おべんきょうノート

自分用です。

史記 淮陰侯列傳第三十二 ④

韓信使人閒視、知其不用、還報、則大喜、乃敢引兵遂下 未至井陘口三十里、止舍 夜半傳發、選輕騎二千人、人持一赤幟、從閒道萆山而望趙軍、誡曰:「趙見我走、必空壁逐我、若疾入趙壁、拔趙幟、立漢赤幟」

韓信(事前に放っていた)間者からその策が用いられなかった事を報告されると大いに喜んだ。敢然と兵を率いて井陘の狭道を下ると、井陘から三十里手前で留まり宿営した。その夜半、出陣命令が出された。軽装の騎馬兵二千人を選び、各々赤いのぼり旗を持たせて狭道を進み、山に隠れて趙軍を見渡すと戒めるように言った。「趙軍は我々が退却するのを見れば必ず塁壁を空にして追ってくるだろう。お前たちは素早くその中へ入り、趙軍ののぼりを抜いてこの赤いのぼりを立てよ」

 

令其裨將傳飱 曰:「今日破趙會食!」諸將皆莫信、詳應曰:「諾」謂軍吏曰:「趙已先據便地為壁、且彼未見吾大將旗鼓、未肯擊前行、恐吾至阻險而還」信乃使萬人先行、出、背水陳 趙軍望見而大笑 平旦、信建大將之旗鼓、鼓行出井陘口、趙開壁擊之、大戰良久

そして副将に命じて配給をさせると「今日趙軍を突破し、宴をしようじゃないか!」と言った。将は皆その言葉を信じていなかったが「承知しました」と返事をした。韓信は軍史に「趙軍は有利な地形を選んで砦を築いている。こちらの大将の旗鼓を見ないうちは、あえて我々の先頭部隊を討つことはないだろう。我々が難所に阻まれて引き返す可能性を恐れているからだ」と言った。韓信は一万の兵を先行させ河水を背にして布陣させた。趙軍はこの様子を見て大いに笑った。明け方、韓信は大将の旗を立て太鼓を鳴らしながら進軍、井陘口を出た。趙軍も塁壁を開いてこれを撃ち、暫く激戦が続いた。

 

旗鼓(きこ)→軍旗と太鼓

 

於是信、張耳詳棄鼓旗、走水上軍 水上軍開入之、復疾戰 趙果空壁爭漢鼓旗、逐韓信、張耳 韓信、張耳已入水上軍、軍皆殊死戰、不可敗

そこで、韓信と張耳はわざと旗鼓を棄て、河水の自陣に逃げ込んだ。河水ほとりの軍は門を開いて韓信たちを入れると、再び激戦を繰り広げた。趙軍は漢の旗鼓を獲ようと群がり、砦を空にして韓信と張耳を追った。しかし韓信と張耳はすでに河水ほとりの陣に逃げ込んでいる。漢軍は皆死を覚悟して戦ったので、趙軍は打ち破る事が出来なかった。

 

信所出奇兵二千騎、共候趙空壁逐利、則馳入趙壁、皆拔趙旗、立漢赤幟二千 趙軍已不勝、不能得信等、欲還歸壁、壁皆漢赤幟、而大驚、以為漢皆已得趙王將矣、兵遂亂、遁走、趙將雖斬之、不能禁也 於是漢兵夾擊、大破虜趙軍、斬成安君泜水上、禽趙王歇

韓信(事前に)出した奇襲部隊二千騎は趙軍が塁壁を空にして獲物を追うのを見ると素早く立ち入り、趙ののぼりをすべて抜き取って漢の赤いのぼり二千本に立て替えてしまった。趙軍は勝つ事が出来ず韓信らを捕らえる事も出来なかったので砦に帰ろうとしたところ、砦にはみな漢ののぼりが立っていたので大層驚いた。趙の将軍は皆漢に捕らえられたのではないかと思い込んだ。兵達はついに混乱し次々と逃げ出した。趙の将軍がこれを止めようとして斬ったが、止める事は出来なかった。そこを漢軍が挟み撃ちにして趙軍を破り、降伏させた。成安君を泜水のほとりで処刑され、趙王を生捕りにした。

 

信乃令軍中毋殺廣武君、有能生得者購千金 於是有縛廣武君而致戲下者、信乃解其縛、東鄉坐、西鄉對、師事之 諸將效首虜、(休)畢賀、因問信曰:「兵法右倍山陵、前左水澤、今者將軍令臣等反背水陳、曰破趙會食、臣等不服 然竟以勝、此何術也?」

韓信は、広武君を殺してはならない、生け捕りにした者があれば千金で買い取ろうと軍中に命令した。すると広武君を縛って麾下に届けたものがいた。韓信はその縄を解いて、東に向いて座らせ、自分は西向きで相対し、これに師事した。諸将は敵の首級と捕虜を差し出して、みな戦勝を祝い、その時に韓信に問うた。「兵法には『山陵を右にし、背にし、水沢を前にし、左にする』とあります。しかし今回の将軍は反対に、我々に背水の陣を布かせ、『趙を破ってから会食しよう』とおっしゃいました。我々は納得できませんでした。しかし遂に勝ちました、これはどのような戦術なのでしょうか?」

 

