おべんきょうノート

自分用です。

安政6年2月15日以前 松陰→高杉

安政6年2月15日以前

吉田松陰全集6 コマ145、146

原文並び替え等。

 

松陰在野山獄
高杉在江戸

 

此書に御答は御無用、只屈平詩一見したとのみ小田村か愚兄か其外久坂なりかに御申贈り下被度候

この手紙には返答なさらずともよろしい。ただ屈平の詩を目通ししたとだけ小田村か我が兄かその他久坂なりかに伝えてもらいたい。

 

先日は御書成下被候處、言々服欝悶休不候處、今日また家兄より承候へ共口羽にも御申越成被候由、覺不感泣、去乍、天子は不世出の聖主     君公の賢明は申に及不、御當年の御勸政は恐乍御世始已來希有の御事なるに有司德意奉能不、今日の次第に成降り此時を失して三四十年も只々此如きのみ、
先日手紙をくださりひとつひとつの言葉が身に沁み悩んでいた所、今日また兄から口羽(徳祐)君にも伝えておいたという旨を聴いて感激し、知らずの間に涙が流れていた。しかしながら我が国の天皇は世界に類を見ない聖王であり、我が藩公の賢明さは言うまでもない。当年の国事、民の導き方は恐れながら御世継ぎされて以来の非常事態となっているのに役人が独断で事を計らうのは納得出来ず、今日のようになってしまい、この機会を失っては三、四十年もひたすらこの様である。


誠に恐多き事に候へとも萬々一も近年の内公御遁世遊被候はゝ吾輩の忠竭すへき所なし、小子今公樣への忠心止能不は抑故あり、小子幼年より深く御知遇を蒙り往年は御前會にも屢々召出被親しく德音を伏聽仕一々肺肝に徹し候、其後感慨已能不事之有亡命仕候處、後にさる人より承り候處、其節(斯様の事御他言必無用)君公國の寶を失ふたとの御意ありし由、
誠に恐れ多い事だけれども万が一にも近年の内に天皇が隠遁される事となっても、僕の忠誠心が尽きる事はない。世子、藩公への忠誠心が止まないのには訳がある。世子は幼年より深く知遇を被り、昔は御前会にも度々お呼び出しを受け直接お言葉を拝聴し、そのひとつひとつを身に受けてそう堅く心に決めた。その後、感慨に耽る事せず亡命となったが、後にある人より(この事、必ず他言無用)藩公は『国の宝を失った』とのお考えであったと聴いた。

 

一乳臭國に何の損益ありてかく有難く仰被候事か、何共誠に忝く候へとも小生に於ては感激身に餘り此世に生ては居られ申不候、
一若輩国に何の損益があってこのように有り難く仰られたのか、何とも本当に恐れ多い事だけれども僕においては感激が身に余りこの世に生きてはいられない程である。

 

墨夷行思ひ立ち候處、夫も遂不死にもせす剰へ昨年已來又々恩旨を蒙り候事ともあり、昨年より屹度志を立て當御在國中には是非一死を遂け、積る重罪の御申譯仕可と存候處、又死にそこない野山屋敷にて三度の食事衣服襟枕等事を缺き申不、最早御發駕も近く候へとも死すへき折も之無、
アメリカへ行こうと考え行動に移したが、それも成し遂げず死にもせず、あまつさえ昨年以来またまた恩恵をいただいた事もあり、昨年からきっと志を立てこの萩にいらっしゃる間に必ず一死を遂げそれまでの重罪の弁解をと思ったが、また死に損ない野山獄で三度の食事、衣服、襟枕など不自由もなく、早くも藩公のお発駕も近くなり死ぬべき機会も失った。

 

