おべんきょうノート

自分用です。

2022-01-01から1年間の記事一覧

加藤櫻老『在鴻日記』赤禰武人の条

慶応2年正月25日 加藤櫻老『在鴻日記』で赤禰武人が記述されている部分を抜粋。 廿五日晴暖、赤根武人死罪梟首せらるゝ由。捨札は此者御國を缺落致し、幕府に召捕えられ候處、存外の書出し致し、此度立返り候處、不忠不義の所業に付斬首仰せ付けられ侯由なり…

梅田源次郎吟味申し立て 1

元小浜藩士梅田源次郎外四人身元之儀ニ付覚 梅田源次郎外四人身元之儀、内密承探候趣、左之通御座候、梅田源次郎(雲浜、定明)他四名の身元の件、内密に承り探ったところ次の通りでございます。 烏丸御池上ル二条殿町 東側三軒目 町中借屋 儒者 梅田源次郎 …

安政4年(ヵ)「松下村塾規則」

一、兩親の命必ず背くべからず 一、両親の言うことには必ず背かないこと。 一、兩親へ必ず出入を告ぐべし 一、両親へ必ず(塾への)出入りを告げること。 一、晨起盥梳、先祖を拝し、御城にむかひ拝し、東にむかひ 天朝を拝する事。假令病に臥すとも怠るべか…

嘉永6年6月、12月 清内・栄太郎→大野 2通

嘉永6(1853年)6月24日 吉田清内、栄太郎から大野信吾への書簡。父である清内が栄太郎(稔麿)と連名にて記したもの。筆跡は清内のものだろうとの事 一筆啓上仕候 甚暑之節に御座候処、先以貴所様・御満家中様御安全に可被成御座珍重の至に奉存候 於為元親…

安政4年7月28日(ヵ) 松陰→岸御園

イタリック部分は富永有隣の筆 雲陣茶話寫させ候につき、小倉へ贈らるべく候 ◯川角太閣記二冊丈け貴覧に入れ候 ◯小金原御狩記一卷返璧 ◯先大津烈婦(登波)寫貌一條御周旋忝く候 討賊始末相濟み候はば御取りかへし下さるべく候 雲陣茶話、写させましたので小…

安政5年6月 松陰→市之允

安政5年(1858年)6月 山田市之允が元服を迎えるにあたり、松陰は「與山田生」と題した漢詩を扇面に揮毫して授け立志の目標を示した ほなな:3〜5行目は初見で「俗流」にかかっているものと感じたので、ひとまず訳をこう置いています 立志尚特異 (立志は特…

万延元年3月30日〜5月23日 東帆録

万延元年(1860年)3月30日〜5月23日 東帆録(高杉晋作 書) 藩命により軍艦教授所に入所し航海実習として4月5日に丙辰丸に乗船。萩から2ヶ月かけ江戸へ向かう事になる。その間の航海日誌。 巻之一 一巻 我公嘗制 軍艦名日丙辰丸 既航西海九州四国際而未航東…

安政4年8月12日 松陰→栄太郎

若し曾子の心あらば即ち竜比の身首分裂と手足を啓くと一般なり もし全孝を本当に理解していれば竜蓬・比干が王を諫めて刑を受けた事は、臨終の時に門弟子を呼びて「予が手を啓け、予が足を啓け」と心法を示したのと同じである。※1 然らずんば則ち牖下に老死…

戊辰戰爭實歴談

会津白虎士中二番隊隊士 酒井峰治 明治年間に書き認めた手記 原文にはない注記や補足:青括弧() 今般福良村ニ出張精々盡力ノ段一統大儀 右ノ通り福良村ヘ出張ノ際ニ大殿様ヨリ城中大書院ニ於テ 御言葉ヲ賜フ茲ニ記憶ヲ録シテ此編ノ諸言トナス この度福良村…

史記 淮陰侯列傳第三十二 ④

韓信使人閒視、知其不用、還報、則大喜、乃敢引兵遂下 未至井陘口三十里、止舍 夜半傳發、選輕騎二千人、人持一赤幟、從閒道萆山而望趙軍、誡曰:「趙見我走、必空壁逐我、若疾入趙壁、拔趙幟、立漢赤幟」 韓信は(事前に放っていた)間者からその策が用いら…

文久2年11月 御楯組 攘夷血盟書

文久2年11月 攘夷血盟書(気節文章) 久坂玄瑞 書 此度我々共、夷狄を誅戮し、其首級を掲げ罷帰、急度攘夷之御決心被為遊、今般被仰出勅意、速に致貫徹度存詰発足候処、恐多も世子君御出馬被為遊候て、壮士感服の至に候得共、我等孤立ニてハ心細ニ付一先帰参…