おべんきょうノート

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加藤櫻老『在鴻日記』赤禰武人の条

慶応2年正月25日

加藤櫻老『在鴻日記』で赤禰武人が記述されている部分を抜粋。

 

廿五日晴暖、赤根武人死罪梟首せらるゝ由。捨札は此者御國を缺落致し、幕府に召捕えられ候處、存外の書出し致し、此度立返り候處、不忠不義の所業に付斬首仰せ付けられ侯由なり。刑に臨むに決白無垢を賜り其の背に自ら書して日く。

二十五日 晴、赤禰武人が死罪梟首させられたと聞く。捨て札によると、《 この者御国から逃げて行方をくらまし、幕府に捕縛されると内通の書を提出し、この度帰郷していた所を不忠不義の所業に付き斬首 》と仰せつけられたようだ。刑に臨む際、真っ白な着物を給わり、その背に自ら書を認めた。

 

   眞に誠偽の如く、眞に偽以て誠 

 

 

観る者堵の如く、罵る者有り哀者有り鰐石河原に梟首と云う、夜窃に首を取去るものありと云。此の武人、本は芸州柱島の人、奇兵隊の惣督の任となり、隊兵誠に心服してありしなり。

見物人は垣根のように並び、罵る者あり惜しむ者ありの中、鰐石河原で梟首されたとようだが、夜密かに首を取り去った者がいたという。武人は芸州柱島出身で、奇兵隊の総管となり、隊士は本当に心服していたようだ。

 

一昨冬俗論沸起の時、金六百両を周旋の爲めに取り入れて、夫より長太郎と脱走。京師に出て囚に就き、其の時甚だ叛心、我本國を攻べき手段を申出候由、此度芸より幕監連れ来って放つ。

一昨年の冬に俗論が勢いづいた時、金六百両を周旋の為に取り入れて長 太郎と脱走した。京都に出て捕らわれの身となり、その時謀反の心が立ち、自ら本国を攻める策を申し出したそうで、芸州より幕監を連れて地に送り込んだ。


由て大島邊へかくれ遂に刑せらる。憐むべくなり。年三十なり。(ありかを訴へたるは一向宗僧桑原多門なる者の由)

そういう理由にて大島付近に隠れ、遂に刑せられた。とても不憫に思う。年は三十である(在処を訴えたのは一向宗僧 桑原多門という者らしい)

 

○夜首を奪去りしは三、四人の士たり。内一人は養母なるもの男装し來たる由。番人是を咎むるに、刀を抜て追ちらし、其間に奪去ると云。

夜中首を奪い去ったのは三、四人の男である。内一人は養母が男装をして来たらしい。番人は彼らを咎めたが、刀を抜いて追い散らし、その隙に奪い去ったという。


此母實に烈婦といふべし。罪状は囚中、高杉を誅し諸隊を分散させねば長州を討平らくることは難しと幕吏へ申立るか罪なりと云。叉逆臣。

この養母は実に烈婦であろう。罪状は『 捕縛中に「高杉を攻め滅ぼし諸隊を解散させなければ長州を平定させる事は容易ではない」と幕吏へ申し立てたのが罪である 』という。また、逆臣。

 

梅田源次郎吟味申し立て 1

小浜藩士梅田源次郎外四人身元之儀ニ付覚


梅田源次郎外四人身元之儀、内密承探候趣、左之通御座候、
梅田源次郎(雲浜、定明)他四名の身元の件、内密に承り探ったところ次の通りでございます。

烏丸御池上ル二条殿町 
東側三軒目      
町中借屋      
儒者       
梅田源次郎  
四十二三才
家内上下七人暮

烏丸御池上ル二条殿町 
東側三軒目      
町中借屋      
儒者       
梅田源次郎  
四十二、三才
家内上下合わせて七人暮らし

右源次郎儀、若州藩中矢部源次舎弟之由、三条東洞院西江入町北側ニ借宅罷在、

源次郎は若州藩 中矢部源次の舎弟との事。三条東洞院 西江入町の北側に借家があります。


昨巳年冬前書之町分江転宅、是迄官武之内より召抱之沙汰有之候得共、相断居候由ニ而、当時重モニ青蓮院宮・長州屋敷江度々立入候由、此外官武所々江茂立入候趣ニ候得共、先々不相分候由、
昨年の冬にその町分へ引っ越し、これまで公家や武家から召抱えの指示がありましたが断っているとの事で、当時は主に青蓮院宮・長州屋敷へ度々立ち入っているらしくこの他公家や武家、あちらこちらへも出入りしていた様子ですが、その目的は不明。

