おべんきょうノート

自分用です。

安政6年2月23日頃 久坂→松陰→某

黒字は久坂筆、赤字は松陰筆

久坂からの手紙の末に松陰が書き加え、某に出した書簡

 

 松陰先生に與ふる書
松陰先生足下、僕の歸るや將に先生と晤言し其の思ふ所を盡さんとす 而るに今既に繋がれて岸獄に在り、至痛至憾 然れども義事を謀りて敗る、鐵石笑坐之れ想ふべきなり

 松陰先生に与える書

松陰先生足下、僕が帰ったらすぐに先生と顔を合わせて語り合い、互いの考える所を全て吐き出そうと思っていました。それなのに現在既に捕縛されて獄にいらっしゃり、とてもつらくとても残念です。しかしながら義を成す行動を計画して敗れた事は、笑って獄中に座す鉄石の心と思うべきです。

 

頃ろ先生云々策を建てらるるを聞き、愕然として其の事決して成らざるを知る 夫れ 叡慮達せず、幕吏愈々驕る 是の時に當り列國、義として旁觀すべからず、況や本藩の 天朝に於ける、列國と異るものあるをや

この頃先生が云々策を立てられていると聞き、愕然としてその件決して成せないと理解しました。天皇のお気持ちに通じておらず、幕吏はますます驕ります。この時に当たり諸藩は義として傍観するべきではなく、ましてや本藩の天朝における諸藩との違いがあるなら尚更です。


然り而して内政修まらず正邪相軋り、大臣人なくして小臣安きに狎れ、勢義擧に難きものあり 僕の江戸に寓するや、熟々列國の時情を察するに、將軍宜下の後、諸侯益々鋒を斂め、尾・水・越諸藩の如き、火既に眉を熱する者も亦將に爲す所なからんとす

そして内政は落ち着かず善と悪が争い、立派な臣下がいなければ徳の無い臣下は安楽に慣れ、その影響で義挙を困難にする恐れがあります。僕が江戸に仮住まいしてよくよく諸藩の事情を考察するに、将軍宜下(朝廷が宣旨を下して征夷大将軍を任命すること)の後、諸侯は益々争う姿勢を辞め、尾張・水戸・越前藩のような焦眉の急(差し迫った危険がある)な者もまたすぐ動く所はなさそうです。


況や其の他腹背にも病を受けざる者をや 蓋し義の在る所は乃ち死の在る所、死は義に適かんのみ 何ぞ勢を之れ是に言わんや

ましてやその他前後にも影響を受けていない者なら尚更です。確かに義を為す所に死は付き物ですが、死んでは義は為せない。どうして勢いのままに言うのでしょうか。

 

勢を言ひて義に及ばざるは固より俊傑の取らざる所なりと雖も、而も世臣國を顧みるの情亦忍ぶ能はざるものあり 今春東覲の駕は實に已むを得ざる所にして流涕に堪へざるなり

勇ましい事を言って義に及ばないのは元来俊傑が用いない所ですが、それでも譜代の家臣が国を顧みる心情には堪えられないものがあります。今春、東覲(藩主が東勤)される事は実にやむを得ない所で流涕(激しく泣くこと)に堪えられません。


大高・平島の徒、伏見に駕を要す、其の志嘉すべし 然れども扈従の有司は率ね氣膽なく、幕吏の是に詟伏する者あり、其の皇京に左折せざるは章々たり

仲間である大高(又次郎)・平島(武次郎)は伏見要駕策を支持、その志は良しとしましょう。しかし貴人に付き従う役人は大体が気胆が無く、幕吏の意のままに服する者もいて、(要駕策を行っても役人が素直に)京に行かないのは明白であります。


其の強要の甚しきに至らば、則ちこれを京都所司代若しくは伏見奉行に告げ、以て桎梏せんも亦未だ知るべからず 而して海内相謗りて、長州氣節の士を縛すと曰はば、何ぞ勤王を爲すに在らん

強要が過度に到れば京都所司代や伏見奉行に告げて束縛しようとするのかもまだ分かりません。こうして国内で一斉に非難され長州気節の志士を縛すと言うならば、どうして勤王を為せるでしょうか(いや、為せません)


彼の徒桎梏を受くるに在るのみ、我が徒國辱を取るに在るのみ 而して遂に勤王に補なきなり 然らば則ち先生向に建つる所の謙遜策に過ぐるものなし

彼らは束縛を身に受けるだけですが、我らは国恥を得てしまいます。そうして遂に勤王に携わる事がなくなるのです。そうであるならば先生が以前立てた謙遜策に超えるものはありません。


