おべんきょうノート

自分用です。

戊辰戰爭實歴談

会津白虎士中二番隊隊士 酒井峰治

明治年間に書き認めた手記

原文にはない注記や補足:青括弧()

今般福良村ニ出張精々盡力ノ段一統大儀

右ノ通り福良村ヘ出張ノ際ニ大殿様ヨリ城中大書院ニ於テ  御言葉ヲ賜フ茲ニ記憶ヲ録シテ此編ノ諸言トナス

この度福良村(現在の郡山市湖南町福良地区)に出張し最大限力を尽くした事、誠にご苦労であった。

右の通り福良村へ出張の際に大殿様より城内大書院においてお言葉を賜る。ここに記憶を残してこの手記の序文とする。

大書院→付書院をつけた表座敷、客間

慶應三年三月中白虎二番隊士中ニ列シ城中三ノ丸ニ於テ幕人畠山某外幕府旗下ノ士藪名及會藩士柴五三郎氏外兩三名ニ就キ三月中旬ヨリ七月七日迄佛式練兵ヲ講習ス

慶応三年三月の事、白虎士中二番隊として城内三ノ丸において幕府の者 畠山某とその部下数名、会津藩士 柴五三郎氏とその他二、三名、三月中旬から七月七日まで仏式(フランス式)練兵を講習した。

 

同七月八日若君ニ扈シテ福良村ニ出張中毎日練兵ス且山中ニ入リテ散兵ヲ以テ空砲ヲ放チテ若君ノ御覧ニ供ス當時用ユル所ノ砲ハ「ヤーゲル」ナルヲ似テ火門塞リテ丸ヲ發スルニ苫ム村東ニハ一番隊西ニハ二番隊ヲ出シテ番兵ス既ニシテ福良村ヨリ直チニ原村ヲ經テ若君ニ扈シ猪苗代峰山土津公神社ニ御參拝セル

同年七月八日若君徳川慶喜に随従し、福良村に出張中は毎日訓練を続けた。山の中に入り、散兵戦術により空砲を放って若君にご覧になっていただいた。当時所持していた砲は「ヤーゲル」で、火口(点火口)を塞いで丸弾を発射するのに苦慮した。村の東には一番隊、西には二番隊から見張りを出した。福良村から原村を経て若君に随従し猪苗代峰山にある土津公の神社(現在の土津神社)にご参拝した。

 

后チ猪苗代ニ一宿シテ若松ニ歸レリ時ニ寄合白虎若君御迎ヘトシテ長泥ニ出テ居ル者其勇壯喜躍ニ堪ヘズ而シ八月二十二日ニ至リ敵軍戸ノ口原ニ来リシト報ズルニ依リ其ノ日十時頃ニ隊長日向内記宅ニ同隊 悉ク集リ居レリ皆云フ「ヤーゲル」砲ハ用ヲ爲サズ更ニ別銃ヲ受取リ戰ニ趣カザルベラズト

その後猪苗代に一泊し、若松に帰っていた時に寄合(中士)白虎隊が若君をお迎えする為に長泥まで出ていて、その勇壮さに喜躍した。八月二十二日、敵軍が戸ノ口原に来たと報告を受け、十時頃に日向内記 隊長の邸に同隊が集まった。皆で「ヤーゲル銃は役に立たないので別の銃で戦に赴きたい」

勇壮→勇ましく意気盛んな様

喜躍→踊り上がるほど大きく喜ぶ事

城中ノ武具役人曰ク他ニハ唯ダ御備銃アルノミ之レヲ渡スハ不可ナリ隊中颺言スルモノアリ無用ノ銃ヲ携ヘテ戰ニ赴ケト令スル者何人ゾ宜シク殺戮シテ余等モ自殺セント決ス遂ニ馬上銃ヲ受取ル馬上銃ハ短ク且ツ輕クシテ白虎隊ニ頗ル適當セリ