 

東三本木丸太町上ル南町
東側         
木屋三郎助借屋    
儒者ニ而詩人之由
此星巖儀、此節流行病ニ而昨夕死去致し候由、
梁川星巖
七十才斗
家内上下五人暮

東三本木丸太町上ル南町
東側         
木屋三郎助借屋    
儒者、詩人
この星巖は最近流行病にて昨夕死去したとの事
梁川星巖(孟緯)
七十才ばかり
家内上下合わせて五人暮らし


右星巖儀、身元聢与不分、昨巳年十月頃迄加茂川東川端丸太町上ル町ニ借宅、前書之町分江転宅、官武之内江立入候趣ニ候得共、先々不相分候由、

星巖の経歴は確かではなく、昨年十月頃まで加茂川東の川丸太町上ル町に借家がありました。前述の集落へ転居し、公家や武家内部へ立ち入る様子がありましたが目的は分からずとの事。

 

室町夷川上ル町東側  
家持
御所典薬寮医師
安藤石見介
四十二三才
家内上下五人暮

室町夷川上ル町の東側

自宅を所有

御所典薬寮医師

安藤石見介

四十二、三才

家内上下合わせて五人暮らし

 

右石見介儀、播州出生ニ而、養父美濃介八九ケ年以前相果候付、養子ニ参り候者之趣ニ而、凡三日隔位ニ御所向江罷出候由、

石見介は播州の生まれで養父 美濃介が八、九年前死去に付き養子に来た者のようで、およそ三日間隔で御所向へ参上していたとの事。

 

西寺内

大宮七条上ル町
家主不分       
馬借渡世いたし居候、
周蔵事 
古高重助
三十四才

西寺内大宮七条上ル町

家主不明

馬借を生業としている。

周蔵こと古高重助

三十四才


右周蔵事重助儀、生国江州栗太郡古高村郷士ニ而、地頭代官役も相勤候者之処、村方納米勘定向不正筋有之、八九ケ年以前村方立退当地 所々ニ罷在、大津御代官所ニ暫手代いたし、四五ケ年以前より前書之町分ニ借宅馬借渡世いたし、本願寺家中向又者官武之内江立入候者之由、

周蔵こと重助は生まれは江州栗太郡古高村の郷士で地頭代官役も勤めている者で、彼は村方の納米勘定の不正に関わった件がありました。八、九年前に村方の当地を立ち退き、あちらこちらに転在。大津御代官所で暫く手代をし、四、五年前より前述の町分に家を借りて馬借を生業とし、本願寺内部、または公家や武家の内部へ出入りしていた者との事。

 

右之通相聞申候、尤大沢雅五郎之儀者跡より可申上候、先ツ此段申上候、 以上、

右の通り、聞きました。もっとも、大沢雅五郎は後ほど申し上げます。まずはこの段申し上げます。以上。

 

九月三日
「此風聞書者、昨日差上候梅田源一郎其外承合書ニ御綴済被成下候様仕度奉存候、」
大沢雅五郎身元承探候趣、左之通御座候、

九月三日

「この風聞書きも、昨日差し上げました梅田源一郎その他の承合書にお綴りいただきますようお願い申し上げます」

大沢雅五郎(鼎斎、敬迈)の身元探した件につきまして、左の通りでございます。

 

堺町二条下ル町東側 
永野屋次郎兵衛借屋
儒者      
大沢雅五郎
四十七才斗
家内上下六人暮

堺町二条下ル町東側

永野屋次郎兵衛借屋

儒者

大沢雅五郎

四十七才ばかり

家内上下合わせて六人暮らし

 

右雅五郎儀、十二三ケ年以前より前書之町分ニ借宅、近頃御役所学問所江茂罷出候者之由、

雅五郎は十二、三年前より前述の町分に家を借り、近頃は御役所学問所へよく参上する者との事。

 

