万延元年3月30日〜5月23日 東帆録
万延元年(1860年)3月30日〜5月23日
東帆録(高杉晋作 書)
藩命により軍艦教授所に入所し航海実習として4月5日に丙辰丸に乗船。萩から2ヶ月かけ江戸へ向かう事になる。その間の航海日誌。
巻之一
一巻
我公嘗制 軍艦名日丙辰丸 既航西海九州四国際而未航東海
我が藩公はかつて軍艦を作られた。その名を丙辰丸と言い、既に瀬戸内海、九州、四国を航海した艦だが東海は未だ渡った事はなかった。
今茲庚申公又使諸航東海 藩士某々当其挙而予又与焉 初閏三月卅日命下
庚申の本年、藩公は丙辰丸を東海への航海をお決めになられた。藩士数名がその任に当たる事になり、僕もまた一行に加わる事となった。藩命が下ったのは三月三十日である。
或る親戚が言うには「東海遠州(現在の静岡県西部)の大海原は誰もが恐れる場所で藩士の中にこれまで航海を成し遂げた者が誰一人としていない。辞退した方がいいのではないか」と。
予窃喜曰、大丈夫生于宇宙間何久事筆研況有公名乎
僕は浮き立つ気持ちを隠して言った。「この広大な世に男児として生まれ落ちたからには、どうしていつまでも机に向かって筆と硯に仕える事ができましょう。ましてや藩公の命とあっては辞退する事などできません」
四月五日
遂出家乗船々繁在萩城北恵美須岬々去城纔一里
四月五日
遂に家を出て乗船した。船は萩城から北の恵美須岬に繋がれている。城からわずか一里ほど離れた場所だ。
1里=3.927km
六日至十二日
積雨逆風、船不発、箕座終日
六日~十二日
雨が降り逆風、船は出航しない。終日船上に座ったまま過ごした。
箕座:足を前へ投げ出した座り方
十三日
天晴風落朝後発恵美須岬碇越浜、黄昏風少起乃出越浜
十三日
空は晴れ風も止んだ。日が上るのを待ち美須岬を発して越浜に碇を下ろす。黄昏時になって風が少し起こったので越浜を出航した。
時商船十余艘争出津、皆従北国下馬関者避逆風云、至相島夜巳四更
その時、商船十数艘も争うように港を出た。皆、北国から下って馬関へ向かう船で、この場で逆風を避けていたという。相島に着いた頃には真夜中であった。
十四日
朝風順船馳午牌風死波静海面如盃池
十四日
朝は順風で船は気持ちよく海上を走ったが、昼になると風は死んだように止まり波も静かになった。海面はまるで酒を満たした盃のようだ。
入夜潮甚悪、将至蓋覆島天明蓋覆島我支封長府候領地、従萩城至此海程三十三里
夜に入ると潮流がとても悪くなった。蓋覆島(現在の蓋井島)に到着する頃、夜が明け空が明るくなる。蓋覆島は萩藩の支藩であり長府候の領地である。萩城下からこの場所までは海路三十三里だ。
十五日
無風潮亦悪船似進而退、午後西風少起白帆万飽一馳入赤間関
十五日
風がなく潮もまた悪く、船は進んでいるかのように見えるが実際には後退している。午後に西風が少し起ったので、船の白い帆は良風を受けて一気に赤間関(馬関)に入港した。
々々山陽第一大港泊舟数艘、橘花林立淡窓氏所謂、千帆纔去千帆至此是山陽小浪華者是也
赤間関は山陽一大きい港で碇泊する船が数艘。帆柱が白い花を付けた橘の木のように林立している。広瀬淡窓氏が言うところの「千の帆たった今去り千の帆がまたここに至る、山陽の小浪華」は、まさしくこれである。
十六日至十九日
有故掩留、上陸訪伊藤静斎々々素本藩南部賊民奔起、静斎時歳十八為県令某斬倒賊民数十人後遂継伊藤氏
十六日~十九日
