おべんきょうノート

自分用です。

二本松藩史「世良暗殺の顛末」

十八日(閏四月)世良参議單身白河を發し、十九日福島に入り金澤屋に宿す(同地北町)。此の日仙臺藩瀬上主膳、姉歯武之進等、土湯、荒井、鳥渡(共に福島の西方ニ三里に在り)の守備を徹して同地に來る在り。福島藩用人 鈴木六太郎 世良が託する所の在 羽州 大山格之助宛の書翰を主膳に致す。
十八日(閏四月)世良参議単身白河を出発し、十九日福島に入り金澤屋(金沢屋)に宿泊する(同地北町)。この日、仙台藩 瀬上主膳と姉歯武之進らは土湯、荒井、鳥渡(共に福島の西方二、三里に在り)の守備に当たって同地に来た。福島藩の用人 鈴木六太郎は世良が託した羽州にいる大山格之助宛の書簡を主膳に渡す。

 

初め世良福島に着するや直ちに一書を認め、六太郎を呼んで曰く、急々其藩の足軽を以てこの書翰を大山に送るべし、仙兵士に悟られざる様能く注意せよと。六太郎 世良の言を怪み、藩の要路に告ぐる所あり。福島藩 六太郎に命じて情賽を主膳に告げしむ。主膳 世良が書を取り封を破りて之を披見すれば、則ち左の如き密書なり。
事の次第は世良が福島に到着するや直ちに書簡を認め、六太郎を呼び「急ぎ、そちらの藩の足軽を使い、この書簡を大山に送ってくれ。仙台兵に悟られないようによく注意せよ」と言った。六太郎は世良の言葉を怪しみ藩の重役へ告げたようだ。福島藩は六太郎に命じて事情を主膳に告げさせた。主膳は世良の書いた書簡を手にして封を破り、これを開いて見れば左のような密書であった。


引続御配慮奉察、御地も追々賊退散に付ては、日々御進軍想像致候、扨 大賊退去の事に付、昨夜仙臺 坂本大炊と申者態々白河へ申參候には、今般會津降伏謝罪に付、庄内にも早々兵を引退謹慎可致段内使差立候故、引揚の評議にて、何も官軍御勢相𡑭候故逃去の儀には無之、被多勢の賊徒中々急に引取候譯無之候間、此段報知及置候との事に御座候、
引き続きご配慮いただいております。そちらの地でも次第に賊が退散し、日々ご進軍されている事と思います。さて、大賊退去の件に付きまして、昨夜仙台藩 坂本大炊という者がわざわざ白河へ伝えに参上しまして『この度会津の降伏謝罪について、仙台藩は)庄内藩にも早々に兵を引かせて謹慎する段取りをさせるよう差し立てているので、引き揚げの評議の中で何も官軍の勢いが益々盛んになったから庄内藩が)逃げたという訳ではありません。彼らも多勢で中々急な退去も叶いませんので、そのようにお知り置きください』との事でございました。

 

實否は不相分候へ共申上置候、就ては十五日御仕立御書今暁本宮に到来、頓誦大に安心仕候、先達て以来噂相聞候會賊降伏謝罪歎願書三通過る十二日仙米兩中將岩沼へ持参、
真実か虚偽かはわかりませんがお伝え致します。ついては十五日送っていただいた手紙が明け方本宮へ到着、その場で拝見してとても安心しました。先立って耳にした噂によれば会津藩は降伏、謝罪、嘆願書の三通を十二日に仙台・米沢の両中将が岩沼(総督府)へ持参、

 

且演舌を以申陳候には、容保儀恭順謹慎は勿論開城可致心底之様、兎角激徒内亂を生じ、官軍へ對し如何様の不法候も難計、左候ては彌容保罪難逃心痛仕候間、何卒寛大之御慮置を以て、減地暴臣共之首級可差出之次第に付、謝罪被聞召、朝恩を奉感戴候様致度、且兩中將も歎願申來候、
同時に主張を申し述べた事には「松平容保自身の恭順・謹慎は勿論、開城もする心積りの様子、いずれにせよ過激派が内乱を生じて官軍に対しどのような不法を行うか計り難い。そういう訳でますます容保の罪は逃れ難く心痛致しておりますので、どうぞ寛大なご処置をもって(現在は)領土減地・無益粗暴な家臣の首を差し出せる状況に付き、謝罪をお聞きいただき、朝恩を戴けるように致したい」と両中将も嘆願に申し来られました。


右御取上無之、彌討會に相成候ては兩國の人民及難澁、蜂起の徒追々出来、鎮静討罪多端に成行、各藩疲弊終には社稷難保場合にも至り、勤王の赤心居兼、却て恐入候次第に候、
前述は受理しません。いよいよ会津を討つとなっては両国の人民も難渋し、また蜂起する者も次第に出来、鎮静や討伐にあれやこれやと忙しくなります。各藩は疲弊し終いには国家を保つのも難しくなり、勤王の志も留め兼ね、却って状況も酷い次第になります。


何卒會の願に不拘、各藩の願を以、奥羽兩國の民安堵爲致之思召を以て速に御裁許奉願度段申出、一旦総督にも右之書差廻に相成候へども、右段の譯を以て総督を要し、夕七ツ時より夜の九ツ時迄詰居、先年徳川慶喜主上を奉要の轍決て會之指圖と相見得可悪之甚き、愈不得止御取揚に相成候由にて、當十五日白河へ到来有之申候、
「どうか会津藩の希望(嘆願)のみにこだわらず、各藩の希望を用いて奥羽両国の民が安堵致す意向で速やかに裁決を致すようお願いしたい」との申し出、一旦総督にて嘆願書を差し廻しとなりましたが、前述の理由にて総督を待ち伏せし、夕七ツ時から夜の九ツ時まで居座り「以前徳川慶喜天皇を要して行った先例、必ず会津の指図があったと考えるのは正しくなくいかがなものか」と。とうとうやむを得ず総督は嘆願書を取り上げる(受け取る)事になったとの事で、(自分が)当十五日に白河へ行く機会がありました。