一    同人兄ニ烏丸殿家来大沢酒造与申者有之、中立売辺ニ住居いたし候処、去ル寅年類焼ニ逢当時雅五郎方南隣家ニ罷在、同人方勝手より通路相成候由、

右之通相聞候付、此段申上候、以上、

一 彼の兄に烏丸殿家来 大沢酒造と申す者がおります。中立売辺りに住居していたところ、さる寅年安政元年?)もらい火に合いました。当時は雅五郎宅の南隣宅におり、勝手口から行き来していたらしいと聞き付けましたのでこの段申し上げます。以上。

 

九月四日

十月朔日 元小浜藩士梅田源次郎定明吟味申口

午十月朔日、梅田源次郎所持雑物書類之内を以、御不審之廉御吟味御座候付、源次郎申立承り書

九月四日

十月一日 元小浜藩士 梅田源次郎定明吟味申口

安政五年)、梅田源次郎(雲浜、定明)が所持していた細々とした物・書類の内容で不審な点を取り調べ、源次郎が申し立てた件についての書類です。

 

覚 
「壱之印」  一 四月廿七日附、梅田源次郎江赤根武人より差遣候書面之内、疑候得者不容易内通筋之体ニ相聞江、天下之形勢関東ニ而者儒者書生浪人ニ至迄作する事を忌諱セられ源次郎之風評有之、可致用心之文言等御尋御座候処、

(朱書)
「壱之印」一 四月二十七日付、梅田源次郎へ赤根(赤袮)武人から送らせた書面の内、疑わしく軽率にも協力者のように見受けられたので、天下の形勢 関東においては儒者、書生、浪士に至るまで作する事を嫌い避けられているという源次郎の噂がある。用心の為の言い回しだったのかなどを尋ねました。


源次郎申口
此儀赤根武人者、当年弐拾弐三才之若輩ものニ而、浦靱負家来赤根忠右衛門養子ニ有之一向宗同州遠崎明円寺月性与申もの之学弟ニ有之、同人同道一昨々年より上京いたし居、西本願寺別荘ニ罷在、一昨年月性帰国ニ付、武人此もの方ニ同居いたし、月性儀者当夏相果、武人儀者昨夏松平大膳大夫殿江戸表江御下向ニ付、武人儀も罷下り、漸此頃罷帰り、剣術相好候ものニ而、江戸表ニ罷在候節、

源次郎申口

この件、赤根武人は当年二十二、三才の若輩者で浦靱負 (元襄)家来 赤根忠右衛門(雅平)の養子であり、一向宗(周) 州遠崎明(妙)円寺月性と申す者の学弟であります。彼と共に一昨々年に上京し、西本願寺別荘に滞在していました。一昨年月性が帰郷した時は武人も共に生活致し、月性は当年夏に死去。武人は昨夏に松平大膳(毛利敬親)大夫殿が江戸表へご下向されるにあたり武人も下り、漸くこの間帰郷しました。剣術を好む者ですので江戸表に滞在した時は

 

当四月廿七日出之手紙ニ而、先年亜墨利加渡来之砌越州福井家老稲葉務人与申もの、若合戦ニ可相成も難斗候付、江戸江罷越所々之海防策等之便宜いたし呉候様申之、路用等呉候付、 五六人江戸表江罷下り候処、務人相果候間、京都江罷帰り候義も有之候付、江戸表ニおいても此もの名前高く御座候間、若如何之儀有之候而者与存心添いたし候儀与相見江候得共、何分武人者若年もの之儀ニ而、取ニ不足ものニ付、右等之儀返書等も不差遣捨置候旨申之候、

当四月二十七日に出した手紙において、先年アメリカが渡来した際、越州福井家老 稲葉務人と申す者が「もし合戦になってしまえば(どうなるか)見当もつかない」と江戸へ来て所々の海防策などの便宜をするよう申して旅費などをくれたので五、六人で江戸表へ赴いたところ務人が死去したので、京都へ帰った事はありました。江戸表においてもこの者(稲葉)は高名でありましたのでもしどのような事があっても考えがあってのことと見えるけれども、何分、武人は若者であり、未熟者であるから以上の事を返書なども送らせず放置するよう申しました。

 