訳あって船が停止したまま動かないので、上陸して伊藤静斎を訪ねる。彼は元々萩藩の人間だ。南部の賊民が蜂起した時、静斎は十八歳だったが県令 某によって賊民数十人を斬り倒し、その後伊藤氏の養子となった。
々々々則馬関豪氏所謂巨商官者、静斎素勤其官為讒人所退今則幽居清貧楽文詩
伊藤氏は馬関の有力者で、豪商でもあり役人でもある。静斎もその役に就いていたのだが讒言によって役目を退き、今は幽居して清貧に甘んじ詩文を楽しむ日々を送っている。
全未能忘国事慷慨淋々常論時勢、其談云
そうはいっても国家は忘れられず、悲憤が溢れ出すと常々時勢を論じている。静斎が次のような話をしてくれた。
嘗筑当候豪邁不凡、日田山野出必騎馬陪従者纔両三、嘗築厩于庭前自畜馬大臣諌之候笑曰
以前、筑当候という大変優れた君主がいた。田園や山野を視察する際わずか二、三人の従者を引き連れ、必ず騎馬で出かけた。ある時庭の前に厩を建て、自ら馬の世話をし始めた。大臣はこれを諌めたが候は笑って次のように言った。
愚暗主或愛籠鳥自畜之予愛馬豈与之同日而論乎、大臣感其言云
「或る愚かな君主は籠の鳥を愛で自ら飼っていたが私は馬を愛でている。どうして両者を同等に扱うのか」君主のその言葉に大臣は深く感じ入ったという。
此日静斎呼酒勧予々亦快飲激談頗洗船中之鬱塵矣、日暮帰船、於馬関有詩云
この日静斎は僕にしきりに酒を勧めてくれたので僕もまたよく飲み、かつ大いに語り、船中の鬱塵をすっかりと洗い流した。日が暮れ船に戻る。馬関において詩を作る。
海門千里与雲連
碧瓦錦楼映水鮮
前帝幽魂何処在
渚宴煙空鎖陽天
関門海峡から望む海は千里の彼方まで拡がり、空の雲へと繋がっている
碧の瓦、錦の楼、水に映えて鮮やかなり
安徳天皇の御霊は一体何処へいらっしゃるのか
渚から立つ靄(もや)が、夕日の沈んでいく空を空しく覆い隠していく
廿日
密雲微雨発馬関、風順則潮逆潮順則風逆
二十日
厚い雲から細かい雨が降っている中、船は馬関を出発。順風だと潮が逆に流れ、潮の流れが順調だと今度は風が逆向きになる。
終日動揺漸欲至三田尻港、天暁
そんな調子で船は終日揺れ動き、ようやく三田尻に入港しようとする頃には明け方になっていた。
廿一日
早朝入三田尻竜口港
二十一日
早朝、三田尻の竜口港に入港。
廿ニ日
有故船不得発因上陸訪同行平岡兵部家、入浴晩酌此日遂宿兵部家
二十二日
訳あって船が出航できず。上陸し、同行者である平岡兵部の家を訪問した。入浴し晩酌、この日は兵部の家に宿泊した。
廿三日
朝辞平岡氏訪西浦医師柳多熊々々嘗為松前人鈴木織太郎周旋尽力、頗奇士也
二十三日
朝に平岡氏の家を去り、西浦の医師である柳多熊を訪問。彼はかつて松前人 鈴木織太郎のために周旋尽力した男であり、すこぶる奇士である。
初鈴木遊歴西国過防州鯖川同友松前某者過溺死于此川、鈴木為之欲築墓三旬余宿柳家云
事の始まりは鈴木が西国を遊歴し、防州・鯖川を渡ろうとした時だ。その時、彼の同友である松前藩の某が川を渡り損ない溺死してしまった。鈴木は友の墓を立てるため、三十日以上に渡って柳家に宿泊したという。
予去歳於東武茗學与鈴木親交、予頗為鈴木欲為事因訪柳也、多熊談了捉午飯予喫之去
僕は昨年昌平坂学問所で鈴木と親交があり、何とか彼の力になりたいと柳家を訪れた。多熊は話し終えると昼食を出してくれたので、僕は馳走になってから退去した。
廿四日
曇天微風発三田尻竜口、午後雨頻降因碇泊野島々々去三田尻纔三里
二十四日