そう城内の武具役人に言うと「他には予備の銃しかないので渡せない」と返答され、「貴方がたが役立たずの銃を携えて戦へ行けと仰るならば、(貴方が)何者だろうと殺戮して私も自決する」と声を大にして言い放つ者も出、遂に馬上銃を受け取る。馬上銃は短く軽く、白虎隊にとってとても使いやすかった。

 

廿二日君公ニ扈シテ蚕養口ニ出ツ時ニ塩見常四郎戸ノ口原ヨリ馳セ来リ出兵ヲ促スコト甚ダ急ナリ乃チ半隊ヲ瀧澤東ニ進メリ又継テ其半ヲ進メテ前半隊ニ合セシム戰友皆喜躍シテ瀧澤峠ヲ越ヘ舟石ニ達スレバ敵軍大砲ノ聲耳ニ入ル

二十二日藩公松平容保に従い、蚕養口(現在の会津若松市蚕養町)に出た時に塩見常四郎が戸ノ口原から駆け付け、突然出兵を促した。そこで半隊を滝沢の東に進め、続いて残りの半隊を進めて合流させた。仲間は皆楽しそうに滝沢の峠を越え、舟石に到着した所で敵軍の大砲の音が耳に入った。

 

依テ舟石茶屋ニ於テ丸込ヲ為シ携帯品ヲ舟石茶屋ニ預ケ特ニ身軽装トナリ舟石茶屋ヨリ駆ケ足ニテ強清水ヲ過キテ約一丁半行キテ左方ノ小山ニ登リ茲ニ穴ヲ掘リ胸壁ト為ス時ニ官兵ハ四五丁ヲ距ツテ数千人居ルヲ認ム

舟石茶屋にて丸弾を込め携帯品を舟石茶屋に預けて軽装になり、舟石茶屋から駆け足で強清水を約一丁半(163mほど)行き、左側の小山に登ってここに穴を掘り、胸壁とした。官兵は四、五丁(428〜545m)の距離の先に数千人居るのを確認した。

一丁(一町)→およそ107〜109m程度

胸壁→防御するための背の低い壁面

是レヨリ戸ノ口原ニ達スルニ幕兵八十五六人喇叭ヲ吹テ敵軍ニ向フアリ是レニ於テ其側ノ山ニ登リ身ヲ匿クシテ敵状ヲ窺フ既ニシテ胸壁ヲ築キ陣ヲナシ其上ニ 於テ一戰シ我ガ軍利アリ

これから戸ノ口原に到着するという時に幕兵八十五、六人がラッパを吹いて敵軍へと向かっていた。(我らは)そちら側の山に登り身を隠して状況を窺う。既に胸壁を築いて陣を為した上で(敵軍と)一戦し、我軍に利があった。

 

敵退キ更ニ大砲ヲ引キ来リ戰フ(進撃兵二三十名馳来リ繁敷戦闘セリ乃チ午後四時頃ナリ亦此山続キニ於テ幕兵八十五六人喇叭ヲ吹テ敵軍ニ向テ闘ヒツツアリ)時我敢死隊若干名和銃或ハ鎗等ヲ携ヘ進ミ来ル(敢死隊ハ乃チ抜刀隊ト同シ)

敵軍は(一度)退いたが、更に大砲を牽いてきて戦った(進撃兵ニ、三十名が駆けつけて来て激しく戦闘をする、午後四時である。またこの山続きには幕兵八十五、六人がラッパを吹いて敵軍に向かって戦っていた)我軍敢死隊の若干名は和銃(五匁玉火縄式銃?)、或いは槍などを携えて進んで来た(敢死隊は要は抜刀隊と同じ)

 

