おべんきょうノート

自分用です。

万延元年3月30日〜5月23日 東帆録

万延元年(1860年)3月30日〜5月23日

東帆録(高杉晋作 書)

藩命により軍艦教授所に入所し航海実習として4月5日に丙辰丸に乗船。萩から2ヶ月かけ江戸へ向かう事になる。その間の航海日誌。

巻之一

一巻

我公嘗制 軍艦名日丙辰丸 既航西海九州四国際而未航東海

我が藩公はかつて軍艦を作られた。その名を丙辰丸と言い、既に瀬戸内海、九州、四国を航海した艦だが東海は未だ渡った事はなかった。

今茲庚申公又使諸航東海 藩士某々当其挙而予又与焉 初閏三月卅日命下

庚申の本年、藩公は丙辰丸を東海への航海をお決めになられた。藩士数名がその任に当たる事になり、僕もまた一行に加わる事となった。藩命が下ったのは三月三十日である。

親戚或議曰、東海遠州大洋天下懼所且藩士未嘗航此者不如辞也

或る親戚が言うには「東海遠州(現在の静岡県西部)の大海原は誰もが恐れる場所で藩士の中にこれまで航海を成し遂げた者が誰一人としていない。辞退した方がいいのではないか」と。

予窃喜曰、大丈夫生于宇宙間何久事筆研況有公名乎

僕は浮き立つ気持ちを隠して言った。「この広大な世に男児として生まれ落ちたからには、どうしていつまでも机に向かって筆と硯に仕える事ができましょう。ましてや藩公の命とあっては辞退する事などできません」

 

四月五日
遂出家乗船々繁在萩城北恵美須岬々去城纔一里

四月五日
遂に家を出て乗船した。船は萩城から北の恵美須岬に繋がれている。城からわずか一里ほど離れた場所だ。

1里=3.927km

六日至十二日
積雨逆風、船不発、箕座終日

六日~十二日
雨が降り逆風、船は出航しない。終日船上に座ったまま過ごした。

箕座:足を前へ投げ出した座り方

 

十三日
晴風落朝後発恵美須岬碇越浜、黄昏風少起乃出越浜

十三日
空は晴れ風も止んだ。日が上るのを待ち美須岬を発して越浜に碇を下ろす。黄昏時になって風が少し起こったので越浜を出航した。

時商船十余艘争出津、皆従北国下馬関者避逆風云、至相島夜巳四更

その時、商船十数艘も争うように港を出た。皆、北国から下って馬関へ向かう船で、この場で逆風を避けていたという。相島に着いた頃には真夜中であった。

 

十四日
朝風順船馳午牌風死波静海面如盃池

十四日
朝は順風で船は気持ちよく海上を走ったが、昼になると風は死んだように止まり波も静かになった。海面はまるで酒を満たした盃のようだ。

入夜潮甚悪、将至蓋覆島天明蓋覆島我支封長府候領地、従萩城至此海程三十三里

夜に入ると潮流がとても悪くなった。蓋覆島(現在の蓋井島)に到着する頃、夜が明け空が明るくなる。蓋覆島は萩藩の支藩であり長府候の領地である。萩城下からこの場所までは海路三十三里だ。

 

十五日
無風潮亦悪船似進而退、午後西風少起白帆万飽一馳入赤間関

十五日
風がなく潮もまた悪く、船は進んでいるかのように見えるが実際には後退している。午後に西風が少し起ったので、船の白い帆は良風を受けて一気に赤間関(馬関)に入港した。

々々山陽第一大港泊舟数艘、橘花林立淡窓氏所謂、千帆纔去千帆至此是山陽小浪華者是也

赤間関は山陽一大きい港で碇泊する船が数艘。帆柱が白い花を付けた橘の木のように林立している。広瀬淡窓氏が言うところの「千の帆たった今去り千の帆がまたここに至る、山陽の小浪華」は、まさしくこれである。

 

十六日至十九日
有故掩留、上陸訪伊藤静斎々々素本藩南部賊民奔起、静斎時歳十八為県令某斬倒賊民数十人後遂継伊藤氏

十六日~十九日
訳あって船が停止したまま動かないので、上陸して伊藤静斎を訪ねる。彼は元々萩藩の人間だ。南部の賊民が蜂起した時、静斎は十八歳だったが県令 某によって賊民数十人を斬り倒し、その後伊藤氏の養子となった。

