おべんきょうノート

自分用です。

安政4年9月3日 煙管を折るの記

一部抜粋にて

 

一日有隣と士風を論ず 無咎、無逸、市、溝、皆、これに在り 夜深うして灯燃え残る 談、岸田生の事に及ぶや、余の憂ひ色に現はれ、一座黙然たること之れを久しうす 無逸慨然として煙管を把って之れを折る、曰く「吾れ其れ此れより始めん」と 無咎と市、溝と声応じて管巳に分かたる

一日、富永有隣君と武士の風紀作法について意見を交わす。そこには無咎(増野徳民)、無逸(吉田栄太郎)、市(市之進)、溝(溝三郎)も同席していた。夜が深くなり灯りが燃え残る。話題は塾生の岸田(左門)に移り、私は(彼が煙草を吸う事を心配し)それが顔色に表れたので皆黙り込み、沈黙が続いてしまった。すると奮い立つように無逸(栄太郎)突如煙管を持ち、これを折る。彼が言うに「僕はそれを今から始めます」と。後の三人もその声に応じて煙管を折る。

 

有隣曰く、「汝が輩審して能くかくの如し、吾れ安んぞ折らざるを得んや」と 因って余をして之れを折らしむ。余曰く、「煙は飲食の余事と雖も慣れては性となる。吾が性、煙を憎むこと甚だし、然れども諸君一時の忼慨、終身の無聊を致さんことを憂ふるなり」と

有隣君も「私達を見て良いか悪いか判断すれば皆それに倣う、私がどうして折らない事を許されるだろうか(いや、許されはしない)」と言い、私に煙管を折らせた。私は「喫煙は飲食外の嗜みといえども続けると習慣になる。私自身は喫煙を嫌っているが、しかし君達がこの一時の発奮で手持ち無沙汰になり人生が退屈してしまわないか心配だ」と言った。

 

有隣二無憤然として、悦ばずしていわく、「子、吾が言を疑ひたまふか 今岸田生と市、溝と、年皆十四にして公然煙を噛むこと、長老先生に異るなし、而して当今挙世皆然り 我が輩寧んぞ一岸田生の為めにして然らんや 子尚ほ吾が言を疑ひたまふか」と

彼らは憤った様子で喜ぶ事もなく「先生は僕の言葉を疑われるのですか。今、岸田君と市、溝と皆十四歳にして公然と喫煙している行い、(自分は)先生に異論はありません。(世の中の士風を立て直すと言うなら)名前を挙げた者も皆同様でしょう。僕達がどうして岸田君の為にしてやらないというのか。先生はそれでも僕の言葉を疑われるのですか」と言った。

 

余再拝して罪を謝して曰く、「諸君果して然らば、松下の邑、其れ此れより起らん 吾の憂ひ以て解くべきなり。吾れ其れ筆を提げて之れを記さん」と 丁巳九月三日夜、二十一回猛士謹んで記す

私は再拝(二度礼拝)し先程の言葉を詫びてから「君達が本当(に禁煙を守れた)ならこの村の士風も方々から起ち上り連鎖となるだろう。私の憂う気持ちはそれが区切りとなり解かれる。私は筆を持ってこの出来事を記そう」と言った。丁巳九月三日夜、二十一回猛士、謹んで記す。

 

明朝此の文を把り、岸田生の為めに講解一番す 言未だ終らざるに、生府伏して涕泣し、時を過ぎて乃ち止む 生遂に一語なし 而して余も亦敢へて之れを責めず

翌朝この文章を纏め、岸田君に内容を解説した。言葉が終わらぬ間に彼は居間に伏して涙を流して泣き出し、暫くそうしていた。彼は最後まで何も言葉を発さず、私もまた少しもそれを責めなかった。

 

後数日、生尽く煙具を以て其の親家に送致し、敢へて復た吸はず 其の書を読み、事を執るを観るに、精苦すること往日に過ぐ 蓋し諸君の意に感ぜしならん

数日後、岸田君は喫煙道具一式を親類元に送り、再び喫煙をしなかった。その文章を読み行動に移すまで悩む事幾日。きっと彼らの意志に何か感じる事があったのだろう。

 

高杉春風余の為めに道ふ、「吾れ年十六にして、便ち噛煙を好む、長者之れを規むる者ありしも、而も従はざるきこと巳に三年なり 誤って再び煙具を路に遺つ吾れここに於いて感ずる所あり 断然割去せり 是れ小事なりと雖も、顧へば亦難かりき 諸君の苦心は吾れ則ち之れを忖る」と

(この話を聞いた)高杉晋作は私に説いた。「僕は十六歳から煙草を嗜んでおり、大人にたしなめられた事もありましたが、従わないまま三年となります。誤って再び喫具を道に捨ててしまった僕もその話に感じる所がありました。きっぱりと辞める、これは些細な事といえども思い返してみれば(実現は)難しかった。皆が思い悩むのは僕はこういう理由からだと思います」と。

 

春風行年十九、鋭意激昂、学問最も勤む、其の前途、余固より料り易からざるなり 因って併せて其の事を書し、以て諸君に示す 諸君其れ遼豕の笑ひとなるなかれ

晋作は十九になり、やる気もあり、勉強を何よりも一番に励み、その前途は計り知れない所がある。故に合わせてその事を君達に書き示す。皆々、独り善がりの笑いとならないように。