白虎隊ハ此處ヲ其敢死隊ニ讓リ赤井谷地ニ轉シ敵ヲ挟ミ撃タントス敵ハ本道ノ兵ヲ尾シテ城下ニ達ス我隊側ヨリ敵ヲ砲撃スルモ利アラズ退軍ノ令ニ依リ時ニ八月廿三日大暴風雨ヲ侵シテ新堀ノ處ニ至リ身ヲ潜ム而シテ土堤ノ高サ五六尺其上ニ攀ヂ登リ敵ノ来ルヲ狙ヒ立打ヲ為セシハ獨リ石田和助ナリ時ニ伊藤俊彦ハ見エズ戦友一同大ニ心痡シ居ル処ヘ俵ノ棧底ヲ冠リ来レリ其氣ノ勇壮ナルニ驚カザルハナシ

白虎隊はこの場を敢死隊に任せ赤井谷地に移動して敵を挟み撃ちにしようとした。敵は本道の兵を追って城下に到達、我々は敵に向けて砲撃したが効果は得られなかった。退軍の命令により八月二十三日大暴風雨となったので新堀に行き身を潜めた。その土堤(土手)の高さは五、六尺、その上によじ登り立ち上がって敵が来るのを狙い撃ちしようとするのは石田和助である。伊藤俊彦の姿が見えず、戦友一同で大変心配していたところへ俵の桟底を頭に被って(伊藤俊彦が)やって来たので、その意気の勇ましさに驚かない者はいなかった。

 

廿三日ノ朝赤井新田ヲ引キ揚ゲ江戸街道ヲ経テ穴切坂ヲ下ダリ若松ヲ指シテ西ニ向フ其左ニ山路アリ時ニ山内小隊長跡ヨリ来リ山路ニ入リ隊士ニ謂テ曰ク子等何処ニ赴カントスルヤ石山虎之助進ミ出テ大聲ヲ發シテ答テ曰沓掛ニ赴テ決戰セント欲スルノミト答フ

二十三日の朝、赤井新田を退き上げ江戸街道を抜けて穴切坂を下り、若松を目指して西へ向かう。左側には山路があった。その時、山内小隊長が後からやって来て山路に入り、隊士に「お前たちはどこに向かおうとしているのか」と聞いた。石山虎之助が進み出て大きな声で「沓掛に行って決戦したく思っています」と答えた。

 

小隊長曰ク敵ハ衆ニシテ我寡ナレバ徒ニ犬死ヲ為サンヨリハ我ニ隋ヒ一敵ヲ避ケ後圖ヲ為スベシト進メラル虎之助憤然トシテ曰ク小隊長ニシテ猶能ク腰ヲ抜カサルルカト謂ヘリ

小隊長は「敵は大軍であり我等は小軍である。いたずらに犬死にをするよりは私に従い、ここは敵を避けて再起を図ろう」と進言された。虎之助は憤然として「小隊長であろうお方が躊躇うとは、よもや腰を抜かされたのですか」と言った。

 

小隊長モ亦憤然トシテ曰ク勝敗ノ機ヲ見ズシテ進死スル小児ノ了簡ニ過キズ宜シク予ガ指揮ニ従ヒテ来ルベシト云ヘ棄テ山路ニ向ヒテ去ラル後全隊モ之レニ隨ハントシテ除々歩ヲ進メシモ小隊長ト遂ニ相失シ路三所ニ岐ル酒井峰治ハ中心ノ路ニ入リテ紙製草鞋ヲ履キ直シ(紙製ノ草鞋濡レ湿リタルミ困リ大ニ困却セリ)

小隊長もまた憤然として「勝敗の機を見ずに進んで死のうとするなど子供の考え(了見)に過ぎない。私の指揮に従い、ついてくるように」と言い捨て、山路に向かって去った後を全隊も従おうと徐々に歩みを進めたが遂に小隊長を見失い、路が三つに分かれた場所に出た。酒井峰治(自分)は真ん中の路に入り、紙製の草履を履き直し(紙製の草履は濡れると湿るので大変苦慮した)

 