之加、世間は俗論の眞晝にて一事の快と称すへきものなし、風聞には     至尊も御禅位の叡慮なと誠に鳴鳥もさく花も涙の種ならさるはなし、端無屈平の往事思起し頻に死度相成食絶死待ち候積りの處、二日にも滿たさるに又由ありて食に復し靈均の九原に笑ひて死顧不事止みに致候、
更に世間は俗論が陽の目を見ており、それもひとつの愉快と称すべきものではない。風の噂では天皇も譲位のご意向に、誠に鳴く鳥も咲く花も涙を零し悲しむ原因にならない事はなく、ふと屈平の経歴を思い出ししきりに死にたくなった。食事を断ち死を待とうとしたところ、二日も経たぬうちにまた訳があって食事を戻し、霊均の屈原を笑って死を顧みないのを止める事にした。

 

去乍君公は遠不御發駕あるへし、國是は立不、御發駕相済候へは國相府の手合は肩の任を卸したる心地にてくつすり寐込むなり、大臣の般楽台敖いかんいかん、御着府の上は長井・井上・周布なとの俊才相連結してさそ巧なる處置あるへし、
しかし藩公は遠からず(江戸へ)お発駕があるはずだ。藩が立ち上がらずともお發駕がお済みになれば国相府(当職座)の仲間は肩の力を下ろしたようにぐっすりと寝入るだろう。ふらふらと巡り歩く大臣の足元を(鍋で煎るように)揺らすのはどうだろう。お着府後は長井(雅楽)・井上(与四郎)・周布(政之助)などの俊才が連結して巧みな処置をされるに違いない。


來御歸城の上は地江戸合體國事一定すへし、其後の御参府は恐乍期難也、天朝の論は別にして吾藩の事を案するに今公の為めに死なんとすれは當御在國中より他なし、僕今公の恩遇を蒙り當御在國中に得死申不、負天地辜、負父母辜、かく申事老兄には嘸々不満なるへし、
そしてご帰城の際は藩と江戸が一つとなり、国事を確実にするべきだ。その後のご参府は恐れながら時期では無いだろう。天皇のご意見は別として、我が藩の事を思い煩えば、藩公の為に死のうとするならば萩にご滞在中であるのが道理である。僕は藩公の厚遇をいただきご在国中に死ねず、天地(天皇、藩公)に背き、父母に背いた。このように言う事は高杉君にはさぞ不満だろう。


然れとも此心事語るへき人なし、岸獄獨座、諸友回顧、老兄ならては聞て呉れる人なし故に一言を此世に留むるなり、哀々、平生無二の知己なる來原・桂さへ僕か心事を知能不、何そ其他を望まんや、哀々、今後才略功業人は出來もしよう、忠義の種は最早絶滅と思召被可候、
しかし僕の心中を理解してくれる人はいない。牢獄に独り座し、多くの友人を思い出すも君以外に聞いてくれる人もいない。だからこうして言葉をこの世に留めるのだ。とても哀しい。普段無二の知己である来原君と桂君でさえ僕の心中を知る事は出来ないのに、どうして他人に望めるというのか。とても哀しい。今後才略功業の人物は現れるかもしれないが、忠義の種は最早絶滅したと思わざるを得ない。

 

晁錯・朱雲・屈原・楊繼盛・翟儀・徐敬業・燕太子丹・田光・侯嬴、此人々は勿體なき人樣なり、

子遠か心事は僕と一般かと察候、其他は青年の人なれは留て足下輩の用に供すへし、僕は君負父負の人、死求へきの人萬事念なし、但朋友の情甚深し良朋親友寤寐忘可不。此念頭たに絶ち候へは眞の槁灰死木となることを得らるゝなり、
晁錯・朱雲・屈原・楊繼盛・翟儀・徐敬業・燕太子丹・田光・侯嬴、皆有能で惜しまれる方々である。

子遠の心中は僕と似ているかと察する。その他の者は青年ならば留めて君の為に役立てるといい。僕は君に背き父に背いた者、死に臨むべき者、全てが悔しさで満たされている。ただ盟友の情はとても深く、良き友、親友、寝ても覚めても忘れた事はない。この想いが絶えてしまえば枯れ木のように本当に活力がなくなってしまうだろう。

 

