安政6年10月6日 松陰→飯田
吉田松陰全集6 コマ228.229
松陰 江戸獄
飯田 江戸
昨五日の書今六日相届き、金二両とも慥に落掌仕り候、是れより先き追々高杉より届呉れ候金六両、此の金を合わせて八両、悉く老兄の御心配成し下され候趣、一方ならざる御厚情謝述盡し難く存じ奉り候
昨日五日の手紙が今日六日に届き、金二両も確かに受け取りました。以前より追々高杉君から届けてもらった金六両とこの金を合わせて八両、貴方からお心配りをしていただいた事、幾重にもなるご厚情には言葉ではとても尽せない程感謝しております。
老兄にも嘸々御困り成され候はんと拝察したてまつり候。何とぞ早く國元より相届き候はば御償返仕り度き存念に御座候
貴方もさぞお困りなされたろうとお察し致します。何としても速やかに国元より届きましたらご返済する所存でございます。
○西洋陣法追々御作興在らせられ候由、此の事大慶に存じ奉り候、何卒御精錬祈り奉り候
西洋陣法の訓練はこれから徐々に盛んになるらしく、この事はとても喜ばしく思います。どうぞ訓練が励まれる事をお祈り致します。
○昨五日小生評定所御召出し、未だ口書きには相成らず候へども、弥々御慈悲の御吟味口に相決し候、其の件は大原卿・星巖翁へ書信を通じ候事も、往来相働き候面々の姓名一向出で申さず、只だ人を以て人を以てとのみにて相済み候
昨日五日、私は評定所へ呼ばれ、まだ供述書にはなってはいませんがいよいよご慈悲の詮議を決めました。その件は大原卿・星嚴翁へ書簡を通じた事も、書簡を持って往復した同志の名前も一人も出て来ず、ただ「人を使って」、「人を使って」との言葉だけで済みました。
之れに依り傅之助・杉蔵兄弟等の連及の患なし、下総侯要駕の策も只だ一命を棄てて諌争と申す事にて相済み、連判の人名等一向御調べ之れなく候、此の類寛猛に付いて餘程関係之れある事に御座候間、御考味下さるべく候
これにより傳之助・杉蔵兄弟から巻き添えになる様子はなく、下総侯要駕の策の件もただこの命を捨てる覚悟で諌争をしたと言った事で済み、連判書の人名等、一向に調べられませんでした。一連の彼らの駆け引きについてはかなりの理由があるのでしょうから、熟考くださいませ。
○昨日同舎より讃侯内長谷川速水、東口より勝野森之助呼出しなり、御預けの部は大竹義兵衛・筧章蔵・勝野豊作妻及び娘以上七人、皆未だ口書きには成り申さず候へども、大略相定まり候様子なり
昨日同舎から讃岐高松藩士 長谷川速水、東口からは勝野森之助が呼び出され、お預けは大竹義兵衛、筧章蔵、勝野豊作の妻と娘。以上七人。皆未だ調書に書かれていませんが、大体そう定められる様子です。
鷹司家の小林は同舎にて甚だ相互に相楽しみ居り候。但し遠からず遠島、惜しむべし。水戸鮎澤伊大夫は東口なり。數々詩作等見申し候。是れも同断。
鷹司家の小林民部は同舎で気が合い、楽しく過ごしました。しかし近い内に遠島になるようでとても残念です。水戸の鮎澤伊大夫は東口に居ます。数々の詩作等を見ました。こちらも同様。
東口に居り候堀江克之助は如何にも篤厚の奇士なり。羽倉の三至録に窪善助とあるは實に此の人なり。此の事諸友へも御知らせ下さるべく候。
東口に居る堀江克之助はいかにも情の厚い奇士です。羽倉簡堂の三至録に『窪善助』とあるのは実にこの人であります。この事は諸友にもお知らせください。
色々申上げ度く之れあり候へども、先づ是れにて閣筆仕り候。小生落着如何は未だ知るべからず。死罪は免るべし、遠島にも非ざるべし。追放は至願なれども恐らくは亦然らざらん。
色々と申上げたい事はありますが、まずはこれにて筆を置きます。私の身が落ち着くかはまだ分かりません。死罪は免れるでしょう、遠島にもならないでしょう。追放刑は、(例え)願ったとしても恐らくはそうならないでしょう。
然れば重ければ他家預け、軽ければ舊に仍るなり。いづれ當年中にどちとか片付き申すべく、若し歸邸出來候はば老兄何卒一計を設け病用に托し一面を許し給へ、色々談じ度き事之れあるなり。御熟思下さるべく候以上
それ故に重ければ他家預け、軽ければ元に戻るでしょう。いずれ今年中に結果が出ますから、もし帰邸出来たならば口合わせて病用として貴方へ面会を許してもらいたく思います。色々と話したい事がありすので、お考えくださるよう。以上
(別紙)
券
一、 金八圓定
右追々拝借仕り、大いに獄中の艱苦相凌ぎ仕合せ申し候。後證の為め寸券を呈し置く事此の如し。
未十月六日 二十一回猛士藤寅拝
飯田正伯老兄 足下
券
一、 八両(丁度)
右の金額は今までお借りし、大変獄中の難儀から逃れる事が出来ました。後の証拠として一言書し残しておきます。
未十月六日 二十一回猛士藤寅拝
飯田正伯老兄 足下