戦友ノ来タルヲ待ツ居レリ然ルニ戦友ハ何レモ外ノ路ニ入リテ會見スル能ハズ左ニ入ルモノアリ右ニ入ルモノアリ余ハ左セズ右セズシテ中ノ路ニ入リ隊の継ギ来ルヲ待チ且ツ紙製草鞋ノ歩シ難キオ以テ除々澤ヲ下タル時ニ馬ノ嘶ク聲ヲ聴ク若シ敵軍ニ逢ハバ擒トナルハ耻ナリ只自殺セントノミ決心シテ近ズキ見レバ豈ニ圖ランヤ農馬ナリ傍ノ仮小屋ニ母子ト覺シキニ二人ノ農夫ナリ余之レヲ見テ憐恤ヲ乞フテ曰ク

戦友が来るのを待っていたが戦友はいずれも他の路に入ったようで、誰とも会わなかった。左路に入った者もあり右路に入った者もあり、私は左でも右でもなく真ん中の路に入り隊が続いて来るのを待ちつつも紙製草履の歩き辛さから徐々に沢を下っている時に馬のヒンといななく声を聴いた。『もし敵軍に会えば捕虜となる。それは恥だから(敵であれば)自殺しよう』と決心して近付き見れば、意外にも農耕馬だった。傍の仮小屋に母子と思われる二人の農民がいた。私はこの様子を見て憐恤を乞い、

憐恤→哀れみ、金品などを恵むこと

余ハ戰利アラズ且ツ隊ト相失シ道ニ迷テ此處ニ至ル願クハ我ヲ案内シテ本道帰路ニ出シ呉レト金壹両貮分ヲ與フモ肯カズ依テ更ニ壹両貮分ヲ出シ其母傍観ニ忍ビズ其子ニ案内ヲ勧ムルニ仍テ其子余ヲ導キテ猫山ヲ經テ瀧澤ノ不動瀧上方ニ至テ別レヲ告ケ去ル余獨歩シテ瀧澤村ニ至ラントスレバ又次郎ノ父某ニ逢ヒ(又次郎ハ瀧澤村ノ百姓ナリ)

「私は戦う機会もなく仲間とはぐれ、道に迷ってここに出てしまった。願わくば私を帰路の本道まで案内してくれないだろうか」と金一両二分を与えるも頷かない。更に一両二分を出すとその母も傍観に耐えられず子供に案内を勧めた。よってその子供の案内で猫山を経て滝沢不動滝の上方に到着し、子供と別れた。私は一人歩いて滝沢村に向かう途中、又次郎の父に会った(又次郎は滝沢村の百姓である)

 

若松ニ帰テント欲スルノ意ヲ述ブ某答テ曰ク敵既ニ路ヲ遮ギリ厳重ニ塞ギ居レリ到底通スベカラズト云ヘリ是ニ於テ大藪道ヲ潜リ夫レヨリ白禿山ニ至牛ケ墓村ノ百姓庄三ヲ尋ヌルモ居ラズ(御城ノ落チタルヤ否ヤヲ問フ為メニ百姓庄三ヲ尋ネシモ居ラズ)

若松に帰りたいという気持ちを伝えると彼は「敵軍はすでに路を遮り厳重に警備しており到底通れないだろう」と言うので、大薮の道を潜って白禿山に至る。牛ヶ墓村の百姓、庄三を訪ねたが不在だった(お城が落ちたのかどうかを問う為に百姓 庄三を訪ねたが不在)

 

更ニ他人ニ問フモ何ズレモ答フル者ナシ蓋シ余ヲ見テ急ニ身ヲ隠クセルナリト認ム余依テ網張塲ノ松蔭ニ至リ自殺セント決シ其処ニ至ルヤ先ツ小刀ヲ脱シ合財袋ヲ解茲ニ自殺セント決シタル所ヘ庄三及齋藤佐一郎ノ妻ト両人馳セ来リ曰ク自刃ヲ急グ勿レト余乃大小刀ヲ隠シ之チ余月代ヲ剃リ落シ髻ヲ藁ニテ結ヒ代ヘ余ヲ農人ニ扮装シ姑ク難ヲ遁レシム