天野清三郎此生昨年巳來一事も吾説に同意せず、奇見異識他日必異人為、此人深老兄服、其他一人も服する人なし、僕遂其才竭能不、足下幸之心記。

天野清三郎、彼は昨年以来一度も我が説に同意しなかった。奇見で異識、後日必ず優れた人物となる。彼は君の言う事は聞くが、その他の者には従わない。僕はとうとうその才能を伸ばせなかった。君の傍に置き世話をしてくれたら嬉しく思う。


屈原
楚國謀暴秦挫無、宗臣死未主憂辰、漁父何知行唫志、枯形悴色屈靈均、
すなとりのさゝやくきけは思ふなり澤邊に迷ふ人の心を

屈原 楚辞 略す) 

 

古人云く「泣欲婦人に近し」と信なるかな、今七つ時足下書を口羽に寄せられ候事を承り感泣休不、然れとも泣けは他囚の笑はんことを恥ち病と称し被を擁し打伏夜食後又此書作、
歴史の偉人は「泣かんと欲すれば則ち為婦人に近し(女々しい)」と言った。確かにそうだ。今七ツ時、君の手紙が口羽から寄せられ内容を確認し感激で涙が溢れるような想いだった。
しかし泣く事で他の囚人に笑われるのは恥なので、病気と偽り布団を頭まで覆い被さって打ち伏し、夕食後にこの手紙を作った。

 

中谷・久坂も山口まて歸り候由なれと未た歸萩せす假令歸萩したりとて喜ふへき事もなし、人間の楽盡矣死生の年忘矣、

中谷(正亮)君・久坂(玄瑞)君も山口まで帰って来ているようだが未だ萩には帰らず、例え萩に帰ったとしても喜ぶべき報せもない。人生の楽も尽くしたろう、死生の念も忘れたろう。

 

余獄赴之前二夕、桂小五郎至、小五郎僕無二知己也、話中左問答有、僕今叙以足下遺、

獄に赴く二日前の夕方、桂小五郎君が来た。小五郎君は僕の無二の知己である。話の中で次のような問答があった。ここに書き表して君に贈る。

 

寅云、暢夫如何、桂云、俊邁少年也、惜少頑質有、後来其人言容不恐、老兄何今及一言不、必ず益有也、
僕が「暢夫(高杉君)はどうだろう」と問うと桂君は「才知抜きん出た優れた少年でしょう。惜しむ所は少々頑固な性格である事、将来彼が人の言葉を受け入れなくなってしまう事を危惧する。先生、どうして声をかけてやらないのか、必ず実りがあるでしょう」と答えた。

 

寅云、然、僕亦之思、但暢夫十年遊方期、僕心書信絶其為所任期、暢夫後必成有、今妄其頑質矯、人成不矣、暢夫他年成有、假令人言容不、必其言棄不、十年之後、僕或為有、必之暢夫謀、必吾負不、二人相濟、以大過無可也、桂之肯、
僕は「その通りだ、僕も考えていた。ただ暢夫は十年は遊歴へ出る心積もりしている。僕は手紙を絶ちそのやりがいを任期に見出してほしい。暢夫は今後必ず大成するだろう。今みだりにその頑なな性質を諌めれば良い部分まで壊してしまう。暢夫が歳を重ねれば、例え人の言う事を受け入れなくても無碍にはしまい。十年後、僕が為す事があれば必ず暢夫へ働きかけよう、必ず応えてくれるはずだ。二人で彼を見ていれば大きな過ちにはならないだろう」と言えば桂君は肯定した。


此談今僕巳に自ら負く桂の苦心故老兄に通するなり、其當否は僕知不、然れとも桂は厚情の人物なり、此節諸同志と絶交せよと桂の言なるを以て勉強之守なり、深愛の無逸にすら一書通不、小田村と子遠とは由ありて書を通す
この話、今の僕は既に自ら背いてしまったが桂君の苦心は君に伝わったろう。それが正解かは分からない。しかし桂君は情の厚い人物だ。この時期は同志と絶交せよと桂の言葉を努めて守ろうと思う。深愛である無逸(吉田栄太郎)にすら手紙を出していない。小田村(伊之助)と子遠(入江杉蔵)とは訳があって手紙を交わしている。