おべんきょうノート

自分用です。

安政六年

♦︎♢ はじめに ♢♦︎

上のカテゴリータグからとんでください。 ・このブログは自分の勉強メモです。 ・サーチエンジンからは検索できないようになっています。 ・解釈違い、間違い等あるかもしれませんが放っておいてください。 タグの説明 安政、元治、嘉永、文久、慶応→年号。 …

安政6年4月11日 松陰→久坂

*亢龍は易学二十八宿のひとつ。真っ直ぐな龍という意味。『亢龍有悔』という慣用句があり「天高く究極まで昇りつめた龍は最早それ以上昇るところはなく、下ることのみで後悔する」ということ。 *何心隱論は蔵書ではなく焚書 *萱野勘平は萱野三平重実の事…

安政6年2月23日頃 久坂→松陰→某

黒字は久坂筆、赤字は松陰筆 久坂からの手紙の末に松陰が書き加え、某に出した書簡 松陰先生に與ふる書松陰先生足下、僕の歸るや將に先生と晤言し其の思ふ所を盡さんとす 而るに今既に繋がれて岸獄に在り、至痛至憾 然れども義事を謀りて敗る、鐵石笑坐之れ…

安政6年2月25日「赤根武人に與ふ」

吉田松陰→赤禰武人 已んぬるかな、已んぬるかな 肉食者は鄙なり、國其れ喪びん 然りと雖も草莽安んぞ瑞穂を食するの民なきを知らんや 況や 今上聖明にして、公卿人あり、加ふるに吾が公勤王の志尤も深きを以てす、則ち瑞穂の民、何ぞ獨り草莽のみならんや も…

安政6年2月某日 松陰→岡部

子揖・杉蔵の妻を持つは 尤も杉蔵近来親迎説はやめたか承りたし どうも其の説を得ず 説あらば知らせよ 富太は大俗物とか、杉蔵は勤王の事は言わぬとか、今日は大丈夫そんな閑言語、へらず口を開く時には之れなく候 子揖・杉蔵の妻を持つという 杉蔵は最近親…

安政6年2月下旬 松洞⇆松陰

黒字は松洞筆、赤字は松陰筆 松洞が書簡を送り、松陰が行間に返事を書いた 松陰先生 座下 ‪御喉風驚き入り奉り候 大高其の外出でず、気遣ひはなしと云ふことは決して御座なく候 只だ政府に然るべく處置する人乏敷きを以て要駕は不同意と申す事に御座候 松陰…

安政6年2月中旬頃 松陰→小田村

士毅村先生に與ふ 天下大快活の事なく、又大快活の人なし 子遠已に然り、其の他何ぞ説かん 僕子遠を信ずること甚しきに過ぐ 是を以て固執爭辨比に至る 士毅村先生に与える 天下は晴れ晴れとせずまた生き生きとした人もいない。子遠も既にそうなっており、そ…

安政6年正月19日 松陰→杉蔵

*当時赤禰の名前は幹之丞とされているが文語文では武人になっている。原文未確認 十九夜大樂源太郎・赤根武人・傳之助・和作四人免罪の事、大高より宍戸翁へ論じ込ませ候策は之れなくや 十九夜大楽源太郎・赤根武人・傳之助・和作、四人の免罪の件は大高か…

安政6年4月9日(ヵ)松陰→岡部

僕容易に人を絶交する様に久坂など云ひて不滿を云ふけれど、義卿豈に容易に人を絶交せんや 殊に來原・桂などは僕が尊信することは諸友具さに知る所 然れども諸友かかる大機會を態と取外し、今公の勤王をさせぬなれば、僕どうも如何に思うても胸がながぬでは…

安政6年3月26日 松陰→小田村・岡部

小文字は行間に書き添えた文章(松陰筆) 勤王は迚も長藩 のみならず諸藩皆然り にては出來申さざる事は僕疾より承知なり 然れども出來ぬ 心思錯亂、語論次なし ながら十數人も勤王事にて 罪を蒙れば志決す、怒猪の如し 怒猪となればおそろしきものなし 十數…

安政6年5月13日 松陰→(高杉?)杉蔵

*杉蔵への追伸より前の高杉宛文章全部が墨で大きく擦って消されている(高杉が目にしたかどうかは不明?) *栄太郎の別紙は今は見つかっていない 四月七日の書至り拜復仕り候人物月旦一々的當、但し日下は大いに前日の老成見を悔ゆるに似たり 之に因り僕へ…

安政6年5月24日 久坂→高杉

高杉 江戸 久坂 萩 尊書屢辱辭意重疉捧讀之際愧悚而答書奉有未緩慵之罪海涵是祈 度々手紙をいただき面目無く思います。(貴方の)手紙が幾重にも重なっていて、拝見する際(自分が)とても恥ずかしく思えました。回答書はまだ無く、気の緩み(故の過失)ご容…

安政6年4月13日 高杉→久坂

江戸から山口まで手紙が届くのにどれだけ急いでも2、3週間は掛かると思われる 今以御手間御送無御座。少々は不平にて御座候。陳は貴兄御起居如何、此節は山口より御帰萩被成候哉、万端承度候。私儀も碌々食飯居候。此節日夜強気起り、一日も君之為めに死度心…

