おべんきょうノート

自分用です。

留魂録 上

長文なので上と下に分けます。

留魂録  安政6年(1859年10月25日)

身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂

十月念五日 二十一回猛士

例えこの命がこの武蔵野のどこかで終え肉体が朽ち果てたとしても、私の思想は永遠に留めておきたいものだ

十月二十五日  二十一回猛士


一、 余去年已来心蹟百変、挙げて数え難し。就中趙の貫高を希ひ、屈平を仰ぐ、諸知友の知る所なり。

故に子遠が送別の句に「燕趙多士一貫高。荊楚深憂只屈平」と云うも此の事なり。然るに五月十一日関東の行を聞きしよりは、又一の誠字に工夫を付けたり。時に子遠死字を贈る。

一、私の心は昨年から何度も移り変わり、それは数えきれないほどになった。とりわけ私が趙の貫高のようにと願い、楚の屈平を尊敬すべきものとしていることは、皆の知る通りである。

だから子遠は送別の句に「燕や趙の国には多くの人がいるが、貫高のような人物は一人しかいなかった。荊や楚にも深く国を思う人は屈平だけであった」と贈ってくれたのだ。五月十一日、江戸送りのことを聞いてからは「誠」という言葉について考えた。この時子遠は「死」の文字を贈る。

 

余是を用ひず、一白綿布を求めて、孟子の「至誠にして動かざる者は未だ之れ有らざるなり」の一句を書し、手巾へ縫ひ付け携へて江戸に来り、是れを評定所の留め置きしも吾が志を表するなり。

私はその語を使わず、一枚の白い木綿の布に孟子の「至誠にして動かざる者は未だ之れ有らざるなり」の句を書し、手拭いへ縫い付けて江戸へ持参した。これを評定所に保管させ我が志を明らかにするのだ。

 

去年来の事、恐れ多くも、天朝、幕府の間、誠意相孚せざる所あり。

天苟も吾が區々の悃誠を諒し給はば、幕吏必ず吾が説を是とせんと志を立てたれども、蚊蝱山を負ふの喩、終に事をなすこと能はず、今日に至る、吾が徳の菲薄なるによれば、今将た誰れをか尤め且つ怨まんや。

昨年から今日まで、失礼ながら朝廷と幕府の間では意思疎通が育めていない所が窺える。

天皇にも私のまちまちの事情を汲み納得していただければ、自ずと幕府の役人も我が説が必要だと分かってくれると想いを決め、やらなければならないことを考えたが、蚊のような小さな虫でも群れを成せば山を覆ってしまうとの例えの通り、とうとう何もできないまま、今日に至ってしまった。私の人徳の無さが至誠を通じることができなかった原因と受け取るべきなので、今さら誰を咎め怨むことがあろうか(いや、誰も怨むことはない)


一、 七月九日、初めて評定所呼出しあり、三奉行出座、尋鞠の件両條あり。一に曰く、梅田源次郎長門下向の節、何の密議をなせしや。

二に曰く、御所内に落文あり、其の手跡汝に似たりと、源次郎其の外申立つる者あり。覚ありや。是の二條のみ。

一、七月九日、初めて評定所から呼び出しがあり、三奉行(寺社奉行 松平伯耆守宗秀、勘定奉行 池田播磨守頼方、町奉行石 谷因幡守穆清)に出向き、二点について尋問された。一つ目は「梅田雲浜長門へ下向した時、何を話をしたのか」ということ。

二つ目は「御所内に落とし文があったが筆跡が似ていると、源次郎やその他にも申す者がいる。(この文に)覚えがあるのではないか」と尋ねられた。訊問はこの二点だけであった。

 

夫れ、梅田は素より奸骨あれば、余ともに志を語ることを欲せざる所なり。何の密議をなさんや。吾が性公明正大なることを好む、豈に落文なんどの隠昧の事をなさんや。

余、是に於て六年間幽囚中の苦心する所を陳じ、終に大原公の西下を請ひ、鯖江侯を要する等の事を自首す。鯖江侯の事に因りて終に下獄とはなれり。

そもそも梅田は元より奸計に長じていると感じるところがあり、梅田とは志を語り明かしたくないところ。(そういう意味では彼と)密議などするはずがない。私は公明正大であることを好む、どうして落文などという陰険な事をしようか。