更に他の者に問うも答える者はいなかった。どうやら私を見て急に身を隠そうとしていた。私は網張場の松蔭で自決しようと決め、そこに向かうとまず小刀を抜き合財袋を解いてここに自決しようと決心した所へ庄三と斎藤佐一郎の妻の二人が駆けて来た。「自刃を急いではなりません」と言い、大小の刀を隠し、私の月代を剃り落とし髷を藁にて結い代え、私を農民の格好に変装させて難を逃れられるようにした。

合財袋→身のまわりの細々とした物を入れて持ち歩く袋。合切袋、信玄袋ともいう。明治20年以降に生まれた語。

余農夫ノ群ニ入リ火ニ就キ煖ヲ取リ居リシニ我ヲ呼ブ者アリ顧レバ同隊ノ伊藤又八ニシテ(伊藤又八ハ 白虎二番隊ノ同志甲賀町通リ二ノ丁角ニ住ス知行四百石ヲ領セリ) 農装シテアリ乃チ共ニ山上ニ登リ城ノ陷ルヤ否ヤヲ見ルコト久シ

私は農夫達と火にあたり暖をとっていると私を呼ぶ者がいた。振り返れば同隊の伊藤又八で(伊藤又八は白虎二番隊の仲間。甲賀町通り(こうかまちとおり)のニ之丁の角に住んでいる。知行は四百石を領する)(彼も自分と同様に)農民に変装しており、共に山上に登って城が落ちたか否かを長い時間じっくりと確かめた。

 

日暮松茸山ニ入リテ相倶ニ其小屋ニ憩フ時余ノ傍ヲ過クルアリ能ク顧ミレバ豫而始終牽キ連レ行ク愛犬「クマ」ナリ(前々ヨリ始終鳥殺生等ニ行ク毎トニ牽キ連レ居ル愛犬ニ逢ヘリ) 則チ聲ヲ挙ゲテ其名ヲ呼ベバ停テ余ノ面ヲ仰ギ視ルヤ疾駆シ来リテ飛付キ歓喜ニ堪エザルノ状アリ

日暮れに松茸山に入り(伊藤又八と)一緒に小屋で休息をとっている時、私の側を通り過ぎるものがいた。よく見れば(私が)かねてよりいつも引き連れていた愛犬「クマ」だった(前々よりいつも鳥を捕獲する等に行くたびに引き連れていた愛犬と会った)ので、声を上げて名前を呼ぶと止まって私の顔を仰ぎ見るや走り寄り飛び付いてきた。喜ぶ気持ちを抑えきれないという様子であった。

 

余モ又悵然トシテ涙ナキ能ハズ其頭ヲ撫シテ曰ク愛狗能ク何ヲ以テ是ニ至ルト(我家ニ飼ヒシ犬ノ余ヲ尋ネテ来リ喜躍ニ堪ヘザルガ如シ)乃チ余腰ニ帯ヒシ結飯ヲ與フ又八ト共ニ其小屋ニ臥セリ

私もまた(愛犬との再会に安堵すると共に自らの現在の境遇を自覚した?)深い悲しみに涙が流れた。「愛しいクマ、よくここまで来てくれた」とその頭を撫でながら言った(我が家の飼い犬が私を訪ねて来た事が嬉しくて堪らなかった)私は腰に携えていた握り飯を与え、又八と共に小屋で眠った。

 

夢カ幻カノ中ニ犬ノ呼ブ聲アリ余之レヲ呵スルモ止マズ(愛犬一吠直ニ盡ス更ニ結飯一個ヲ與フ暫ク口ニ啣テ噛マズ周囲ヲ徘徊シ楽ム者如シ蓋シ其此ニ来リシ所以ハ平時余暇アレバ彼レオ伴ヒ禽鳥ノ捕獲ニ来リテ道ヲ暗シタレハ城下ノ人家兵燹ニ罹リ食ヲ求メテ来リシ者ナラン)