安政6年4月1日 高杉→久坂

久坂に萩下の近況を問うも返事が来ず、これが三通目 二白、僕も愚父様子相考候ニ、来春カ来秋ニハ必帰萩サセ、松下様子大憂イ居候、松下先生ニハ書状可差上ト相考、度々認候得共、ウソニナリ候事カ多ク御座候故、ヤメ申候追伸、僕も父の状況を考えると、来年…

安政6年5月東行前 松陰→杉蔵

吉田松陰全集コマ219 松陰 野山獄杉蔵 岩倉獄 久保・天野來る 天野は吾が見る所恐らくは違はず 是れは高杉來歸を待ちて決すべし 久保は眞に吾れを知るもの、今更に申すに及ばず 爰に一落涙したることあり 久保君、天野君が来た。天野君は私が見るところによ…

安政6年5月東行前 松陰→杉蔵、和作

吉田松陰より、子遠兄弟への書簡。らしい。 江戸に召喚される直前、長州萩にて親戚門下諸友に決別の遺書として書き与えたもののひとつ。同じ様な文面の遺書がいくつかあって正確にはどれかわからないので、タイトルを一番確率の高い杉蔵宛にしています。 内…

安政6年10月6日 松陰→飯田

吉田松陰全集6 コマ228.229 松陰 江戸獄 飯田 江戸 昨五日の書今六日相届き、金二両とも慥に落掌仕り候、是れより先き追々高杉より届呉れ候金六両、此の金を合わせて八両、悉く老兄の御心配成し下され候趣、一方ならざる御厚情謝述盡し難く存じ奉り候 昨日五…

安政6年1月27日 松陰→杉蔵

子遠に語ぐ 念七日家兄臨まる。星巌の往復、幕府弁解等数密議あり。又前田の説あり、諸友の絶交の事に係る。夜、子遠獄に来り、船越清蔵、村田蔵六、萩に来るの事を談ず。 ○子遠に語ぐ 正月念七夜桂生吾れをして諸友と絶たしむ、今謹んで其の言を奉ぜり。独…

安政6年4月22日頃 松陰→杉蔵(九一)

「自然説」松陰 在野山獄 入江 在岩倉獄 餘り怒りよるととうとう腹もなんにも立たぬ様になる。吾れは腹はもう立てぬ。併し又立てたら夫れも自然と恕して呉れ。怒りも過ぎるととうとう何も感じなくなる。僕はもう腹を立てない。しかしまた腹を立てたらそれも…

安政6年11月29日 久坂→九一

迚も来塾ハ致し申間敷候、大楽源太郎共招ケバ妙ナレド、是も禁錮ナレバ容易ニハ参り兼候事も可有之候、 到底、来塾は致すべきではありません。大楽源太郎を招き迎えられたら素晴らしいでしょうが禁錮の身であるなら容易にはいかない事でしょう。 何卒先師之…

安政6年10月6日 松陰→高杉

安政6年(1859年)10月6日 吉田松陰全集6コマ229、230 僕此度之災厄老兄江戸在アリシノミニテ大ニ仕合申候、御厚情幾久感銘仕候、急ニ御歸國トアレハ残念ナリ然共此間ノ様子父兄朋友へ御話下被候ハゝ又喜フヘシ是望外ノ大幸ナリ 僕のこの度の災難において、…

安政6年7月9日頃 松陰→高杉

安政6年(1859年)7月9日頃 吉田松陰全集 コマ210、211 松陰 江戸獄 高杉 江戸 評定所ノ様子大略申上候問ヶ條二ツ、一曰、辰年冬梅田源次郎長門へ下向之節密ニ面會何ヲ談候哉余曰談所無タゝ禪ヲ學べナト學問ノ事ヲ談タル迄ナリ 評定所での様子を大まかに伝え…

安政6年2月15日以前 松陰→高杉

安政6年2月15日以前 吉田松陰全集6 コマ145、146 原文並び替え等。 松陰在野山獄高杉在江戸 此書に御答は御無用、只屈平詩一見したとのみ小田村か愚兄か其外久坂なりかに御申贈り下被度候 この手紙には返答なさらずともよろしい。ただ屈平の詩を目通ししたと…

安政6年11月26日 高杉→周布

一筆呈上奉り候 寒気相つのり候へども、先ずもって、御両殿様ますます御機嫌よくござ遊ばされ恐悦至極に存じ奉り候、且つまた尊公様、いよいよ御清栄、御精勤なさせられ国家のため是悦に候 一筆謹んで申し上げます。寒さが募って参りましたが、御両殿様はま…

留魂録 下

一、 今日死を決するの安心は四時の順環にい於いて得る所あり。蓋し彼の禾稼を見るに、春種し、夏苗し、秋刈り、冬蔵す。秋冬に至れば人皆其の歳功の成るを悦び、酒を造り、醴を為り、村野歓謦あり。未だ曾て西成に臨んで歳功の終るを哀しむものを聞かず。 …

留魂録 上

長文なので上と下に分けます。 留魂録 安政6年(1859年10月25日) 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂 十月念五日 二十一回猛士 例えこの命がこの武蔵野のどこかで終え肉体が朽ち果てたとしても、私の思想は永遠に留めておきたいものだ 十…