曇天微風の中、船は三田尻竜口港を発したが午後になると雨が酷く降り付け、野島に碇泊した。野島は三田尻からわずか三里である。
廿五日
朝雨午晴風亦梢順、昼牌発野島日暮室津入
二十五日
朝は雨だったが昼には晴れた。風もまた順風。昼に野島を発し、日暮れに室津に入港。
廿六日
淹留、御小軻至上関々々与室津相対其関唯一午吼、
二十六日
船は長く停まっている。小船を使って僕は上関へ向かった。上関と室津はわずかな距離を挟んで向かい合っており、関所は南にただ一つそびえている。
漁婦所歌、室津上関棹而通、真言其景矣、人家数百、宿檣不絶、従馬関下浪速之船必過此関、
漁婦の歌の「室津、上関、棹して通る」はまことにこの情景を歌っている。人家は数百、碇泊する船が遠くまで続く。馬関から浪速に下る船は必ずこの関所を通過する。
古有村上某者領此地以銕コウ塞其間取商税通船云、上陸散歩又乗小軻帰
昔、村上某という者がいた。彼はこの地を領土としていたが、鉄製の縄でその間を塞ぎ通過する船から商税を取ったという。上陸した後は散歩をして、再度小船に乗って丙辰丸に帰った。
廿七日
船子上陸不帰、午牌船子帰乃発船
二十七日
船子が上陸したまま帰らず。昼に帰ってきたので、船もやっと出発。
此日天陰風強船向逆風馳船痕亜字、出室津六七里計、入夜風益強、天如墨船不知所向
この日は曇っていて風も強い。船は逆風に向かって進んでいき、「亜」の字に似た跡を海上に残す。室津を出て六、七里程の所で夜に入り風は益々強くなった。空は墨のように真っ黒で、船はどちらへ向えば良いのかわからないほどだ。
因船子交議遂決又船反則風順、忽入室津港舟子名之謂出戻
船子は話し合った末に遂に決断し船を反転させることで逆風は順風となったが、またもや室津港に入ってしまった。彼らはこの事を「出戻り」と名付けた。
廿八日
早朝発室津日暖風弱、船甚不進
二十八日
早朝に室津を出発。日は暖かく風は弱く、船は全然進まない。
入夜至予州馬島岬、待午牌挙碇船馳一里計潮亦悪、遂定泊予州風速岬、潮甚悪因碇
夜に入り予州(伊予国)の馬島岬に着く。昼を待って碇を上げ船は一里ほど航行したが、潮の流れはまたもや悪く、遂に予州の風速岬に碇泊することにした。潮の流れははなはだしく悪い。ここに碇を下ろした。
此日船路僅七里計、予州馬島風速皆松山候領地也
この日に船が進んだのは僅か七里ほど。予州の馬島も風速岬も松山候の領地である。
廿九日
陰天無風、朝発風速岬
二十九日
曇天で風がない。朝に風速岬を発つ。
船少馳午後潮逆因碇空洋入夜風随雨起
船は少々海上を進んだが、午後は潮流が逆向きとなり海原に碇を下ろすことになった。夜に入ってからは雨が降り風も出てきた。
又挙碇漸入芸州御手洗岬、此日行程七里計
そこでまたもや碇を上げ、芸州の御手洗岬にやっと入ることができた。この日の行程は七里ほど。
五月朔日
風雨船難発、不得巳留于御手洗御手洗者芸州領、紛壁紅襴続々枕海、頗佳港也上陸散歩
五月一日
風雨で船を発することが難しく、御手洗に留まる事にした。御手洗は芸州領で、白壁や紅欄が連なり海に臨む大変素晴らしい港だ。上陸してぶらぶらと歩き見回った。
ニ日
大風雨船難出港、然風順船不得不発
二日
大雨風で船を出すことは困難である。しかし風は順風であり出航させないわけにはいかない。
舟子甚尽力漸出航、出航則船馳如矢午後風益強忽入讃州多戸津港
舟子は迷った末ようやく出航させたが、港を出た途端に船は矢の如く海上を進んだ。午後になってからは風が益々強まり、たちまち讃州の多度津港に入る。