々々々則馬関豪氏所謂巨商官者、静斎素勤其官為讒人所退今則幽居清貧楽文詩

伊藤氏は馬関の有力者で、豪商でもあり役人でもある。静斎もその役に就いていたのだが讒言によって役目を退き、今は幽居して清貧に甘んじ詩文を楽しむ日々を送っている。

全未能忘国事慷慨淋々常論時勢、其談云

そうはいっても国家は忘れられず、悲憤が溢れ出すと常々時勢を論じている。静斎が次のような話をしてくれた。

嘗筑当候豪邁不凡、日田山野出必騎馬陪従者纔両三、嘗築厩于庭前自畜馬大臣諌之候笑曰

以前、筑当候という大変優れた君主がいた。田園や山野を視察する際わずか二、三人の従者を引き連れ、必ず騎馬で出かけた。ある時庭の前に厩を建て、自ら馬の世話をし始めた。大臣はこれを諌めたが候は笑って次のように言った。

愚暗主或愛籠鳥自畜之予愛馬豈与之同日而論乎、大臣感其言云

「或る愚かな君主は籠の鳥を愛で自ら飼っていたが私は馬を愛でている。どうして両者を同等に扱うのか」君主のその言葉に大臣は深く感じ入ったという。

此日静斎呼酒勧予々亦快飲激談頗洗船中之鬱塵矣、日暮帰船、於馬関有詩云
この日静斎は僕にしきりに酒を勧めてくれたので僕もまたよく飲み、かつ大いに語り、船中の鬱塵をすっかりと洗い流した。日が暮れ船に戻る。馬関において詩を作る。


海門千里与雲連

碧瓦錦楼映水鮮
前帝幽魂何処在

渚宴煙空鎖陽天

関門海峡から望む海は千里の彼方まで拡がり、空の雲へと繋がっている

碧の瓦、錦の楼、水に映えて鮮やかなり

安徳天皇の御霊は一体何処へいらっしゃるのか

渚から立つ靄(もや)が、夕日の沈んでいく空を空しく覆い隠していく


廿日
密雲微雨発馬関、風順則潮逆潮順則風逆

二十日
厚い雲から細かい雨が降っている中、船は馬関を出発。順風だと潮が逆に流れ、潮の流れが順調だと今度は風が逆向きになる。

終日動揺漸欲至三田尻港、天暁

そんな調子で船は終日揺れ動き、ようやく三田尻に入港しようとする頃には明け方になっていた。

 

廿一日
早朝入三田尻竜口港

二十一日
早朝、三田尻の竜口港に入港。

 

廿ニ日
有故船不得発因上陸訪同行平岡兵部家、入浴晩酌此日遂宿兵部家

二十二日
訳あって船が出航できず。上陸し、同行者である平岡兵部の家を訪問した。入浴し晩酌、この日は兵部の家に宿泊した。

 

廿三日
朝辞平岡氏訪西浦医師柳多熊々々嘗為松前人鈴木織太郎周旋尽力、頗奇士也

二十三日
朝に平岡氏の家を去り、西浦の医師である柳多熊を訪問。彼はかつて松前人 鈴木織太郎のために周旋尽力した男であり、すこぶる奇士である。

初鈴木遊歴西国過防州鯖川同友松前某者過溺死于此川、鈴木為之欲築墓三旬余宿柳家

事の始まりは鈴木が西国を遊歴し、防州・鯖川を渡ろうとした時だ。その時、彼の同友である松前藩の某が川を渡り損ない溺死してしまった。鈴木は友の墓を立てるため、三十日以上に渡って柳家に宿泊したという。

予去歳於東武茗學与鈴木親交、予頗為鈴木欲為事因訪柳也、多熊談了捉午飯予喫之去

僕は昨年昌平坂学問所で鈴木と親交があり、何とか彼の力になりたいと柳家を訪れた。多熊は話し終えると昼食を出してくれたので、僕は馳走になってから退去した。

 

廿四日
曇天微風発三田尻竜口、午後雨頻降因碇泊野島々々去三田尻纔三里

二十四日
曇天微風の中、船は三田尻竜口港を発したが午後になると雨が酷く降り付け、野島に碇泊した。野島は三田尻からわずか三里である。

 

廿五日
朝雨午晴風亦梢順、昼牌発野島日暮室津

二十五日
朝は雨だったが昼には晴れた。風もまた順風。昼に野島を発し、日暮れに室津に入港。

 