私は六年間幽囚の身で苦心し確信した所説を全て打ち明け、大原公の西下(大原重徳を迎えて長州藩を主とした志ある藩で挙兵しようという)計画を立てたこと、さらに鯖江鯖江藩主 老中 間部詮勝要撃策を自首し、獄に入れられる事となった。

 

一、 吾が性激烈怒罵に短し、務めて時勢に従ひ、人情に適するを主とす。是を以て吏に對して幕府違勅の已むを得ざるを陳じ、然る後當今均當の處置に及ぶ。

其の説常に講究する所にして、具さに、對策に載するが如し。

一、私は激しい性格で人から罵られると我慢が出来ず、そのために今回は時の流れに従い人々の感情に適応するように心がけてきた。なので幕吏に対しても幕府が勅許を得ないまま条約に調印したのは止むを得ないことであると述べた上で、その後の措置こそが肝心であると論じた。

この説は常に講究を重ねており、詳細は「対策一道」に書いた通りである。

 

是を以て幕吏と雖も甚だ怒罵すること能はず、直に曰く「汝陳白する所悉的當とも思はれず、且つ卑賤の身にして国家の大事を議すること不届なり」。

余亦深く抗せず、「是を以て罪を獲るは萬萬辭せざる所なり」と云ひて已みぬ。

この私の姿勢には幕吏もさすがに怒ることはなく、説に対し幕吏は「お前の言っていることが全て的を得ているとは思えず、かつ身分の低い者でありながら国家の大事を論ずるとは不届きである」と弁じた。

私はそれに抗わず、「このことが罪になるとしても私は論ずることを恐れない」と述べた。

 

幕府の三尺、布衣、國を憂ふることを許さず。其の是非、吾會て辯争せざるなり。聞く、薩の日下部以三次は對吏の日、當今政治の缺失を歴詆して、「是くの如くにては往先五年の無事も保し難し」と云ひて、鞠吏を激怒せしめ、乃ち曰く「是を以て死罪を得ると雖も悔いざるなり」と。

是れ吾れの及ばざる所なり。子遠の死を以て吾れに責むるも、亦此の意なるべし。

幕府の法では庶民が国を憂うことを許さず、その善し悪しについては、私もこれまで議論をしたことはない。聞くところによれば、薩摩藩の日下部伊三次は取り調べの際に、幕府の失政を次々に申し、「このようなことを続けていれば幕府はこの先、五年も保つことができないだろう」と述べて幕吏を激怒させ、さらに「これで死罪になろうとも悔いはない」と告げた。

(彼の志は)私の及ばないところである。子遠が私に死を覚悟するよう求めたのも、こういう意味なのかもしれない。

 

唐の段秀實、郭義に於ては彼れが如くの誠悃、朱泚に於ては彼れが如くの激烈、然らば則ち英雄自ら時措の宜しきあり。要は内に省みて疚しからざるにあり。

抑々亦人を知り幾を見ることを尊ぶ。吾れの得失、當に蓋棺の後を待ちて議すべきのみ。

唐の段秀実は、郭曦には誠意を尽くし、朱泚には激しく非難したために殺された。こうして見ると、英雄と云われるべき人物は時と場所によりふさわしい態度で臨んでいる。大事なことは自分を省みて良心に恥じることがないようにすることである。

そして相手をよく知り好機をとらえることが大切なのだ。私の「吉田松陰」としての価値は、死後に棺蓋を閉じた後で始めて評価されるべきものである。

 

一、 此の囘の口書甚だ草々なり。

七月九日一通り申立てたるのち、九月五日、十月五日両度の呼出しも差したる鞠問もなくして、十月六日に至り、口書讀聞せありて、直ちに書判せよとの事なり。

一、この度の調書ははなはだ粗略なものであった。

七月九日に一通り申し立てた後、九月五日、十月五日の二度の呼び出しの時も大した取り調べもなく十月六日になり、供述書を読み聞かせて、直ちに署名せよとの事であった。

 