桜田任蔵者、素常陸之もの之由ニ候得共、未タ面会不致旨申之候、
「右武人書面、源次郎答方之趣一段不分明ニ付、再御吟味御座候而可然候様奉存候、」

一 桜田任蔵(桜任蔵、真金)は元は常陸国に縁のある家柄のようであるけれども、未だ面会に来ない旨を申しました。

「前述した武人の書面(について)源次郎の答え方の様子が一際不明瞭だった為、再度取り調べしたく思います」

 

「弐之印」

一 四月廿九日、池田順平より梅田源次郎宛之書面之内、昨年来郷中江忠節之説を書毎度示シ、会毎ニ郷中之人江常々大義を説居、何分人気引立候得者宜様存、実者甲冑百弐三拾斗之事ニ候間、此上具足之千余も出来いたし候得者、急度御用ニも可相立様ニ存候旨ニ而、源次郎之計策者如何候哉之書面、且竹林氏江も伝声之儀認有之候儀を御尋御座候処、 

(朱書) 「弐之印」

一 四月二十九日、池田順平から梅田源次郎宛の手紙の内、『昨年郷中へ忠節の説を書いて毎度示し、会う度に郷中の人へ常々大義を説き、いくらか人気が引き立ちましたら宜しく思います。実は甲冑百二、三十ばかりの事ですが、更に具足の千余りも完成致しましたらきっと役に立つように思っております。源次郎の計略はいかがでしょうか』の文面、そして竹林氏へも伝言を認めたかを尋ねました。


此儀池田順平与申候者、紀州領之郷士ニ而、当時之住所不覚候得共、此もの方江素読稽古ニ参り候事も有之、其後大和十津川辺江参り素読講釈等いたし居候処、此頃ニ而者国元江罷帰り候由承り候、

この件、池田順平と申す者、紀州領の郷士で当時の住所は覚えていませんがこの者の所へ素読稽古に参った事もありました。その後、大和十津川辺りへ参り素読講釈などをしていましたところ、最近は国元へ帰ったと聞きました。

 

然ル処十津川者格別由緒有之候所ニ而、先年ヲロシヤ船大坂江渡来之砌差越候書面ニ而、泉州堺江五百人御加勢被仰付、然ル処右十津川与申候者御領地ニ而無年貢之場所ニ有之、郷中五拾八ケ村南北拾五里東西七里之谷ニ候而、毎度孫呉子之講釈師抔入込居、乍併至而貧窮ニ而難渋候得共、由緒有之、非常之節ハ公儀江御加勢ニ鑓千本を以可罷出由、右ニ付順平も書物読候もの故被相頼、甲冑も出来、村方も立行候様世話いたし呉候様、猶又同人より此もの江申越候義ニ有之、且長州産物之塩者相送り遣居候得共、

つまりのところ十津川は特別由緒がある所で先年ロシア船が大阪へ渡来した際に送った手紙で、泉州堺へ五百人の援軍を仰せつけられました。ところが十津川と申しましたら領地にして年貢の無い場所にあります。郷中は五十八ヶ所の村で南北十五里、東西七里の谷でいつも孫子呉子の講釈師などを入れ込んでいました。しかし極めて貧窮で難儀していましたが、由緒があり非常時は公儀へ加勢として槍千本を出せたとのこと。以上について順平も書物を読む者でしたので頼りにされており、甲冑も完成し、村も生計をたてられるよう世話してくれるように彼よりこの者へ申された事がありました。同時に長州産の塩も送ってやりましたが、


迚も難及与存込居、右者此度長州者兵庫之御加勢ニ付、十津川材木御買上ニ被成下度存付候間、其段願置候得共、今ニ御沙汰者無之、既先年浅野和泉守殿此もの江十津川江鉄炮之世話いたし遣候ハヽ、如何之旨御尋有之候得共、鉄炮玉薬共御下ケ相成候ハヽ可然旨申上置候儀も有之、全前書一条書面ニ御座候旨申之候、

とても達成するのは難しいと知っておりました。前述は、今回長州は兵庫の援軍であるから十津川の材木を買い上げたいとそのようにお願いしていたのですが、今でもご指示はなく、既に先年浅野和泉守殿がこの者へ、十津川へ鉄砲の世話をしてやっていましたのでどうしますかとお尋ねしましたが、鉄砲玉、薬ともお下げになられましたので状況に応じて適切に処理するよう申し上げておいた件もあり、全て前述の一条を書面にございます内容を申しました。


