おべんきょうノート

自分用です。

安政6年3月26日 松陰→小田村・岡部

小文字は行間に書き添えた文章(松陰筆)

 

勤王は迚も長藩 のみならず諸藩皆然り にては出來申さざる事は僕疾より承知なり 然れども出來ぬ 心思錯亂、語論次なし ながら十數人も勤王事にて 罪を蒙れば志決す、怒猪の如し 怒猪となればおそろしきものなし 十數人も怒猪あれば後來少しは頼みあり、今は頼みなし

勤王はとても長州藩 だけでなく諸藩皆そうである では出来ない事は僕は早くより分かっている。しかし出来ない 考えが纏まらず混乱している、言葉も論も続かない なりに十数人も勤王を成しその上で 罪を受ければ怒る猪のように志も決まる。怒猪となれば他に恐ろしいものはなくなる。十数人の怒猪がいれば後来少々頼りたい事がある。今はない 


奪祿投獄等の人あらば、天下後世へ對し少しく面目もあれど、役人一人の黜免なく、投獄せらるるものは御家人召放たれたる吉田寅次郎と匹夫の傳之輔・杉蔵・和作三人のみ 長門、義士なきこと此くの如し 子楫尚ほ喋々、伏見策の是非を辯ず 憎むべし、憎むべし

禄を没収されたり投獄されたりする者がいるならば世の中の後世に対して少々面目も立つが、役人(となっている者の)一人の免職もなく、投獄させられた者は御家人(直属の下級武士)から召放たれた吉田寅次郎と匹夫(身分の低い)の傳之輔・杉蔵・和作の三人だけだ。長門には義士がいないということだ。子楫は尚ぺらぺらと伏見策の可否を述べる。許さぬ、許さぬ。


僕が心は決して然らず 一人にても罪を蒙るものあれば、是れ江家の美事、  朝廷への御奉公なれば「正義磨不吾則欽」の七字一向改むる能はず候 此の後草莽崛起の人あらば神州尚ほ左袵を免かるべけれど、是れも覚束なし

僕の心は決っしてそうではない。一人でも罪を受ける者がいればそれは毛利家の褒められるべき行為、朝廷へのご奉公ならば「正義は磨せず吾則ち欽ぶ」の七字を一向に改めるつもりはない。この後に草莽崛起の人(志を持った在野の人々が一斉に立ち上がる)があればこの日本はまだ西洋人と関わらないで済むけれど、これも頼りない。

 

和作上國に死せず、又遁匿せず、生きて歸ること實に力なきことなれども、今諸友に比すれば是れを尤むるに暇なし 是れ等の所見一々諸友と背馳なれば、諸友と交はること相互に宜しからざる事と存じ奉り候、他言に及ばず

和作は上京の際に死なず、また隠れる事もせず、生きて帰った事は実に仕方のない事であるけれども、今の諸友に比べると咎めるような隙間もない。これらの所見はいちいち諸友と食い違っており諸友と交友する事は互いに望ましくないと思う。他言には及ばない。


僕は諸友の名代に一死を賜はり度候 罪名は大逆を謀るの律へ的當なり 子遠母の事頻りに申せば是れはた忍び難し、早く放囚あらば其の上にて僕罪名逐一白狀すべし

僕は諸友の代わりに一死を賜りたく思う。罪名は大逆を謀るの掟が適当である。子遠が度々母の事を言うとこれもまた耐え難く、早いうちに釈放あればその上で僕の罪名を逐一申し述べるのが良い。

 

◯諸友への不平一々申す事好ましからず、只だ議論背馳とのみ御存じ下さるべく候 尤も松洞云はく、「和作脱走可憎々々」此の八字僕怨み骨髄に徹し、萬死忘るる能はざるなり

◯諸友への不満をいちいち言う事は好ましくなく、ただ(彼らとは)意見が食い違っているとのみ知っておいてほしい。もっとも松洞が言うに「和作の脱走、憎むべし憎むべし」この八字、僕の怨む心は骨髄まで深く貫き通り、万死忘れる事はできないだろう。


久坂江戸より上京の節、僕に書を寄せて云はく、先生の幽室も今日切りと御存じ成さるべき由 僕深く其の義に服し、且つ因循を恥づ 夫れより積慮上京撃賊一件等に及べり

久坂が江戸より上京した頃、僕に手紙を寄せて言うには「先生の幽室も今日限りとなさるのが当然」らしい。僕は深くその義に納得し、煮え切らないのを恥じる。それより上京撃賊一件を検討するに及んだ。

 

而るに今其の説を變ず、不満なきを得ず 又和作發露の次第は八十・子楫・村先生を恨みざることを得ず ◯天地日月皆恨あり、盟友故舊渾べて情なし
  三月二十六日       松陰未死人
 村先生
 子楫兄

それなのに今その主張を変え、不満が残った。また和作の件が発覚した事情は八十郎・岡部・小田村を恨まない事は出来ない。

◯全てにおいて皆恨めしい気持ちがある。同志という昔馴染みなのに皆情けない。

  三月二十六日       松陰未死人
 村先生
 子楫兄