廿六日
淹留、御小軻至上関々々与室津相対其関唯一午吼、

二十六日
船は長く停まっている。小船を使って僕は上関へ向かった。上関と室津はわずかな距離を挟んで向かい合っており、関所は南にただ一つそびえている。

漁婦所歌、室津上関棹而通、真言其景矣、人家数百、宿檣不絶、従馬関下浪速之船必過此関、

漁婦の歌の「室津、上関、棹して通る」はまことにこの情景を歌っている。人家は数百、碇泊する船が遠くまで続く。馬関から浪速に下る船は必ずこの関所を通過する。

古有村上某者領此地以銕コウ塞其間取商税通船云、上陸散歩又乗小軻帰

昔、村上某という者がいた。彼はこの地を領土としていたが、鉄製の縄でその間を塞ぎ通過する船から商税を取ったという。上陸した後は散歩をして、再度小船に乗って丙辰丸に帰った。

 

廿七日
船子上陸不帰、午牌船子帰乃発船

二十七日
船子が上陸したまま帰らず。昼に帰ってきたので、船もやっと出発。

此日天陰風強船向逆風馳船痕亜字、出室津六七里計、入夜風益強、天如墨船不知所向

この日は曇っていて風も強い。船は逆風に向かって進んでいき、「亜」の字に似た跡を海上に残す。室津を出て六、七里程の所で夜に入り風は益々強くなった。空は墨のように真っ黒で、船はどちらへ向えば良いのかわからないほどだ。

因船子交議遂決又船反則風順、忽入室津港舟子名之謂出戻
船子は話し合った末に遂に決断し船を反転させることで逆風は順風となったが、またもや室津港に入ってしまった。彼らはこの事を「出戻り」と名付けた。

 

廿八日
早朝発室津日暖風弱、船甚不進

二十八日
早朝に室津を出発。日は暖かく風は弱く、船は全然進まない。

入夜至予州馬島岬、待午牌挙碇船馳一里計潮亦悪、遂定泊予州風速岬、潮甚悪因碇

夜に入り予州伊予国の馬島岬に着く。昼を待って碇を上げ船は一里ほど航行したが、潮の流れはまたもや悪く、遂に予州の風速岬に碇泊することにした。潮の流れははなはだしく悪い。ここに碇を下ろした。

此日船路僅七里計、予州馬島風速皆松山候領地也

この日に船が進んだのは僅か七里ほど。予州の馬島も風速岬も松山候の領地である。

 

廿九日
陰天無風、朝発風速岬

二十九日
曇天で風がない。朝に風速岬を発つ。

船少馳午後潮逆因碇空洋入夜風随雨起

船は少々海上を進んだが、午後は潮流が逆向きとなり海原に碇を下ろすことになった。夜に入ってからは雨が降り風も出てきた。

又挙碇漸入芸州御手洗岬、此日行程七里計

そこでまたもや碇を上げ、芸州の御手洗岬にやっと入ることができた。この日の行程は七里ほど。 

 

五月朔日
風雨船難発、不得巳留于御手洗御手洗者芸州領、紛壁紅襴続々枕海、頗佳港也上陸散歩

五月一日
風雨で船を発することが難しく、御手洗に留まる事にした。御手洗は芸州領で、白壁や紅欄が連なり海に臨む大変素晴らしい港だ。上陸してぶらぶらと歩き見回った。

 

ニ日
大風雨船難出港、然風順船不得不発

二日
大雨風で船を出すことは困難である。しかし風は順風であり出航させないわけにはいかない。

舟子甚尽力漸出航、出航則船馳如矢午後風益強忽入讃州多戸津港

舟子は迷った末ようやく出航させたが、港を出た途端に船は矢の如く海上を進んだ。午後になってからは風が益々強まり、たちまち讃州の多度津港に入る。

此日従辰時至酉時船馳十三四里
この日は辰時から酉時の間に船は十三、四里を進んだ。

 

三日
晴船中尽上陸、俗人称之謂船中謁崇徳天皇象頭山金毘羅祠中、崇徳院天皇舟人更甚敬焉

三日
晴れ。船中にいた者は皆上陸した。崇徳天皇廟を見に行くのだと言う。象頭山金毘羅の祠に崇徳院天皇が祭られていて、船乗りから大変信仰されているとのこと。

象頭山其形如象頭首故云爾、老松深鬱渓声沈々覚清潔、

象頭山はその形が象の頭部と首に似ているのでそう呼ばれており、辺りには老松が深く茂り渓流の音が微かに響き、清々しさを覚えた。

廟祠亦重楼邃閣、金碧焜燿足驚人目上店喫飯入夜帰、象頭山西則多戸津領東則丸亀領地

また廟祠は重厚かつ奥深い楼閣で、青みの掛かった金色に輝いていて人が目にすると驚き足を止める。僕は店に上がって食事をし、夜になってから船に戻った。象頭山の西は多度津領で東は丸亀領だ。