頃ろ小田村士毅これを政府の間に論ずる所なり 昨夜諸同志の士來り會し、皆云々策の難きを言う 入江子遠は憂憤鬱積將に病を發せんとし、佐世八十も亦進退是れ谷まる

近々小田村(伊之助)さんが以上を政府へ論じようとしている所です。昨夜諸同志が集まり、皆ああだこうだと策の困難さを言います。入江杉蔵は重なる憂いや憤りで気が塞いでいてまさに発病しそうであり、佐世八十郎もまた進退に行き詰まって困り果てています。


東すれば則ち君父に背き、西すれば則ち先生に違ふ(この説小田村と符を合す:松陰筆)、是に於て窮死せんと欲すること屢々なり 二子の志寔に悲しむべし

東に行けば藩主と父に背き、西に行けば先生と意見を違える。(この考えは小田村と符合する:松陰筆)これによって処置に苦しみ死のうとする事が度々あります。二人の人を想いやる気持ちには、本当に心が痛みます。


抑々爲すべきの策あり、死すべきの節あらば、則ち僕の輭弱と雖も亦敢へて辭せざる所、何ぞ此れを以て之の二子を責めんや 先生の説乃ち曰く「死は勇を傷くと雖も苟も免かると孰れぞや、功成らずと雖も志尊ぶに足るあり」と

そもそも為すべきの策があり(その中で)死ぬべきとの点があるならば、僕が軟弱といえども無理にでも行おうとする所、なぜこの言葉を用いてこの二人を責めるのですか?先生のお考えは要は「死は勇を損なうといっても仮に逃げ腰になるのとどちらがいいか、例え功と成らなくても志を尊ぶに足るものがある」であります。


僕謂へらく、一人の生死固より論なきのみ 然れども國家の得失に係るに至りては則ち然るを得ざるものありと 今僕無策を以て先生の策を沮む 先生僕を罵りて苟も免かると爲すこと知るべし 然れども僕敢へて言わざるを得ず 先生願幸くは再思せられよ 時春寒、國の爲めに愛嗇を加へられよ

僕が考えるに、一人の生死は元来論ずるまでもない事です。しかし国家の損得に関わるならばそうせざるを得ない事もあります。今、僕は無策であると(いう理由で)先生の策を阻止します。先生が僕を逃げ腰と罵りなさる事はわかります。しかし僕は敢えて言わざるを得ません。先生、願わくばもう一度考え直してください。春寒の候、国の為に愛惜を与えてください。

 

重ねて白す、松洞の歸るや、先生大いに唾罵を加へ、今や其の反正を悦ぶの詩を作る 曩には無逸の心死を哭して又之れを稱するに清正等の事を以てす 其の人材を駕馭するの術巧なりと謂ふべし

重ねて申します。松洞が帰ると先生は非常に唾罵(口汚く罵る)を加え、今やその反正(元の状態に返すこと)を喜ぶ詩を作る。以前には無逸の心死を大声を上げて泣き叫び、またこれを褒める時に清正などの事漢詩や行動)を用いる。有能な人物を使いこなす技は巧みであると思います。


然りと雖も術の巧なるもの、人却つて疑を容る 故に巧詐は拙誠に若かずと 宜しく僕等を遇するには其の誠にして巧ならざるものを以てせらるべし 至願至願 二月二十三日 日下誠再拝

そうではありますが技が巧みであるものには、人は却って疑いを持ちます。だから「巧詐不如拙誠」(巧みに誤魔化したものは拙くても誠意・真心のあるものには及ばない/『韓美子』説林上)なのです。是非とも僕らの待遇もその誠意でもって誤魔化しではないもので取り扱いください。どうかお願い致します。二月二十三日 久坂誠再拝

 


佐世の事、小田村・久坂皆云ふ、「西すれば則ち師友に違ひ、東すれば則ち君父に負く」と 此の説甚だ不満なり 君父に負かしむる師友、師友とすべけんや 人の師友に貴ぶ所は忠孝の大事を了せんとなり

佐世の事、小田村・久坂、皆言う「西に行けば師友(師と仰ぐほどの友人)と意見を違え、東に行けば藩主と父に背く」と。この考えにとても不満である。君父に背かせる師友は、師友と出来ようか。人が師友を尊敬するのは忠孝の大切さを悟っているからだ。


佐世の心事、實に右の通りならば、僕へ絶交さへすれば相済む事なり 若し忠孝の事に付き疑あらば一面致したし 尤も此の事小田村・久坂には秘中の秘に致すべし

佐世の悩み事が本当に右の通りならば、僕と絶交さえすれば済む事だ。もし忠孝の事で疑いがあるのならば一度面会したい。尤もこの事、小田村・久坂には絶対に秘密にすること。