夢か幻かの中で犬の呼ぶ声がした。私が叱っても止まなかった(愛犬が一吠え尽くしたので更に握り飯一個を与えると暫く口に咥えたまま楽しんでいるかのように周囲をうろついていた。そうこうした由はおそらく、普段暇があれば愛犬を連れて鳥類の捕獲に来ていたので(愛犬が)道を憶えており、城下にある人家は戦火に焼かれてしまったので食糧を求めてやって来た者がいた(から獲物と思い吠えた)のだろう)

 

少焉ニシテ人アリ来リ呼ブ臥シ居ルハ誰ゾト云フ余ハ行人町ノ酒井ナリト答ヒシニ鳴呼酒井様カ僕ハ庄三ノ兄弟ナリ貴殿ハ何故ニカ此処ニ至ルト余答フルニ實ヲ以テス某曰ク白川口ヨリ退ク所ノ人七百人彼ニ在リ貴殿モ宜シク彼レニ列シ共ニ城ニ入ルベシ依テ小屋ヲ出テ山ヲ下ル時ニ(又八ト倶ニ山ヲ下ル)

暫くして人が来て「そこに伏せているのは誰だ」と呼んだ。「私は行人町の酒井です」と答えると「ああ、酒井様ですか、僕は庄三の兄弟です。貴方は何故このような場所にいらっしゃるのですか」と聞くので私はこれまでの真実(根本)を話した。彼が言うには、「白河口より退いて来た者が七百人余りいるので、貴方もその者達の列に入って一緒に城に入られるとよいでしょう」との事で小屋を出て山を下る時に(又八と一緒に山を下る)

 

近ツキ見レバ籾山八郎ナリ(籾山八郎與力ニシテ敢死隊ノ人年ノ頃三十ニ三ニ見エ)云フ余ハ大龍寺ノ 住職トナル共ニ寺ニ赴カバ馳走スベシト共ニ至ルモ何ノ品モ食フベキナシ寺ヲ出テ水尾村ヲ経テ栗實ヲ喰ヒツツ野郎ガ前ニ至ル遂ニ東山ニ入リ人足ノ姿トナリテ労ヲ取ル時ニ火災起リ東山全滅ニ期セリ(始終愛犬ヲ連レ居レリ)

近付いて見れば籾山八郎であった(籾山八郎は与力であり敢死隊の者である。年は三十二、三に見える)「私は大龍寺の住職だ。共に寺に来れば馳走しよう」と言うのでついて行ったが寺には食べるものは何もなかった。寺を出て水尾村を経て栗の実を食べつつ野郎が前(奴郎ヶ前)に到着、遂に東山に入り人足の格好をして(東山には温泉があるので)これまでの疲れを取ろうとした時に火災が起こり、東山の全滅を覚悟した(終始愛犬を連れていた)

人足(にんそく)→土木作業や荷役など力仕事をする労働者

爰ニ於テ大ニ火災ヲ救フ一、 狐湯ノ胡麻餅「おとめ」ニ出逢ヒ伊藤又八ト共ニ愛犬ヲ牽キ連レ青木山續キノ山ニ上リ城ノ安否ヲ窺フニ甚深霧ニテ見エズ食物モナケレバ大ニ困却セリ而シテ復タ胡麻餅「おとめ」 出逢ヒ「おとめ」ノ曰ク日向様ガ此大藪ノ中ニ隠レテ居ラルル故逢フテ聞カルベシト云ウニ依リ直ニ権六ノ母ニ逢ヒタル処(又日向の隠居ニモ會見セリ)

ここで火災の救援を大いに行った。狐湯の胡麻餅『おとめ』(売り子?)に出会い伊藤又八と共に愛犬を引き連れ青木山から続く山に登り城の安否を窺うも深い霧で見えなかった。食糧もなくとても困っていると再び胡麻餅『おとめ』に出会う。『おとめ』が「日向様がこの大薮の中に隠れておられるのでお会いして(状況を)聞かれてみては」と言うのですぐ権六の母君に会ったところ(また、日向の隠居にも会見した)

 