其間而大領也、故風俗奢美殆有則為似三都風勢嘗聞此地有日柳某者、奇偉磊落所謂侠客者流傍善詩賦云

広大な土地を所有しているからかこの地の風俗は豪奢で美しく、大阪、京都、江戸の三都の風に似ている気がする。この地に日柳某という者がいると聞いたことがある。比類なく立派で気性がさっぱりとした人物でいわゆる侠客であるが、その一方で詩と賦を好むという。

予欲訪之此日有同行遂不能果矣

僕は日柳某を訪問したかったが、この日は同行者がいてついに果たすことができなかった。

 

四日
侵暁出帆、去多度津港一里計待潮潮来則揚碇無風

四日
朝早く出帆。多度津を去り一里ばかりの地点で潮を待つ。潮が到来したので碇を上げたが風がない。

漸至讃州大槌島面泊、此日曇天微雨

漸く讃州の大槌島に到着し碇泊する。この日は曇天でにわか雨が降っていた。

 

五日至七日
漂泊于播州小豆島洋中凡三日間無風船随潮流

五日〜七日
播州の小豆島沖で凡そ三日間程度の漂泊。風はない。船は潮の流れに従うしかない。

潮順則船進潮逆則船退、天晴或下碇或揚帆、七日午漸至淡路島洋碇待潮

潮流が順調ならば船は進み、逆向きになれば後退する。空は晴れ渡り、碇を下ろしたり、或いは船の帆を上げたりして七日の昼にようやく淡路島沖に到着し碇を下ろして潮を待った。

因卸小軻上淡路島
それにより僕は小船を下ろして淡路島に上陸。

 

巻之ニ
二巻

廿ニ日
早朝発坂井港泊坂井船尽出港各争先

二十二日
早朝に坂井港を発す。坂井に碇泊していた船は我先にとばかりに港を出た。

目前戦場頗覚愉快、此日風弱潮逆且浪高船揺動于ニ三里間而不進

目前の戦場のような有様が面白く心の浮き立ちを覚えた。この日は風が弱く潮は逆向きで尚且つ波が高い。船は二、三里の間に渡り揺れ動くばかりで進まず。

黄昏従地方風起、船少馳将至大島夜已暁

黄昏時になり、陸の方から風が吹いてきたので船は少しだけ進んだ。大島に至るというところで夜が明けてしまった。

 

廿三日
朝天晴西風起朝船馳於紀州大島洋、午牌従海上紀州熊野山名知瀑真絶景也

二十三日

朝空は晴れ上がり西風が吹く。午前中に船は紀州大島の海を快走し、昼に海上から紀州熊野山、那智の滝を望んだ。真に絶景だった。

午後入夜西風益強船馳、紀州地方深高山深森、舟子云船馳志摩洋海岸形勢于左面従是及遠州大洋

午後夜に入り西風が益々強まり船は気持ちよく海上を走る。紀州地方は、深い山、深い森といった風情で、舟子が言うには、「船は志摩洋左側の海岸に沿って航行している」とのこと。これより遠州大洋に及ぶ。

此日船走百里

この日船は百里ほど走った。

安政4年8月12日 松陰→栄太郎

若し曾子の心あらば即ち竜比の身首分裂と手足を啓くと一般なり

もし全孝を本当に理解していれば竜蓬・比干が王を諫めて刑を受けた事は、臨終の時に門弟子を呼びて「予が手を啓け、予が足を啓け」と心法を示したのと同じである。※1

 

然らずんば則ち牖下に老死するも亦刀鋸の憀辱と何ぞ異ならん

そうでなければ、家の中で老死するのもまた処刑されるのも何も変わらない。


今度三生の誓文御示しに預り感心致し候

この度は三生の誓文をお示しに預かり、感心致しました。

 

之に仍り前書陳明卿の語書附け候 時を以て三生へ御申し傳へ然るべく存じ候なり

  安政四年八月十二日  二十一回生
 吉田無逸 足下

これにより前書、陳明卿の語を書きつけました。

三生へお申し伝えますよう思います。

 安政四年八月十二日  二十一回生
  吉田無逸 足下

 