一     竹林氏与有之候者周助与申彦根之家来ニ而、京都ニ医業罷在中野若狭之甥歟之由、順平も周助方ニ同居罷在候もの之旨申之候、
「右順平書面、源次郎義容易く申立候得共、別格之知る人ニも無之段之申口ニ相聞候ニ対し候ハヽ、余り打明候文言ニ相見、今一応御尋之上、源次郎申口御熟考ならてハ何共虚実難分候様奉存候、」

一 竹林氏とある者は周助といい、彦根の家来にて京都に医行為を行なっており、中野若狭の甥だろうかとの事。順平も周助宅に同居している旨を申しています。

(朱書)「順平の書面(について)、源次郎はわけなく答えましたが、特別知っている人でもない件の申し立てを聞くにしては過度に打ち明けているように見え、念の為にお尋ねの上、源次郎の申し立てはよくよく思案しなくては何とも嘘か真かわかり難いように思います」

 

 

つづく

 

安政4年(ヵ)「松下村塾規則」

 

一、兩親の命必ず背くべからず

一、両親の言うことには必ず背かないこと。

 

一、兩親へ必ず出入を告ぐべし

一、両親へ必ず(塾への)出入りを告げること。

 

一、晨起盥梳、先祖を拝し、御城にむかひ拝し、東にむかひ 天朝を拝する事。假令病に臥すとも怠るべからず

一、朝早く起きて髪を櫛で整え手を洗う。先祖を拝み、御城に向かって拝み、天朝に拝む事。例え病に伏しても怠らないように。

文章には盥梳とあるが熟語としては「梳盥」

 

一、兄はもとより年長又は位高き人にはかならず順ひ敬ひ、無禮なる事なく、弟はいふもさらなり、品卑き年すくなき人を愛すべし

一、兄はもとより年長、又は位が高い人には必ず従い敬意を払い、無礼する事なく、弟はもちろんの事、下品な人や幼い人を愛すこと。

 

一、塾中においてよろづ應對と進退とを切に禮儀を正しくすべし

一、塾中において万事受け答えと身の処置とを心を込めて礼儀を正しくすること。

 

右は第一條より終五條に至り、違背あるべからず。若し背く者は第一條の科は必ず坐禪たるべし。其の他四條は輕重によりて罰あり

第一条から五条までの規則に背かないこと。もし背く者は第一条の咎は間違いなく座禅が相応だろう。その他四条は軽重によって罰がある。

嘉永6年6月、12月 清内・栄太郎→大野 2通

嘉永6(1853年)6月24日

吉田清内、栄太郎から大野信吾への書簡。
父である清内が栄太郎(稔麿)と連名にて記したもの。筆跡は清内のものだろうとの事

一筆啓上仕候 甚暑之節に御座候処、先以貴所様・御満家中様御安全に可被成御座珍重の至に奉存候 於為元親子共無意義相勤候間、乍憚貴意易思召可被遣候 且又当夏は殊外厚さ強く難凌、御国元も同様に御座候哉と奉存候

一筆失礼致します。暑い時期でございますが、兎にも角にも貴方様・御家族様方がとても健康にお過ごしとの事、大変喜ばしく存じます。貴方様のご助力の元、我ら親子共難儀無く勤める事が出来ています。また、今年の夏は殊更暑さが厳しく凌ぎがたく、そちら(萩松本村)も同様でしょうかと存じます。

 

猶又江戸表は異国船渡〔破損〕御大名様方へ御人数被差出候様御沙汰相成、…<省略>…其外手道具、足軽・弓組・鉄砲組・十三組、無柄白木綿にて後八巻、袖印長州何之何某と書付陣立同様に御座候

尚また江戸の方は異国の船が渡り〔破損〕大名様方の指示により人数を揃える事に相成りまして、…省略>…外手道具、足軽・弓組・鉄砲組・十三組、白無地の木綿布を後ろはちまき、袖印に長州の組と名前を書き付け、陣立も同様でございます。


