おべんきょうノート

自分用です。

安政4年「秀實、字は無逸の説」

榮太郎年甫めて十三、始めて江戸に役す 會々墨夷の變あり、深く自ら奮勵し、武技を學びて以て致す所あらんと欲す 其の後、家を辭して遠く遊ばんことを謀りしも、事諧はず

栄太郎が十三歳の頃、初めて江戸へお役目を勤めた。ちょうどその時墨夷アメリカ)の変があった。深く己の気力を奮い立たせ、武技を学ぼうという考えに至る。その後、家を離れて遠方へ遊学する事を考えるも叶わなかった。


丙辰の冬、余に囚室に謁し教を受けんことを請ふ 余試みるに韓退之の、「符、書を城南に讀む」の詩を以てす 榮太屑しとせずして曰く、「吾れの學を爲す、寧んぞ是れが爲めならんや」と

丙辰の冬安政三年十一月二十五日)、僕の籠居へ訪れ学問を受けたいと請う。僕は韓退之(韓愈)の「符読書城南」の詩を教えた。栄太は不服そうに「自分自身の学問を為すのは、この(立身出世)為ではありません」と言った。


孟子百里奚諫めざるを以て智賢と爲すを論ずるを讀ましむ 悦ばずして曰く、「諫めず死せず、何を以て智賢と爲さん」と 余頗る之れを奇とし、語るに學の方を以てす

また、孟子の「百里奚諌めざるを以て智賢と為すを論ずる(第九萬章章句上 百三十一節)」を読ませる。すっきりとしない様子で「諌めない、死なない。どういう理由で彼を智賢としたのですか?」と言った。僕はとても面白く思い、学問の論点を語った。


榮太蓋し内に契るあり、悉く武技を廢して、余に従ひて日夕書を讀む 一日名字を以て余に問ふ 余、秀實字は無逸を以て之れに應へ、且つ曰へらく、「汝の苗たる、稂に匪ず、莠に匪ず、吾れ已に之れを試みたり

栄太は確かに心に刻み、ことごとく武技を辞めて僕に従って昼も夜も書を読む。ある日、名と字を僕に求めた。僕は秀実、字は無逸であるとその問いに答えた。「君の苗は雑草のような役立たずではないと、僕は既に試していた。


怠けずんば、則ち秀で則ち實らんこと許すべし 然れども秀や實や、誠に易からず 載ち耘り載ち麃る、維れ獲り維れ積む、其れ無逸に在るかな

怠けなければ芽が出て花が咲き、実がなる事を可能にする。しかし秀も実も簡単ではない。刈り取り、獲り入れ、また積み上げる、つまりは無逸(怠けや安楽を求めない)にあるのだ。


抑々吾れ聞けり、李唐に段大尉秀實と名のる者あり、近時又蒲生君藏先生あり、亦秀實と名のる 二子は皆豪傑なり 汝退いて二子の傳を讀まば、其れ必ず無逸の然る所以を知らん」と

以前僕が聞くに、唐王朝に段秀実という将軍がいた。この時(寛政の勤王家に)蒲生君蔵先生がいて、彼もまた秀実と名乗っていた。二人は豪傑である。君も客観的に二人の伝を読めば必ず無逸という語の根拠を知るだろう」。