 

※1

論語『泰伯第八』187にて【曾子、疾いあり。門弟子を召して曰く、予が足を啓け、予が手を啓け。詩に云う、戦戦兢兢として、深き淵に臨むが如く、薄き冰を履む如くせよ、とあり。而今而後、吾れ免れしを知るかな、小子】という章がある。

【若有曾子之心、即竜此之身首分裂与啓手啓足一般不然即老死牖下亦与刀鋸僇辱何異】この文は明の陳明卿の語として陽明学を学ぶ者の中では有名のようで、江戸時代初期の陽明学中江藤樹『翁問答』でも引用されている。

 

『全孝の心法をよく受用すれば竜蓬は桀王を、比干は殷の紂王を諌めて身体髪膚を切り破り身体と首が断たれて殺されてしまったが、病気で死の淵にいた曾子が弟子に対し手足を啓いて一毛も損傷しないことを示したのと同じ孝行である。全孝の心法をよく受用しない人が老衰により家の中で病死して毛一筋も損なわなかったとしても、刀で切られ鋸で引かれるような辱め(刑罰)に合うのと変わりない』という意味。

戊辰戰爭實歴談

会津白虎士中二番隊隊士 酒井峰治

明治年間に書き認めた手記

原文にはない注記や補足:青括弧()

今般福良村ニ出張精々盡力ノ段一統大儀

右ノ通り福良村ヘ出張ノ際ニ大殿様ヨリ城中大書院ニ於テ  御言葉ヲ賜フ茲ニ記憶ヲ録シテ此編ノ諸言トナス

この度福良村(現在の郡山市湖南町福良地区)に出張し最大限力を尽くした事、誠にご苦労であった。

右の通り福良村へ出張の際に大殿様より城内大書院においてお言葉を賜る。ここに記憶を残してこの手記の序文とする。

大書院→付書院をつけた表座敷、客間

慶應三年三月中白虎二番隊士中ニ列シ城中三ノ丸ニ於テ幕人畠山某外幕府旗下ノ士藪名及會藩士柴五三郎氏外兩三名ニ就キ三月中旬ヨリ七月七日迄佛式練兵ヲ講習ス

慶応三年三月の事、白虎士中二番隊として城内三ノ丸において幕府の者 畠山某とその部下数名、会津藩士 柴五三郎氏とその他二、三名、三月中旬から七月七日まで仏式(フランス式)練兵を講習した。

 

同七月八日若君ニ扈シテ福良村ニ出張中毎日練兵ス且山中ニ入リテ散兵ヲ以テ空砲ヲ放チテ若君ノ御覧ニ供ス當時用ユル所ノ砲ハ「ヤーゲル」ナルヲ似テ火門塞リテ丸ヲ發スルニ苫ム村東ニハ一番隊西ニハ二番隊ヲ出シテ番兵ス既ニシテ福良村ヨリ直チニ原村ヲ經テ若君ニ扈シ猪苗代峰山土津公神社ニ御參拝セル

同年七月八日若君徳川慶喜に随従し、福良村に出張中は毎日訓練を続けた。山の中に入り、散兵戦術により空砲を放って若君にご覧になっていただいた。当時所持していた砲は「ヤーゲル」で、火口(点火口)を塞いで丸弾を発射するのに苦慮した。村の東には一番隊、西には二番隊から見張りを出した。福良村から原村を経て若君に随従し猪苗代峰山にある土津公の神社(現在の土津神社)にご参拝した。

 

后チ猪苗代ニ一宿シテ若松ニ歸レリ時ニ寄合白虎若君御迎ヘトシテ長泥ニ出テ居ル者其勇壯喜躍ニ堪ヘズ而シ八月二十二日ニ至リ敵軍戸ノ口原ニ来リシト報ズルニ依リ其ノ日十時頃ニ隊長日向内記宅ニ同隊 悉ク集リ居レリ皆云フ「ヤーゲル」砲ハ用ヲ爲サズ更ニ別銃ヲ受取リ戰ニ趣カザルベラズト

その後猪苗代に一泊し、若松に帰っていた時に寄合(中士)白虎隊が若君をお迎えする為に長泥まで出ていて、その勇壮さに喜躍した。八月二十二日、敵軍が戸ノ口原に来たと報告を受け、十時頃に日向内記 隊長の邸に同隊が集まった。皆で「ヤーゲル銃は役に立たないので別の銃で戦に赴きたい」

