おべんきょうノート

自分用です。

安政6年4月9日(ヵ)松陰→岡部

僕容易に人を絶交する様に久坂など云ひて不滿を云ふけれど、義卿豈に容易に人を絶交せんや 殊に來原・桂などは僕が尊信することは諸友具さに知る所 然れども諸友かかる大機會を態と取外し、今公の勤王をさせぬなれば、僕どうも如何に思うても胸がながぬではないか

僕が容易に人を絶交するという風に久坂は不満を言うけれど、僕がどうして容易に人を絶交するというのか(する訳がない)とりわけ、来原・桂に対して僕が尊敬し信頼している事は友人達はよく知る所である。しかし友人達はこのような大機会をわざと取り外し、藩公に勤王天皇へ忠義を尽くす事)をさせないのだから、僕がどうこうしようと思っても心が静まらないではないか。

 

諸友は殿様はいづれの御代も同様に思ふべけれど、勤王も今日には限らぬ、時を待て、時を待つのもよろし、義卿は今公へは殊恩を蒙り居る身分なれば、今公の外に報じ奉るべき赤心はなく候

友人達は殿様はいずれの時代も同じように思っているが、勤王(に関して)も「今日には限らない」「時を待て」「時を待つのも良いだろう」(などと言う)僕は現在の藩公へは特にご恩をいただいている身分であるから現在の藩公の他に報いるべき赤心はない。


元來罪人なれば國事など論ずべきには非ざれども、今公罪人を以て罪臣を見給はねば、罪臣豈に罪人を以て自ら待たんや 是れ等の話は諸友に云ふてはだめな事、夫れよりはいつそ絶交するが增といふ事なり

元来罪人なら国事など論ずるべきではないけれども、藩公が罪人(となった僕)罪臣をご覧になられないと、罪臣自身がどうして自ら罪人となって待つ事があるというのか、いや待ちはしない。これらの話は友人達に言っては駄目な事、それよりはいっそ絶交する方がましという事だ。

 

吾れ今公の爲めに得死なぬが一生の遺憾なり 此の所を探察して佐世と申合わせ、僕を死罪になる様に謀り下さるべく候はば、知己の感萬代忘れ申さず候

僕は藩公の為に死ねないのが一生の心残りである。この所(感情)を察して佐世と相談し合い、僕を死罪になるように工夫をこらしてくださったら、知己の心は永遠に忘れないでいよう。


久坂などあれ程の無情な男とは實に失望の至り、吾が情も少しは知つてくれてもよかりさうなものに粗暴とか權謀術數とか巧詐とか云ふて、高で人を相對にはせぬ

久坂なんかあれ程の無情な男だったとは実に失望極まりない、我が情も少しは知ってくれてもよさそうなのに粗暴だとか権謀術数だとか巧詐だとか言って全く人と向かい合わない。

 

僕素より愚戇なれば久坂などの齒牙に懸けぬも無理からぬ事 幾度云ふも勿體なきは君公の御上り已來、御在國は奸史の盛りなり、其の後は又倦勤も計り難し

僕は元より愚かな頑固者であるから久坂などが相手にしないのも無理もない事。何度も言うが残念なのは藩公がお上りされて以来、萩は不正を働く役人の盛りであり、今後はまた勤めに飽きる者の数も予測が出来ない。


なんぎな事なんぎな事 勿體なけれども世子様の御世なれば、長井の老奸があれば望なし 吾が輩永獄にて死して名なからんよりは、一死は切に望む所なり

とても一大事である。恐れ多いけれども世子様の治世となったら、長井雅楽のずる賢さがあるから望みもない。僕は一生獄に身を置いてやがて死んで名が残らないよりは、一死を切実に望むところである。


村・保・坂へ陳じたも此の情なれど明答なし 吾が情は毫も御察しないと見える 吾れ生年三十、未だ曾て自分の事を人に頼んだ覚はない 今日自殺することが出來ぬ計りで、諸友へ一死を賴めども、一人も周旋して呉れる人なし 恨めし恨めし

小田村・久保・久坂へ申し述べたのもこの気持ちからだけれどその答えは返ってこない。我が情はちっともお察しされないものと思われる。僕の年齢は三十、いまだかつて自分の事を人に頼んだ覚えはない。今日自殺する事が出来ないばかりに友人達へ一死を頼んでも、一人も周旋してくれる人はいない。とても残念で悲しい。

 

吾が輩へ死を賜ふ周旋も六ヶ敷き事には之れなく候へば、村・保へ申し遺はし置き候通り、和作一條表方御糺明に相成り候へば夫れでよし 然る時は和作余を引くべし

僕へ死を与える周旋も難しい事には変わりないが、小田村・久保へ申し使わせておいた通り、和作の一件が表に出て事実を明らかにする事が出来ればそれで良い。その時は和作(の後に)僕を連れる事が出来る。

 

余一度目附へ相對しさへすれば、三十年來の憤慨一時に吐けば、死罪は立所に至る 霖公の所謂口吃生が懸河の辯をすると云ふが此の時なり

僕が一度目付(監視役)と向かい合いさえすれば、三十年間の憤慨を一度に吐けば、たちまち死罪になる。霖公(黙霖)の所謂「口吃生が懸河の弁をする」という言葉はこの時である。