 

右の譯にては、総督府迚は一人も無之、押て返せば今日より兩中將始各藩にも會に合し候様相成可申、少々にても兵隊有之候はゞ押付出来申候へども、迚も六ヶ敷、宇都宮兵も追々賊處々蜂起にて于今不来大に困り申候、

そういう理由で総督府(の兵力)は一人も無く、嘆願を押し返せばその日から両中将を始めとした両藩が会津藩に同意するようになります。少しでも兵隊を持っているのなら嘆願を押し返せる事も出来ますがとても難しく、宇都宮兵も次第に賊徒が各所で蜂起している為にこちらに援軍も来れず大変困っています。

 

乍併一旦総督取上げに相成候を返す譯には参り不申候間、此上一應京師へ相伺、奥羽の情實得と申入、奥羽皆敵と見て逆撃の大策に致し度候に付、乍不及小子急々江戸へ罷越、大総督府西郷様へも御示談致候上登京仕、尚大阪迄も罷越、大舉奥羽へ皇威之赫然致候様仕度奉存候、
しかしながら一度総督がお受け取りになった嘆願書を撤回する訳にはいきませんので、このようになったからには一先ず京へ出向き、奥羽の実情をとくと申し入れ、奥羽皆敵であると見なして返り討ちにするような大策を練りたいと思っております。及ばずながら私が急遽江戸へ参り、大総督府の西郷様へご相談の上で京を経て大坂まで参り、大挙兵をもって奥羽へ皇威を盛んに示したく思っております。


此歎願通にて被相許候時は奥羽は一ニ年之内には朝廷之有にあらざる様可相成、何とも仙米賊朝廷を輕ずるの心底、片時も難擱奴に御座候、右大舉に相成候時は、拂底之軍艦にても一ニ艘酒田沖へ相廻し、人數も相增、前後挟撃之手段に致候外致方無之候、
この嘆願書が通り、罪を「許す」とされた時は奥羽は一、二年も経たぬ内に朝廷の全てを掌握しようとするでしょう。どうやら仙台藩米沢藩の賊共は内心朝廷を軽んでいるようですので僅かでも目を離すのは難しい奴らでございます。大挙兵での討伐となった時は、物資の少なくなった軍艦であっても一、二艦酒田沖へまわし、人数も増やしまして、前後挟み撃ちの手筈にする他致し方なく思います。


後口へも近況申遣べく、尤も庄内へは急に打入候様可致、此件篤と御相談之上取計可申譯に候得共、一日長引時は一日丈け賊論沸騰し不忽聞候間、千萬僭越之至に御座候得共、書中にて申上置、直に出足上方へ出懸中候間、副総督様へ宜敷被仰上可被下候、

後口にも近況を申し遣い、勿論庄内藩へは早急に討ち入るよう致します。この件もじっくりとご相談の上で取り計らいを申す訳でありますが、一日長引けばそれだけ俗論が沸き突然聞き分け無くなりますので、とても失礼な事とは承知でございますが書中にて申し上げて置いた次第です。じきに上方へ出発しますので、副総督様へ宜しく申し上げてください。


別紙歎願書會と仙米中將名前之分は早々札場へ書出公然と人に見せ、當分人氣を静め、且又桑折其外へ築立候砲臺も、今日に至ては却て賊の固と相成候故、人氣鎮静之儀に關係といふ譯以て悉く崩し候様可申付奉存候、
別紙、嘆願書で会津藩仙台藩米沢藩中将の名前が書かれた分は早々に札場へ(高札にやり)書き出し、公然と人に見せて当分の間民気を静め、かつまた桑折(地名)その他へ築いた砲台も今日に至っては賊の元となりますので、民気鎮静を名目として残らず破壊するよう申し付けようと思います。


仙も内輪に於て公然と歎願不相叶時は反逆之噺も致居候由、勿論弱國二藩は不足恐候得共、會を合候時は多勢にて始末六ヶ敷、成丈け穏にして二藩を可謀、

仙台藩も内輪において公然と「会津藩の)嘆願が叶わない場合は反逆する」という話も出ている様子。勿論弱国である二藩は恐れるに足りませんが、会津藩と合併してしまえば多勢となり始末が難しくなります。なるべく穏便に済ませるよう二藩を対処すべきかと思います。


尤兩藩中にも兩三人づゞの外、賊徒魁は無之、主人は好人物ならん、右御示談旁呈一書候、小生出足後は、何れも平坂新八郎へ託し、少々之事は中村小治郎へ頼置候、大體之處は醍醐参謀卿へ申上置候、大抵之事は差置候様致度候頓首

もっとも両藩の中にも三人ずつ程度しか賊徒は居らず、またその藩主は気立ての良い善人(お人好し?)です。以上、ご相談を兼ねて一書書き認めました。私の出発後は全てを平坂新八郎へ任せ、少々の事は中村小治郎へ頼み置きます。概略等は醍醐参謀卿へ申し上げておきます。ほとんどの事はそのまま保留とするように致したいです。頓首


後の四月十九日八ツ半時
途中を恐れ、福島藩足輕を頼み持参爲致申候、申も疎に候得共、御覧の上御投火可被下候也
世良

後の(追伸の意味?)四月十九日八ツ半時(午後三時頃)
途中(で届かぬ)を恐れ、福島藩足軽を頼み持参致しました。ご覧の上(この書簡を)燃やして処分してください。
世良