勇壮→勇ましく意気盛んな様

喜躍→踊り上がるほど大きく喜ぶ事

城中ノ武具役人曰ク他ニハ唯ダ御備銃アルノミ之レヲ渡スハ不可ナリ隊中颺言スルモノアリ無用ノ銃ヲ携ヘテ戰ニ赴ケト令スル者何人ゾ宜シク殺戮シテ余等モ自殺セント決ス遂ニ馬上銃ヲ受取ル馬上銃ハ短ク且ツ輕クシテ白虎隊ニ頗ル適當セリ

そう城内の武具役人に言うと「他には予備の銃しかないので渡せない」と返答され、「貴方がたが役立たずの銃を携えて戦へ行けと仰るならば、(貴方が)何者だろうと殺戮して私も自決する」と声を大にして言い放つ者も出、遂に馬上銃を受け取る。馬上銃は短く軽く、白虎隊にとってとても使いやすかった。

 

廿二日君公ニ扈シテ蚕養口ニ出ツ時ニ塩見常四郎戸ノ口原ヨリ馳セ来リ出兵ヲ促スコト甚ダ急ナリ乃チ半隊ヲ瀧澤東ニ進メリ又継テ其半ヲ進メテ前半隊ニ合セシム戰友皆喜躍シテ瀧澤峠ヲ越ヘ舟石ニ達スレバ敵軍大砲ノ聲耳ニ入ル

二十二日藩公松平容保に従い、蚕養口(現在の会津若松市蚕養町)に出た時に塩見常四郎が戸ノ口原から駆け付け、突然出兵を促した。そこで半隊を滝沢の東に進め、続いて残りの半隊を進めて合流させた。仲間は皆楽しそうに滝沢の峠を越え、舟石に到着した所で敵軍の大砲の音が耳に入った。

 

依テ舟石茶屋ニ於テ丸込ヲ為シ携帯品ヲ舟石茶屋ニ預ケ特ニ身軽装トナリ舟石茶屋ヨリ駆ケ足ニテ強清水ヲ過キテ約一丁半行キテ左方ノ小山ニ登リ茲ニ穴ヲ掘リ胸壁ト為ス時ニ官兵ハ四五丁ヲ距ツテ数千人居ルヲ認ム

舟石茶屋にて丸弾を込め携帯品を舟石茶屋に預けて軽装になり、舟石茶屋から駆け足で強清水を約一丁半(163mほど)行き、左側の小山に登ってここに穴を掘り、胸壁とした。官兵は四、五丁(428〜545m)の距離の先に数千人居るのを確認した。

一丁(一町)→およそ107〜109m程度

胸壁→防御するための背の低い壁面

是レヨリ戸ノ口原ニ達スルニ幕兵八十五六人喇叭ヲ吹テ敵軍ニ向フアリ是レニ於テ其側ノ山ニ登リ身ヲ匿クシテ敵状ヲ窺フ既ニシテ胸壁ヲ築キ陣ヲナシ其上ニ 於テ一戰シ我ガ軍利アリ

これから戸ノ口原に到着するという時に幕兵八十五、六人がラッパを吹いて敵軍へと向かっていた。(我らは)そちら側の山に登り身を隠して状況を窺う。既に胸壁を築いて陣を為した上で(敵軍と)一戦し、我軍に利があった。

 

敵退キ更ニ大砲ヲ引キ来リ戰フ(進撃兵二三十名馳来リ繁敷戦闘セリ乃チ午後四時頃ナリ亦此山続キニ於テ幕兵八十五六人喇叭ヲ吹テ敵軍ニ向テ闘ヒツツアリ)時我敢死隊若干名和銃或ハ鎗等ヲ携ヘ進ミ来ル(敢死隊ハ乃チ抜刀隊ト同シ)

敵軍は(一度)退いたが、更に大砲を牽いてきて戦った(進撃兵ニ、三十名が駆けつけて来て激しく戦闘をする、午後四時である。またこの山続きには幕兵八十五、六人がラッパを吹いて敵軍に向かって戦っていた)我軍敢死隊の若干名は和銃(五匁玉火縄式銃?)、或いは槍などを携えて進んで来た(敢死隊は要は抜刀隊と同じ)

 

