おべんきょうノート

自分用です。

2020-05-01から1ヶ月間の記事一覧

安政4年正月26日 松陰→月性

松陰 在萩 月性 在京 改歳已來大いに御無沙汰打過ぎ申し候、眞平御海恕下さるべく候 舊冬は安藤・廣瀬二家澁木生を哭する詩御贈致下され、難有く御厚情謝し奉り候 廣瀬の詩殊に其の用意に服し候 年明け以来長らくご無沙汰でおりました、どうぞ(海のように広…

安政4年9月2日 松陰→桂

杉原辰之助組の者自稱吉田氏 榮太郎秀實は無逸 此の生僕甚だ愛する所、前途期すべし存じ候 僕鑑定の處は此の生の名字説其の外書き與へ候詩文にて御承知下さるべく、老兄御目鏡に乗り先々有用と思召され候はば、然るべく御教示頼み奉り候 杉原辰之助組の者、…

安政3年3月5日 清内、栄太郎→大野親子

筆跡は清内 音三郎は後に栄太郎(安政3年11月25日入塾)の勧めで村塾へ入る 一筆啓上仕候 春暖之節に御座候得共、先以尊君様・御満家中様御安泰可被成御座珍重至極に奉存候 一筆申し上げます。春暖の候にございますが、まずは大野様、ご家族様ご安泰になられ…

安政6年2月某日 松陰→岡部

子揖・杉蔵の妻を持つは 尤も杉蔵近来親迎説はやめたか承りたし どうも其の説を得ず 説あらば知らせよ 富太は大俗物とか、杉蔵は勤王の事は言わぬとか、今日は大丈夫そんな閑言語、へらず口を開く時には之れなく候 子揖・杉蔵の妻を持つという 杉蔵は最近親…

安政6年2月下旬 松洞⇆松陰

黒字は松洞筆、赤字は松陰筆 松洞が書簡を送り、松陰が行間に返事を書いた 松陰先生 座下 ‪御喉風驚き入り奉り候 大高其の外出でず、気遣ひはなしと云ふことは決して御座なく候 只だ政府に然るべく處置する人乏敷きを以て要駕は不同意と申す事に御座候 松陰…

安政6年2月中旬頃 松陰→小田村

士毅村先生に與ふ 天下大快活の事なく、又大快活の人なし 子遠已に然り、其の他何ぞ説かん 僕子遠を信ずること甚しきに過ぐ 是を以て固執爭辨比に至る 士毅村先生に与える 天下は晴れ晴れとせずまた生き生きとした人もいない。子遠も既にそうなっており、そ…

安政6年正月19日 松陰→杉蔵

*当時赤禰の名前は幹之丞とされているが文語文では武人になっている。原文未確認 十九夜大樂源太郎・赤根武人・傳之助・和作四人免罪の事、大高より宍戸翁へ論じ込ませ候策は之れなくや 十九夜大楽源太郎・赤根武人・傳之助・和作、四人の免罪の件は大高か…

安政5年12月16日 松陰⇆栄太郎

表面 松陰筆 家爺疫症危篤、苦心いたし候 小生儀も看病中入牢見合せの事嘆き出で候處、御詮議に相成るべき趣、先づ御喜び下さるべく候 父・百合之助が伝染病により危篤、色々と悩み苦労している。僕の件も看病中は入牢が差し控えとなっていて悲しみで溜息が…

安政6年4月9日(ヵ)松陰→岡部

僕容易に人を絶交する様に久坂など云ひて不滿を云ふけれど、義卿豈に容易に人を絶交せんや 殊に來原・桂などは僕が尊信することは諸友具さに知る所 然れども諸友かかる大機會を態と取外し、今公の勤王をさせぬなれば、僕どうも如何に思うても胸がながぬでは…

安政6年3月26日 松陰→小田村・岡部

小文字は行間に書き添えた文章(松陰筆) 勤王は迚も長藩 のみならず諸藩皆然り にては出來申さざる事は僕疾より承知なり 然れども出來ぬ 心思錯亂、語論次なし ながら十數人も勤王事にて 罪を蒙れば志決す、怒猪の如し 怒猪となればおそろしきものなし 十數…

安政6年5月13日 松陰→(高杉?)杉蔵

*杉蔵への追伸より前の高杉宛文章全部が墨で大きく擦って消されている(高杉が目にしたかどうかは不明?) *栄太郎の別紙は今は見つかっていない 四月七日の書至り拜復仕り候人物月旦一々的當、但し日下は大いに前日の老成見を悔ゆるに似たり 之に因り僕へ…