな閑言語、へらず口を開く時には之れなく候 子揖・杉蔵の妻を持つという 杉蔵は最近親…

安政6年2月下旬 松洞⇆松陰

黒字は松洞筆、赤字は松陰筆 松洞が書簡を送り、松陰が行間に返事を書いた 松陰先生 座下 ‪御喉風驚き入り奉り候 大高其の外出でず、気遣ひはなしと云ふことは決して御座なく候 只だ政府に然るべく處置する人乏敷きを以て要駕は不同意と申す事に御座候 松陰…