白虎隊ハ此處ヲ其敢死隊ニ讓リ赤井谷地ニ轉シ敵ヲ挟ミ撃タントス敵ハ本道ノ兵ヲ尾シテ城下ニ達ス我隊側ヨリ敵ヲ砲撃スルモ利アラズ退軍ノ令ニ依リ時ニ八月廿三日大暴風雨ヲ侵シテ新堀ノ處ニ至リ身ヲ潜ム而シテ土堤ノ高サ五六尺其上ニ攀ヂ登リ敵ノ来ルヲ狙ヒ立打ヲ為セシハ獨リ石田和助ナリ時ニ伊藤俊彦ハ見エズ戦友一同大ニ心痡シ居ル処ヘ俵ノ棧底ヲ冠リ来レリ其氣ノ勇壮ナルニ驚カザルハナシ

白虎隊はこの場を敢死隊に任せ赤井谷地に移動して敵を挟み撃ちにしようとした。敵は本道の兵を追って城下に到達、我々は敵に向けて砲撃したが効果は得られなかった。退軍の命令により八月二十三日大暴風雨となったので新堀に行き身を潜めた。その土堤(土手)の高さは五、六尺、その上によじ登り立ち上がって敵が来るのを狙い撃ちしようとするのは石田和助である。伊藤俊彦の姿が見えず、戦友一同で大変心配していたところへ俵の桟底を頭に被って(伊藤俊彦が)やって来たので、その意気の勇ましさに驚かない者はいなかった。

 

廿三日ノ朝赤井新田ヲ引キ揚ゲ江戸街道ヲ経テ穴切坂ヲ下ダリ若松ヲ指シテ西ニ向フ其左ニ山路アリ時ニ山内小隊長跡ヨリ来リ山路ニ入リ隊士ニ謂テ曰ク子等何処ニ赴カントスルヤ石山虎之助進ミ出テ大聲ヲ發シテ答テ曰沓掛ニ赴テ決戰セント欲スルノミト答フ

二十三日の朝、赤井新田を退き上げ江戸街道を抜けて穴切坂を下り、若松を目指して西へ向かう。左側には山路があった。その時、山内小隊長が後からやって来て山路に入り、隊士に「お前たちはどこに向かおうとしているのか」と聞いた。石山虎之助が進み出て大きな声で「沓掛に行って決戦したく思っています」と答えた。

 

小隊長曰ク敵ハ衆ニシテ我寡ナレバ徒ニ犬死ヲ為サンヨリハ我ニ隋ヒ一敵ヲ避ケ後圖ヲ為スベシト進メラル虎之助憤然トシテ曰ク小隊長ニシテ猶能ク腰ヲ抜カサルルカト謂ヘリ

小隊長は「敵は大軍であり我等は小軍である。いたずらに犬死にをするよりは私に従い、ここは敵を避けて再起を図ろう」と進言された。虎之助は憤然として「小隊長であろうお方が躊躇うとは、よもや腰を抜かされたのですか」と言った。

 

小隊長モ亦憤然トシテ曰ク勝敗ノ機ヲ見ズシテ進死スル小児ノ了簡ニ過キズ宜シク予ガ指揮ニ従ヒテ来ルベシト云ヘ棄テ山路ニ向ヒテ去ラル後全隊モ之レニ隨ハントシテ除々歩ヲ進メシモ小隊長ト遂ニ相失シ路三所ニ岐ル酒井峰治ハ中心ノ路ニ入リテ紙製草鞋ヲ履キ直シ(紙製ノ草鞋濡レ湿リタルミ困リ大ニ困却セリ)

小隊長もまた憤然として「勝敗の機を見ずに進んで死のうとするなど子供の考え(了見)に過ぎない。私の指揮に従い、ついてくるように」と言い捨て、山路に向かって去った後を全隊も従おうと徐々に歩みを進めたが遂に小隊長を見失い、路が三つに分かれた場所に出た。酒井峰治(自分)は真ん中の路に入り、紙製の草履を履き直し(紙製の草履は濡れると湿るので大変苦慮した)

 

戦友ノ来タルヲ待ツ居レリ然ルニ戦友ハ何レモ外ノ路ニ入リテ會見スル能ハズ左ニ入ルモノアリ右ニ入ルモノアリ余ハ左セズ右セズシテ中ノ路ニ入リ隊の継ギ来ルヲ待チ且ツ紙製草鞋ノ歩シ難キオ以テ除々澤ヲ下タル時ニ馬ノ嘶ク聲ヲ聴ク若シ敵軍ニ逢ハバ擒トナルハ耻ナリ只自殺セントノミ決心シテ近ズキ見レバ豈ニ圖ランヤ農馬ナリ傍ノ仮小屋ニ母子ト覺シキニ二人ノ農夫ナリ余之レヲ見テ憐恤ヲ乞フテ曰ク