余が苦心せし墨使慶接、航海雄略などの論、一つも書載せず。ただ数個所開港の事を程克く申し延べて、國力充實の後、御打拂ひ然るべくなど、吾が心にも非ざる迂腐の論を書付けて口書とす。

吾れ言ひて益なきを知る。故に敢へて云はず。不満の甚しきなり。甲寅の歳、航海一條の口書に比する時は雲泥の違と云ふべし。

私が苦心をして述べた米国使節との交渉、海外渡航の計画に関する論は一つも書かれなかった。ただ数ヶ所のみ開港の事に触れ、国力充実させた後打払うべきなどと、私の心の真意ではない陳腐な論を書き付けて供述書とした。

私は伝えても無駄であることを悟った。だから敢えて抗弁しなかったが、計り知れない程の不満が残った。安政元年の下田踏海の一件での取調書と比べると雲泥の差である。

 

一、  七月九日、一通り大原公の事、鯖江要駕の事等申立てたり。初め意へらく、是れ等の事、幕にも已に諜知すべければ、明白に申立てたる方却って宜しきなりと。已にして逐一口を開きしに、幕にて一圓知らざるに似たり。

一、 七月九日、大原重徳公を長州に迎える策、老中間部詮勝要撃策を一通り申し述べた。これらは幕府も既に事前情報で承知していると思われたので、誤解なきように明白に述べておいた方が良いだろうと思い申し立てしたが、幕府は全く知らなかったようであった。

 

因つて意へらく、幕にて知らぬ所を強ひて申立て多人数に株連蔓延せば、善類を傷ふこと少なからず、毛を吹いて瘡を求むるに齊しと。是に於いて鯖江要撃の事も要諌とは云ひ替へたり。

よって幕府の知らない事項まで口を開き、多くの同志に累を及ばせ無関係の人を傷つける事になり、毛を吹いて傷を求めるという喩えのように、他人の欠点を探し求めれば、かえってこちらの欠点をさらすことになるに等しいと思い直した。だから間部暗殺の件についても「待ち伏せて襲撃する要撃」から「待ち伏せて諌める要諌」と言い替えた。


又京師往来諸友の姓名、連判諸氏の姓名等成るべき丈けは隠して具白せず、是れ吾れ後起人の為めに區々の婆心なり。而して幕裁果して吾れ一人を罰して、一人も他に連及なきは實に大慶と云ふべし。同志の諸友深く考思せよ。

又、京都で連判した同志の姓名も隠して明らかにしなかった。これは後の運動の為を思ってした私の老婆心からである。こうして幕府が、私一人を罰して他に累を及ぼさなかったのは大変喜ぶべきことであろう。同志諸君、この辺りの事を深く考えて欲しい。

 

一、 要諌一條に付き、事遂げざる時は鯖候と刺違へて死し、警衛の者要蔽する時は切り拂ふべきとの事、實に吾が云はざる所なり。然るに三奉行強ひて書載して誣服せしめんと欲す。誣服は吾れ肯へて受けんや。

一、 間部「要諌」の件で、もし諌めることが出来なかった時は刺し違えて死に、警護の者がこれを邪魔する時は切り払うつもりだったという部分は、実際には私は発言していない。しかし三奉行が強いてそのように書き記し、私を罪に陥れようとした。偽りの罪をどうして受け入れられようか。

 

是を以て十六日書判の席に臨みて、石谷池田の両奉行と大いに争辯す。吾れ肯へて一死を惜しまんや。両奉行の権詐に伏せざるなり。是れより先き九月五日、十月五日両度の吟味に、吟味役まで具さに申立てたるに、死を決して要諌す、必ずしも刺違へ、切拂ひ等の策あるに非ず。吟味役具さに是を諾して、而も且つ口書に書載するは権詐に非ずや。