出入共に殿様御式台下の板之間迄御出立、御之、御目見、夫より上の板之間え御床几え御召、…<省略>…先は暑中見舞旁以愚礼如斯御座候 恐惶謹言

 六月廿四日  吉田清内 同栄太郎

尚々幾重も(省略)御気体可被成御厭、乍憚御家内中様え宜敷御伝声奉希候 以上
出入り共に、殿様は式台下の板の間迄お出に到られますので、謁見時は、それより上の板の間へご床几へお召…<省略>…まずは前に書いたようにこの手紙をもって暑中のお見舞いとさせていただきます。恐惶謹言。

 六月二十四日    吉田清内   栄太郎

尚、何度も…<省略>…お体を大事になさるべく、恐れ入りますが御家族様へ宜しくお伝えくださいますようお願い申し上げます。以上。

床几→しょうぎ、と読む。折り畳み式の腰掛け


 追啓

留守中何かと御世話に相成千万難有、家内より御礼状差上呉候申〔破損〕然へく候様、夏書状差出不申候故、宜敷御〔破損〕御頼申上候。以上。

 大野信吉様 尊下
追伸
留守中何かとお世話になりまして本当に有難うございます。家内よりお礼状を差し上げてくれるよう申破損その様に、夏に書状を出せずでございましたので、宜しく〔破損〕お頼み申し上げます。以上。

 大野信吉様  尊下

 

 


嘉永6(1853年)12月8日

同上。大野信吾へ清内と連名の書簡。

一筆啓上仕候 甚寒之節に御座候得共、先以尊君様・御家内中様御壮健可被成御座珍重之御義に奉存候 於為元親子共に無異儀相勤候間、貴意易思召可被遣候
一筆失礼致します。寒さも甚だしい季節にございますが、兎にも角にも貴方様・御家族様方がとても健康にお過ごしとの事で大変喜ばしく存じます。その為貴方様のご助力の元、我ら親子共難儀無く勤める事が出来ています。

 

於御国許都合御静謐之御様子、江戸も御同様に御座候得共、此内より浦賀御引請に相成、猶又将軍宣下、且若殿様御登に付ては御住居え御普請有之、御屋敷内も殊外御閙敷何かと混雑仕候
そちら(萩松本村)の都合は穏やかなご様子、江戸も同様にございますが、この間より浦賀へお引き受けする事になりまして、尚又、将軍宣下を行われ、お屋敷内も殊の外忙しく何かとごたごたとしております。

 

且又月迫に相成、嘸々御用繁に御座候はんと奉存候先は寒中御見舞旁捧愚礼、如是御座候 恐惶謹言

 十二月八日 吉田清内 仝栄太郎
且つ、又月末になり、さぞさぞご用にお忙しくしているかと存じますので先立って寒中見舞いにて方々へ御礼申し上げ、以上の通りでございます(このような事でございます)恐惶謹言。

 

尚々幾重も御気分御厭専一之御事に奉存候 猶又留守共は大きにお世話相成、乍此上宜敷御頼仕候。乍憚御家内中様え宜敷御伝声奉希上候 以上

 大野信吉様 尊下
尚々、何度も重ねて(申し上げますが)お体を大事になさる事が一番に存じます。尚又、留守中はとてもお世話になっており、どうぞこの上ながら宜しくお頼み申します。憚りながらもご家族様へ宜しくお伝えいただきますよう、お願い申し上げます。以上

 大野信吉様 尊下

安政4年7月28日(ヵ) 松陰→岸御園

イタリック部分は富永有隣の筆

 

雲陣茶話寫させ候につき、小倉へ贈らるべく候 ◯川角太閣記二冊丈け貴覧に入れ候 ◯小金原御狩記一卷返璧 ◯先大津烈婦(登波)寫貌一條御周旋忝く候 討賊始末相濟み候はば御取りかへし下さるべく候

雲陣茶話、写させましたので小倉へ贈ってください。 ◯川角太閣記、二冊だけお見せ致します。 ◯(お借りしていた)小金原御狩記の一巻、お返し致します。 ◯以前、大津の烈婦(登波)肖像画の件、取り持ちくださり有り難うございました。討賊始末は済みましたら元に戻してくださるようお願いします。

