おべんきょうノート

自分用です。

安政6年2月某日 松陰→岡部

子揖・杉蔵の妻を持つは 尤も杉蔵近来親迎説はやめたか承りたし どうも其の説を得ず 説あらば知らせよ 富太は大俗物とか、杉蔵は勤王の事は言わぬとか、今日は大丈夫そんな閑言語、へらず口を開く時には之れなく候

子揖・杉蔵の妻を持つという 杉蔵は最近親迎説はやめたかお聞きしたい その考えは理解出来ない。 考えがあるなら知らせよ 富太は大俗物(世間的名誉や利益に心奪われた者)だとか、杉蔵は勤王の事を言わないだとか、今日は心配無い、そんな無駄話や減らず口を開く時ではない。

 

二子及び佐世は弟に家事を託し一身を丸で勤王にゆだぬべき身上と拙生は覚え候 先日子揖親迎論をせしは一時の拙策、僕實に之れを悔ゆ

二人、そして佐世は弟に家事を預けて一身全てで勤王に捧げるべき身の上であると僕は記憶している。先日子揖に親迎論をしたのは一時の駄策、僕は本当にこの事を悔いている。

 

今妻を持ちて明日にも打死せば 此の事篤と考へられ然るべし 中々婦人貞節一生を終へ候事六ヶ敷く、自然失節の事も之れあり候はば、忠義の士、失節の妻、是れ亦千歳の恥なり

今妻を持って明日にて討ち死にすれば この事はじっくりと考えるのが当然である 中々婦人は貞操を守ったまま一生を終える事が難しく、自ずと貞操を失う事もあるので、忠義の士が失節の妻を持つのは一千年の恥である。

 

尤も眞に俗物、眞に勤王を言はぬなら夫れで宜し 小生心腸百折、死せんと欲すれども名なく、生きんと欲すれども功なし

もっとも(二人が)本当に俗物で本当に勤王を言わないならそれで宜しい。僕は何度も挫折し、死を望むけれども名分もなく、生を望むけれども手柄もない。

 

來原を咎めることは堅く無用、只今諸友の議論にて來原歸着の上何の一言があるか 來原當八月に歸り候はば銃陣は屹と呑み込み來るべし

来原を咎める事は絶対にしてはならない、今、友人達の議論によって来原帰着の上で何の一言があるか。来原は当年八月に帰ってくるから銃陣はきっと理解してくるだろう。

 

吾が輩兀然と坐し、獄死も得せず、東轅も得返さず、大原策も遂げず、剰へ水戸生はむざむざ返す そして安然妻を擁するの富太は俗物になりたと云うて來原は同志ではなき様妄言すること、僕不平に堪へず

僕はこつぜんと座し、獄死も出来ず、藩公東勤の駕も返せず、要駕策も遂げず、あまつさえ水戸の者はむざむざ返す。そして息災で妻を持つ富太には俗物になったと言って来原は同志ではないといった出まかせを言う事、僕は不満で納得が出来ない。


元來來原を呼び返すこと僕が浅慮なり 周布の尻をはぐる位何ぞ來原の力をからんや 何とか屹と一柱立てさへすれば、來原は招かずして歸る男なり

そもそも来原を呼び返す事になったのは僕が浅はかな考えであったからだ。周布の正体を暴く程度どうして来原の力を借りるのか。何とかきっと中心に道筋を立てさえすれば来原は呼び寄せなくとも帰る男である。


昨日已來僕疳癪大いに起り、言々過激、此の言不平ならば御答は勿論爾後御書翰下さる間敷く存じ奉り候 足下今年二十一歳か、才気十分、此の時に及んで忠義をせず、功業を建てず、人を咎め自ら怠る、甚だ失望の至りなり

昨日以来僕は癇癪が大いに起こり、言葉も過激、この言葉に不満があれば返事は勿論、以降は手紙をくださらないようにお願いします。君は今年二十一歳か、才気は充分にある。この時になって忠義をせず、手柄を立てず、人を咎めて自ら努力しないとは非常に失望極まりだ。


今日差送り候擬明史の抄、後便に送るべき楊椒山等を見よ 中々一通りの男ではない 尤も椒山十九、妻張氏を娶り、四十乃ち義に死す 足下も是れに擬せば可なりとも謂ふべし さりながら今日の時事は則ち異なるのみ

今日送った擬明史の注訳、次の手紙で送る楊椒山などを見よ。中々、並みの男ではない。なるほど、椒山は十九歳で妻 張氏を娶り、四十歳で義を行って死んだ。君も彼を真似ればいいと思う。しかしながら、時代が進んでくれば物事の有りよう、状況は変わってくるものである。