而シテ権六ノ母氏余ニ権六ノ居所ヲ尋ネラレシガ余ハ別隊ナレバ一番白虎隊ノ居ル所ハ一切分ラズト答フ母又云彼ノ大藪ノ中ニ私ノ隠居アリ赴カルベシト 依テ行テ飢ヲ乞フニ飯ナシ鮒ノ汁ヲススルニ其美味言フベカラズ伊藤云フニハ吾ハ城ニ入ラズ内ノ家族ハ北方漆村ノ善内ノ家ニ皆集リ居ル約束トテ別レ去ル既ニシテ大平口ヲ引揚ゲシ兵士東山ニ屯シアリ時ニ原田主馬隊ニ逢フ

権六の母君は私に権六の居場所を尋ねられたが私は「別隊なので一番白虎隊のいる場所は一切わかりません」と答えると彼女はまた「あの大薮の中に私の隠居がおりますので行かれませ」と言った。そちらへ伺い空腹を乞うと飯はなかったが(出された)鮒の汁をすするとその美味しさは言葉には出来ない。伊藤は「私は城に入らない。自分の家族は北方漆村の善内の家に集まる約束をしているから」と言ってそこで別れた。既に大平口から引き上げてきた兵士は東山に滞在していた。その時、原田主馬隊に会った。

 

二十五日ノ暁ニ院内橋ヲ経テ小田山下ヨリ天神橋ヲ渡リ道ヲ別ニシテ三ノ丸ノ赤津口ヨリ笹ヲ振リ大聲ヲ發シテ城ニ入リ始メテ命ヲ拾ヒシ心地セリ然レトモ余ハ農夫ノ装姿ニテ人足トナリテ入リシテ以テ銃ヲ持タズ庄田又助氏ニ謂請ヒ隊ニ列シ一発本込メ銃ヲ渡タサル

二十五日の夜明けに院内橋を過ぎて小田山下から天神橋を渡り道を別にして三ノ丸の赤津口から笹を振り大声を発して城に入り、初めて命拾いした心地になったが私は農夫の格好で人足になって入っているので銃を持っていない。庄田又助氏に頼んで隊に入り、一発元込銃を渡された。

 

是レヨリ本丸ヘ彈薬ヲ受取ニ行ク然ルニ圖ラズ同隊ノ永峰勇之進氏ニ面接農夫ノ姿ニテ居ルヲ改メ更ニ木綿ノヅボンヲ穿チ居ルニ逢フ依テ余モ又農夫ノ姿ヲ改メ木綿ノヅボンヲ穿チテ永峰氏ニ同隊ハ如何ト問フニ永峰氏曰ク同隊ハ西出丸ノ金吹座ニ居レリト答フ是ニ於テ永峰氏ト共ニ之レニ赴クニ隊長半隊長 小隊長其他四五人居ルヲ見ル時ニ廿五日ナリ本丸ニ兵粮受取ニ赴く途中余ノ實兄ニ逢テ家内ノ状ヲ問ヒ且ツ長脇差一本貰ヒタリ

これより本丸へ弾薬を受け取りに行くと偶然にも同隊の永峰勇之進氏が農夫の格好を改めて木綿のズボンを穿いているところに遭遇した。私もまた農夫の姿を改めて木綿のズボンを穿いて、永峰氏に「同隊はどうなったのですか」と問うと「同隊は西出丸の金吹座に居る」と答えられた。こういう訳で、永峰氏と共に向かうと隊長、半隊長、小隊長、その他四、五人居られるのを見たのが二十五日の事だった。本丸に兵糧を受け取りに行く途中、私の実兄に会って家族の状況を問い、長脇差一本を貰った。

 

夫レヨリ毎日西出丸ヲ守リ居リ玄米ヲ食シ毎夜味噌湯ヲ呑ンデ煖ヲ取ル而シテ九月上旬ニ同隊ニ入隊二番隊ト変更セラル時ニ水戸藩士並ニ小笠原藩士等ト共ニ南町御門ヲ守ル

それより毎日西出丸を守り、玄米を食し、毎夜味噌湯を飲んで暖をとる。こうして九月上旬に同隊に入隊、二番隊と変更された。水戸藩士と小笠原藩士などと共に南町御門を守る。