雲陣茶話→著者は曲直瀬道三。毛利元就の島根陣中における見聞を心身の養生訓として意見したもの。雲陣夜話と合冊。

川角太閣記→江戸初期に書かれたといわれる。豊臣秀吉の逸話が書かれている。主に同時代の武士から聞書、著者は川角三郎右衛門。

小金原御狩記→各時代の徳川将軍(吉宗、家斉、家慶)が小笠原を中心に行った大規模な狩りの記録。

討賊始末→夫の仇討ちを求めて全国を旅した登波の記録。登波から話を聞き、吉田松陰が記した。

 

◯正氣歌の解の事、富永有隣へ託し申すべく存じ候 「志賀月明夜」は如何様有隣撿出の通りなるべし 此の所太平記など見候はば詳細に相分るべく候へども、座右に之れなく未だ撿せず候

◯正気の歌の解説の事は富永有隣へお願いしようと思います。「志賀月明夜」はどのようにも有隣が検出した通りでしょう。太平記など見ていれば詳細がわかるように思いますが、手元になく未だに調べられていません。

 

◯有隣歸着の事便も御座候はば世良へ御報知然るべく候 二十八日

正氣歌

志賀月明ノ夕 陽リテ鳳輦ノ巡ヲ作ス

◯有隣が帰った事、機会がありましたら世良(孫槌)へお知らせください。二十八日

正気歌

志賀月明ノ夕 陽リテ鳳輦ノ巡ヲ作ス


*1【八月、高時便を京に遣はし、天皇及び皇子入道尊雲新王 親王は 帝の第三子 帝特に之れを寵し幼にして兵部卿を拜す 後薙髪し、天臺座主となり大塔に居たまふ。時の人大塔の宮と稱す の海島に如かんことを請ふ

法親王天資勇武、兵術に達し劍法を善くす 乃ち策を進めて曰く、 陛下夜に乗じ南都に幸し、更に御布を近臣一人に假し、陽りて車駕山に幸するの儀を爲し以て賊兵 鎌倉の兵及び六波羅の軍士 を欺きたまへ、山徒之れを禦がんと

ここに於いて大納言師賢 花山院公 帝と詐り之れに赴く 賊兵鋭を盡して迫撃甚だ急なり 法親王自ら僧軍に將として之れを拒ぐ

帝潛かに笠置山に幸す 帝、京を出づるの日先づ南都に幸し松嶺寺に入り鷲峯に次り而して笠置山に至りたまふ 乃ち詔し伊賀・伊勢・大和・河内等の兵を徴す 中納言藤房 其の族稱は萬里小路 及び其の弟李房等之れに從ふ 師賢亦尋いで 行在に至る】

 

右 八月以下、國史略を鈔して以て之れを質す

右の八月〜からは国史略を写したもので、こちらを参考に質問します。

国史略→江戸後期の歴史書、5巻。巌垣松苗著。文政9年(1826)刊。神代から天正16年(1588)後陽成天皇聚楽第 (じゅらくだい)行幸に至るまでを漢文による編年体で述べたもの。

 

右は國史略四の冊十六丁の裡にあり ◯後醍醐天皇元弘元年なり 良哉の説も恐らく此の事ならんか

右は国史略 四巻の十六枚目の中*1にあります。 ◯後醍醐天皇(元弘の変)は元弘元年です。「良哉」の解釈もおそらくこの事ではないでしょうか。

*1 国史略」18コマ https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563266?tocOpened=1

 

安政5年6月 松陰→市之允

安政5年(1858年)6月

山田市之允が元服を迎えるにあたり、松陰は「與山田生」と題した漢詩を扇面に揮毫して授け立志の目標を示した

 

ほなな:3〜5行目は初見で「俗流」にかかっているものと感じたので、ひとまず訳をこう置いています

 

 

 

立志尚特異

(立志は特異を尚ぶ)

志を立てる時は、普通とは異なるように心掛けなさい。
俗流與議難

俗流與に議し難し)

努力をしなかったり出世や高禄に執着する者と共に論を交えるような、いたずらに時間を過ごしていてはいけない。
不思身後業

(身後の業を思はず)

彼らは死後、後世に引き継がれるべき己の業を考えたりしない。
且偸目前安

(且く目前の安を偸む)

ただ目先の快楽だけを求める。
百年一瞬耳

(百年は一瞬のみ)

そうなると、百年という時間も一瞬で過ぎ去ってしまう。
君子勿素餐

(君子素餐する勿れ)

君子たるもの、素餐してはいけないよ。