信曰:「此在兵法、顧諸君不察耳 兵法不曰『陷之死地而後生、置之亡地而後存』?且信非得素拊循士大夫也、此所謂『驅市人而戰之』、其勢非置之死地、使人人自為戰今予之生地、皆走、寧尚可得而用之乎!」諸將皆服曰:「善 非臣所及也」

韓信は答えた。「これは兵法にある。諸君らは気付かなかったようだが、兵法には『(軍を)死地に陥れて後に生き、亡地(必ず滅ぶような状況)に置きて後に存する』とあるだろう? そして私は普段から将兵の心を掌握しているわけではなかった。これは所謂、『市井の者を駆り立てて戦うようなもの』だ。その兵士達を死地に置いて各々が自発的に戦わせるよう仕向けず、彼らに生地を与えれば皆逃げてしまうだろう。これではどうして彼らを用いて勝利する事ができようか!」諸将はみな感服して言った。「お見事でございます。とても我々の及ぶ所ではありません」

故事『背水の陣』の出典。

失敗したら再起不能という一歩も後にひけない状態に身を置いて、決死の覚悟で事に当たること(学研 四字熟語辞典より)

 

於是信問廣武君曰:「仆欲北攻燕、東伐齊、何若而有功?」廣武君辭謝曰:「臣聞敗軍之將、不可以言勇、亡國之大夫、不可以圖存 今臣敗亡之虜、何足以權大事乎!」信曰:「仆聞之、百里奚居虞而虞亡、在秦而秦霸、非愚於虞而智於秦也、用與不用、聽與不聽也 誠令成安君聽足下計、若信者亦已為禽矣 以不用足下、故信得侍耳」因固問曰:「仆委心歸計、願足下勿辭」

韓信は広武君に問うた。「私は北の燕・東の斉を討とうと思うが、どうすれば成功するだろうか?」 

広武君は謝辞して答えた。「私は『敗軍の将は武勇を語るべきでなく、亡国の大夫は一国の存立を謀るべきではない』と聞いております。私は負けて国を亡くした捕虜の身、どうして大事について図ることなどできるでしょうか!」

韓信は言った。「聞くところによれば、百里奚は虞(ぐ)にあって虞は亡び、秦にあって秦は覇となったということだ。百里奚が虞にいた時には愚者であったのが秦に行ったことで智者になったという訳ではあるまい。君主が彼を任用したかどうかと、その言葉を聴き入れたかどうかの差である。もし成安君が貴方の計略を聴き入れていれば、私ごときは虜にされていた事だろう。成安君が計略を用いなかったからこそ私は貴方の側に仕える事ができるのである」

更に強いて言った。「心を委ね、貴方の計に従おう。だからどうか言葉を無くさずにいてもらいたい」 

 

廣武君曰:「臣聞智者千慮、必有一失、愚者千慮、必有一得 故曰『狂夫之言、聖人擇焉』 顧恐臣計未必足用、願效愚忠 夫成安君有百戰百勝之計、一旦而失之、軍敗鄗下、身死泜上

広武君は言った。「私は『智者も千慮には必ず一失があり、愚者も千慮には必ず一得がある』と聞いております。ですから『聖人は狂人の言葉も採りあげる』と言うのでしょう。恐れながら私の献策などとるに足らないかもしれませんが、忠誠を尽くしましょう。そもそも成安君には百戦百勝の計がありましたが、一朝にしてこれを失い、軍は高(河北省)の城下で敗れ、その身は底水のほとりで殺されてしまいました。

 

今將軍涉西河、虜魏王、禽夏說閼與、一舉而下井陘、不終朝破趙二十萬眾、誅成安君 名聞海內、威震天下、農夫莫不輟耕釋耒、褕衣甘食、傾耳以待命者 若此、將軍之所長也、然而眾勞卒罷、其實難用

今、将軍は西河を渡り魏王を虜にし、夏説を閼与で捕虜にして一挙に井陘を下り、朝が終わらないうちに趙の二十万の衆兵を破り、成安君を誅殺されました。これによって将軍の名は海内に聞こえ、その威は天下を震わせ、農夫はどうせ国が滅びるならと耕作をやめて鋤を捨て去り美衣美食して仮りそめの安逸を貪り、ただ耳を傾けて将軍の命令を待っている。これが将軍の長所です。しかし将軍の兵士は疲弊しており実は扱いにくい状態にあります。

 

今將軍欲舉倦獘之兵、頓之燕堅城之下、欲戰恐久力不能拔、情見勢屈、曠日糧竭、而弱燕不服、齊必距境以自彊也 燕齊相持而不下、則劉項之權未有所分也 若此者、將軍所短也 臣愚、竊以為亦過矣 故善用兵者不以短擊長、而以長擊短」

今、将軍は倦み疲れた兵を燕の堅城の下で更に疲弊させようとしておられます。戦おうとしてもその力では敵城を抜くことはできません。勢いが尽きて空しく日を過ごすうちに兵糧も尽き果ててしまうでしょう。弱小である燕でさえ屈服しないのであれば、斉は必ず国境に防備をして自強を行います。燕と斉が共に降服しなければ、劉・項漢・楚の天下の権の争奪戦)はどちらが勝利するか分からなくなる、これが将軍の短所です。私なりに考えを述べさせていただくと、今、燕と斉を攻めるのは過りだと思っています。善く兵を用いる者は味方の短所で敵の長所を攻撃させません、味方の長所で敵の短所を攻撃させるのです」