こうして私は十六日、供述書の署名の席に臨んで、石谷、池田の両奉行と大いに論争した。私は死を恐れた訳ではない。両奉行の権力による誤魔化しに屈服しない為だ。これより先の九月五日、十月五日の両度の取り調べの際に、吟味役に詳細に話したことは、命を掛け間部を諌めようとしたことであり、必ずしも刺し違えや切り払いの策を講じていたのではないという事だった。吟味役もこのことを十分に認めていたのに、尚も供述書には「要撃」と書き記されているのは人を欺く以外の何物でもない。

 

然れども事已に爰に至れば、刺違へ、切拂ひの両事を受けざるは却って刺激を欠き、同志の諸友亦惜しむなるべし。吾れと雖も亦惜しまざるに非ず、然れども反復是れを思へば、成仁の一死、區々一言の得失に非ず。今日義卿奸権の為めに死す、天地神明照鑑上にあり、何惜しむことかあらん。

だが事ここに至っては刺し違えと切り払いの件を私があくまで否定すれば却って我々の信念の熱を欠く事となり、同志の諸友もまた惜しいと思うだろう。私も惜しいと思わない訳ではないが、繰り返しこの件を考えると、仁のために死ぬにあたり、言葉の問題ではないのだ。今日私は権力の悪巧みによって死ぬが、全ては天地神明の照鑑上にあり、何も惜しむことはない。


一、 吾れ此の回初め素より生を謀らず、又死を必せず。唯だ誠の通塞を以て天命の自然に委したるなり。七月九日に至りては略ぼ一死を期す。故に其の詩に云ふ、「継盛唯當甘市戮倉公寧復望生還」と。

私は今回のことで最初から生を得ようと考えなかったし、死を求めた事もない。ただ自分の誠が通じるかを天に委ねてきた。七月九日になってほぼ、死を覚悟した。私はそれを詩に書き留めた。「明の楊継盛は奸臣巌嵩の専横を弾劾して棄死(市場で処刑)されたが、忠節を貫いた事は満足であろう。漢の名医淳于意は不義の生還をどうして望むであろうか」と。

 

其の後九月五日、十月五日、吟味の寛容なるに欺かれ、又必生を期す、また頗る慶幸の心あり。此の心吾れ此の身を惜しむ為に発するに非ず。抑々故あり。

去臘大晦、朝議巳に幕府に貸す。今春三月五日、吾が公の駕巳に萩府を発す。吾が策是に於て盡き果てたれば、死を求むること極めて急なり。

その後九月五日、十月五日の二度の取調べが寛容なものだった為に欺かれ、もしかすると死罪を逃れられるのかと思い、またこれを喜んだ。これは私が命を惜しんだ為の事ではない。

昨年の大晦日、いずれ公武合体により攘夷すべしとの勅状が幕府に下った。今春の三月五日、長州藩毛利敬親を乗せた籠は萩を出発した。(敬親公を伏見で迎え公卿と会って頂き、攘夷の働きかけをしようとした私の計画はここで完全に失敗したので)そこで万策が尽きたので、死を求める気持ちが強く湧き起こってきた。


六月の末江戸に来るに及んで、夷人の情態を見聞し、七月九日獄に来り、天下の形勢を考察し、神國のこと猶ほ為すべきものあるを悟り、初めて生を幸とするの念勃々たり。

六月末に江戸に来て異国人の様子を見聞きし、七月九日に獄に繋がれ、天下の形勢を考察するうちに日本の為に私が為さねばならない事があると悟り、ここで初めて生きたいという気持ちがふつふつと湧いてきたのである。

 

吾れ若し死せずんば、勃々たるもの決して汨没せざるなり。然れども十六日の口書、三奉行の権詐、吾を死地に措かんとするを知りてより更に生を幸ふの心なし。是れ亦平生學問の得力然るなり。

私がもし死ななければ、この心に湧き立つ気概は決してなくなる事はないだろう。しかし十六日の口書(調書の読み聞かせ)で、三奉行の欺きによってどうあっても私を処刑にしようとしていると理解し、更に生を願う心はなくなった。このような気持ちになれたのも、平素の学問の力であろう。