おべんきょうノート

自分用です。

加藤櫻老『在鴻日記』赤禰武人の条

慶応2年正月25日

加藤櫻老『在鴻日記』で赤禰武人が記述されている部分を抜粋。

 

廿五日晴暖、赤根武人死罪梟首せらるゝ由。捨札は此者御國を缺落致し、幕府に召捕えられ候處、存外の書出し致し、此度立返り候處、不忠不義の所業に付斬首仰せ付けられ侯由なり。刑に臨むに決白無垢を賜り其の背に自ら書して日く。

二十五日 晴、赤禰武人が死罪梟首させられたと聞く。捨て札によると、《 この者御国から逃げて行方をくらまし、幕府に捕縛されると内通の書を提出し、この度帰郷していた所を不忠不義の所業に付き斬首 》と仰せつけられたようだ。刑に臨む際、真っ白な着物を給わり、その背に自ら書を認めた。

 

   眞に誠偽の如く、眞に偽以て誠 

 

 

観る者堵の如く、罵る者有り哀者有り鰐石河原に梟首と云う、夜窃に首を取去るものありと云。此の武人、本は芸州柱島の人、奇兵隊の惣督の任となり、隊兵誠に心服してありしなり。

見物人は垣根のように並び、罵る者あり惜しむ者ありの中、鰐石河原で梟首されたとようだが、夜密かに首を取り去った者がいたという。武人は芸州柱島出身で、奇兵隊の総管となり、隊士は本当に心服していたようだ。

 

一昨冬俗論沸起の時、金六百両を周旋の爲めに取り入れて、夫より長太郎と脱走。京師に出て囚に就き、其の時甚だ叛心、我本國を攻べき手段を申出候由、此度芸より幕監連れ来って放つ。

一昨年の冬に俗論が勢いづいた時、金六百両を周旋の為に取り入れて長 太郎と脱走した。京都に出て捕らわれの身となり、その時謀反の心が立ち、自ら本国を攻める策を申し出したそうで、芸州より幕監を連れて地に送り込んだ。


由て大島邊へかくれ遂に刑せらる。憐むべくなり。年三十なり。(ありかを訴へたるは一向宗僧桑原多門なる者の由)

そういう理由にて大島付近に隠れ、遂に刑せられた。とても不憫に思う。年は三十である(在処を訴えたのは一向宗僧 桑原多門という者らしい)

 

○夜首を奪去りしは三、四人の士たり。内一人は養母なるもの男装し來たる由。番人是を咎むるに、刀を抜て追ちらし、其間に奪去ると云。

夜中首を奪い去ったのは三、四人の男である。内一人は養母が男装をして来たらしい。番人は彼らを咎めたが、刀を抜いて追い散らし、その隙に奪い去ったという。


此母實に烈婦といふべし。罪状は囚中、高杉を誅し諸隊を分散させねば長州を討平らくることは難しと幕吏へ申立るか罪なりと云。叉逆臣。

この養母は実に烈婦であろう。罪状は『 捕縛中に「高杉を攻め滅ぼし諸隊を解散させなければ長州を平定させる事は容易ではない」と幕吏へ申し立てたのが罪である 』という。また、逆臣。