 

九月十四日ノ未明敵ヨリ擊来タル大砲音響晝夜間断ナク四方八方十六方一圓ニシテ勦スコト絶エズ志賀與三郎ハ小田山ニ陣取ル敵ノ大砲丸片ニテ屋根ヲ突キ抜キ来タリ腿ヲ撃タレシヲ見ル南御門ヲ守ラントシテ西出丸讃岐門口ヲ出ズレバ長岡清治ノ抜キ身ノ槍ヲ提ケ早ク詰メヨト馳セ来ル乃チ共ニ南町口御門ヲ守ル小田山ノ敵ハ壇ヲ築キ大砲ヲ放ツコト己マズ我兵死傷甚ダ多シ人アリ

九月十四日の未明、敵からの砲撃が始まり砲撃音が昼夜響く。途切れる事なく、四方八方十六方全体に攻撃が止む事がなかった。志賀与三郎は小田山に陣取る敵の大砲の丸片が屋根を貫いて来たので、(それによって)腿を撃たれたのを見た。南御門を守ろうとして西出丸讃岐門口を出ると、長岡清治が抜身の槍を提げて早く詰めろと駆けてきた。一緒に南町口御門を守った。小田山にいる敵は壇を築き、大砲を放つ事をやめなかった。我が軍の死傷者はとても多く、

 

大砲丸ニ中タリ介錯ヲ乞フト叫ブニ會々一壮士馳セ来リ之ヲ見テ美事ニ其ノ首ヲ斬リ城ニ入ル既ニシテ退却スベキノ命アリ而シテ大町通リヲ横ニ出テ五軒町ヨリ讃岐御門ニ出テ五六百人入城セントセシニ海老名総督大刀ヲ揮ヒ退ク者ハ斬ラント退ク者ヲ止ム時ニ大砲丸上濠ニ落チテ水泡ヲ生ズ怪ンデ問ヘバ焼丸ナリト云フ

砲弾に当たり介錯を求め叫ぶ者に会津の一壮士が駆け寄り美事(見事)にその首を斬り城に入る。既に退却せよの命令があった。大町通りを横に出て五軒町より讃岐御門に出て、五、六百人入城しようとするのを海老名総督が大刀を振るい「退く者は斬る」と退却する者を止めていた。砲弾が上濠に落ち、水泡を生じたのを不思議に思い、問えば「焼丸である」と言った。

 

一士柴某アリ五軒町ヲ西ニ向ツテ進ムニ鎧ヲ暑シ長刀ヲ揮テ躍リ入ル柴某外二三ノ勇壮其勢ヒ實ニ云フベカラズ西出丸ニハ鎧櫃ヲ累チ之レニ土ヲ盛リテ守リ居ル九月廿二日開城同二十三日猪苗代岡部新助ノ家ニ謹慎ス母ハ雀林村ニ在リテ病死ス父モ同所ニ在リテ病ニ臥スルノ報ニ接シテ之ヲ日向隊長ニ告ゲ其ノ許可ヲ得テ行キテ看護ス其ノ後東京竹橋御門外御築屋ニ謹慎ス時ニ十六才ナリ

一士の柴某は五軒町を西に向かって進み、鎧を付けて長刀を振るって躍り入った。柴某の他、二、三名の勇気ある者の勢いは実に言葉にならない。西出丸は鎧櫃を重ね、これに土を盛って守っていた。九月二十二日、開城。同二十三日、猪苗代の岡部新助の家に謹慎する。母君は雀林村で病死した。父も同所で病に伏せているという報告を受け、日向隊長に告げて許可を得て、(雀林村へ)看病へ行く。その後、東京の竹橋御門外御築屋に謹慎する。十六歳だった。