おべんきょうノート

自分用です。

安政4年7月28日(ヵ) 松陰→岸御園

イタリック部分は富永有隣の筆

 

雲陣茶話寫させ候につき、小倉へ贈らるべく候 ◯川角太閣記二冊丈け貴覧に入れ候 ◯小金原御狩記一卷返璧 ◯先大津烈婦(登波)寫貌一條御周旋忝く候 討賊始末相濟み候はば御取りかへし下さるべく候

雲陣茶話、写させましたので小倉へ贈ってください。 ◯川角太閣記、二冊だけお見せ致します。 ◯(お借りしていた)小金原御狩記の一巻、お返し致します。 ◯以前、大津の烈婦(登波)肖像画の件、取り持ちくださり有り難うございました。討賊始末は済みましたら元に戻してくださるようお願いします。

雲陣茶話→著者は曲直瀬道三。毛利元就の島根陣中における見聞を心身の養生訓として意見したもの。雲陣夜話と合冊。

川角太閣記→江戸初期に書かれたといわれる。豊臣秀吉の逸話が書かれている。主に同時代の武士から聞書、著者は川角三郎右衛門。

小金原御狩記→各時代の徳川将軍(吉宗、家斉、家慶)が小笠原を中心に行った大規模な狩りの記録。

討賊始末→夫の仇討ちを求めて全国を旅した登波の記録。登波から話を聞き、吉田松陰が記した。

 

◯正氣歌の解の事、富永有隣へ託し申すべく存じ候 「志賀月明夜」は如何様有隣撿出の通りなるべし 此の所太平記など見候はば詳細に相分るべく候へども、座右に之れなく未だ撿せず候

◯正気の歌の解説の事は富永有隣へお願いしようと思います。「志賀月明夜」はどのようにも有隣が検出した通りでしょう。太平記など見ていれば詳細がわかるように思いますが、手元になく未だに調べられていません。

 

◯有隣歸着の事便も御座候はば世良へ御報知然るべく候 二十八日

正氣歌

志賀月明ノ夕 陽リテ鳳輦ノ巡ヲ作ス

◯有隣が帰った事、機会がありましたら世良(孫槌)へお知らせください。二十八日

正気歌

志賀月明ノ夕 陽リテ鳳輦ノ巡ヲ作ス


*1【八月、高時便を京に遣はし、天皇及び皇子入道尊雲新王 親王は 帝の第三子 帝特に之れを寵し幼にして兵部卿を拜す 後薙髪し、天臺座主となり大塔に居たまふ。時の人大塔の宮と稱す の海島に如かんことを請ふ

法親王天資勇武、兵術に達し劍法を善くす 乃ち策を進めて曰く、 陛下夜に乗じ南都に幸し、更に御布を近臣一人に假し、陽りて車駕山に幸するの儀を爲し以て賊兵 鎌倉の兵及び六波羅の軍士 を欺きたまへ、山徒之れを禦がんと

ここに於いて大納言師賢 花山院公 帝と詐り之れに赴く 賊兵鋭を盡して迫撃甚だ急なり 法親王自ら僧軍に將として之れを拒ぐ

帝潛かに笠置山に幸す 帝、京を出づるの日先づ南都に幸し松嶺寺に入り鷲峯に次り而して笠置山に至りたまふ 乃ち詔し伊賀・伊勢・大和・河内等の兵を徴す 中納言藤房 其の族稱は萬里小路 及び其の弟李房等之れに從ふ 師賢亦尋いで 行在に至る】

 

右 八月以下、國史略を鈔して以て之れを質す

右の八月〜からは国史略を写したもので、こちらを参考に質問します。

国史略→江戸後期の歴史書、5巻。巌垣松苗著。文政9年(1826)刊。神代から天正16年(1588)後陽成天皇聚楽第 (じゅらくだい)行幸に至るまでを漢文による編年体で述べたもの。

 

右は國史略四の冊十六丁の裡にあり ◯後醍醐天皇元弘元年なり 良哉の説も恐らく此の事ならんか

右は国史略 四巻の十六枚目の中*1にあります。 ◯後醍醐天皇(元弘の変)は元弘元年です。「良哉」の解釈もおそらくこの事ではないでしょうか。

*1 国史略」18コマ https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563266?tocOpened=1