此日従辰時至酉時船馳十三四里
この日は辰時から酉時の間に船は十三、四里を進んだ。
三日
晴船中尽上陸、俗人称之謂船中謁崇徳天皇廟象頭山金毘羅祠中、崇徳院天皇舟人更甚敬焉
三日
晴れ。船中にいた者は皆上陸した。崇徳天皇廟を見に行くのだと言う。象頭山金毘羅の祠に崇徳院天皇が祭られていて、船乗りから大変信仰されているとのこと。
象頭山其形如象頭首故云爾、老松深鬱渓声沈々覚清潔、
象頭山はその形が象の頭部と首に似ているのでそう呼ばれており、辺りには老松が深く茂り渓流の音が微かに響き、清々しさを覚えた。
廟祠亦重楼邃閣、金碧焜燿足驚人目上店喫飯入夜帰、象頭山西則多戸津領東則丸亀領地
また廟祠は重厚かつ奥深い楼閣で、青みの掛かった金色に輝いていて人が目にすると驚き足を止める。僕は店に上がって食事をし、夜になってから船に戻った。象頭山の西は多度津領で東は丸亀領だ。
其間而大領也、故風俗奢美殆有則為似三都風勢嘗聞此地有日柳某者、奇偉磊落所謂侠客者流傍善詩賦云
広大な土地を所有しているからかこの地の風俗は豪奢で美しく、大阪、京都、江戸の三都の風に似ている気がする。この地に日柳某という者がいると聞いたことがある。比類なく立派で気性がさっぱりとした人物でいわゆる侠客であるが、その一方で詩と賦を好むという。
予欲訪之此日有同行遂不能果矣
僕は日柳某を訪問したかったが、この日は同行者がいてついに果たすことができなかった。
四日
朝早く出帆。多度津を去り一里ばかりの地点で潮を待つ。潮が到来したので碇を上げたが風がない。
漸至讃州大槌島面泊、此日曇天微雨
漸く讃州の大槌島に到着し碇泊する。この日は曇天でにわか雨が降っていた。
五日至七日
漂泊于播州小豆島洋中凡三日間無風船随潮流
五日〜七日
播州の小豆島沖で凡そ三日間程度の漂泊。風はない。船は潮の流れに従うしかない。
潮順則船進潮逆則船退、天晴或下碇或揚帆、七日午漸至淡路島洋碇待潮
潮流が順調ならば船は進み、逆向きになれば後退する。空は晴れ渡り、碇を下ろしたり、或いは船の帆を上げたりして七日の昼にようやく淡路島沖に到着し碇を下ろして潮を待った。
因卸小軻上淡路島
それにより僕は小船を下ろして淡路島に上陸。
巻之ニ
二巻
廿ニ日
早朝発坂井港泊坂井船尽出港各争先
二十二日
早朝に坂井港を発す。坂井に碇泊していた船は我先にとばかりに港を出た。
目前戦場頗覚愉快、此日風弱潮逆且浪高船揺動于ニ三里間而不進
目前の戦場のような有様が面白く心の浮き立ちを覚えた。この日は風が弱く潮は逆向きで尚且つ波が高い。船は二、三里の間に渡り揺れ動くばかりで進まず。
黄昏従地方風起、船少馳将至大島夜已暁
黄昏時になり、陸の方から風が吹いてきたので船は少しだけ進んだ。大島に至るというところで夜が明けてしまった。
廿三日
朝天晴西風起朝船馳於紀州大島洋、午牌従海上観紀州熊野山名知瀑真絶景也
二十三日
朝空は晴れ上がり西風が吹く。午前中に船は紀州大島の海を快走し、昼に海上から紀州熊野山、那智の滝を望んだ。真に絶景だった。
午後入夜西風益強船馳、紀州地方深高山深森、舟子云船馳志摩洋海岸形勢于左面従是及遠州大洋
午後夜に入り西風が益々強まり船は気持ちよく海上を走る。紀州地方は、深い山、深い森といった風情で、舟子が言うには、「船は志摩洋左側の海岸に沿って航行している」とのこと。これより遠州大洋に及ぶ。
此日船走百里計
この日船は百里ほど走った。