戦友が来るのを待っていたが戦友はいずれも他の路に入ったようで、誰とも会わなかった。左路に入った者もあり右路に入った者もあり、私は左でも右でもなく真ん中の路に入り隊が続いて来るのを待ちつつも紙製草履の歩き辛さから徐々に沢を下っている時に馬のヒンといななく声を聴いた。『もし敵軍に会えば捕虜となる。それは恥だから(敵であれば)自殺しよう』と決心して近付き見れば、意外にも農耕馬だった。傍の仮小屋に母子と思われる二人の農民がいた。私はこの様子を見て憐恤を乞い、

憐恤→哀れみ、金品などを恵むこと

余ハ戰利アラズ且ツ隊ト相失シ道ニ迷テ此處ニ至ル願クハ我ヲ案内シテ本道帰路ニ出シ呉レト金壹両貮分ヲ與フモ肯カズ依テ更ニ壹両貮分ヲ出シ其母傍観ニ忍ビズ其子ニ案内ヲ勧ムルニ仍テ其子余ヲ導キテ猫山ヲ經テ瀧澤ノ不動瀧上方ニ至テ別レヲ告ケ去ル余獨歩シテ瀧澤村ニ至ラントスレバ又次郎ノ父某ニ逢ヒ(又次郎ハ瀧澤村ノ百姓ナリ)

「私は戦う機会もなく仲間とはぐれ、道に迷ってここに出てしまった。願わくば私を帰路の本道まで案内してくれないだろうか」と金一両二分を与えるも頷かない。更に一両二分を出すとその母も傍観に耐えられず子供に案内を勧めた。よってその子供の案内で猫山を経て滝沢不動滝の上方に到着し、子供と別れた。私は一人歩いて滝沢村に向かう途中、又次郎の父に会った(又次郎は滝沢村の百姓である)

 

若松ニ帰テント欲スルノ意ヲ述ブ某答テ曰ク敵既ニ路ヲ遮ギリ厳重ニ塞ギ居レリ到底通スベカラズト云ヘリ是ニ於テ大藪道ヲ潜リ夫レヨリ白禿山ニ至牛ケ墓村ノ百姓庄三ヲ尋ヌルモ居ラズ(御城ノ落チタルヤ否ヤヲ問フ為メニ百姓庄三ヲ尋ネシモ居ラズ)

若松に帰りたいという気持ちを伝えると彼は「敵軍はすでに路を遮り厳重に警備しており到底通れないだろう」と言うので、大薮の道を潜って白禿山に至る。牛ヶ墓村の百姓、庄三を訪ねたが不在だった(お城が落ちたのかどうかを問う為に百姓 庄三を訪ねたが不在)

 

更ニ他人ニ問フモ何ズレモ答フル者ナシ蓋シ余ヲ見テ急ニ身ヲ隠クセルナリト認ム余依テ網張塲ノ松蔭ニ至リ自殺セント決シ其処ニ至ルヤ先ツ小刀ヲ脱シ合財袋ヲ解茲ニ自殺セント決シタル所ヘ庄三及齋藤佐一郎ノ妻ト両人馳セ来リ曰ク自刃ヲ急グ勿レト余乃大小刀ヲ隠シ之チ余月代ヲ剃リ落シ髻ヲ藁ニテ結ヒ代ヘ余ヲ農人ニ扮装シ姑ク難ヲ遁レシム

更に他の者に問うも答える者はいなかった。どうやら私を見て急に身を隠そうとしていた。私は網張場の松蔭で自決しようと決め、そこに向かうとまず小刀を抜き合財袋を解いてここに自決しようと決心した所へ庄三と斎藤佐一郎の妻の二人が駆けて来た。「自刃を急いではなりません」と言い、大小の刀を隠し、私の月代を剃り落とし髷を藁にて結い代え、私を農民の格好に変装させて難を逃れられるようにした。

合財袋→身のまわりの細々とした物を入れて持ち歩く袋。合切袋、信玄袋ともいう。明治20年以降に生まれた語。

余農夫ノ群ニ入リ火ニ就キ煖ヲ取リ居リシニ我ヲ呼ブ者アリ顧レバ同隊ノ伊藤又八ニシテ(伊藤又八ハ 白虎二番隊ノ同志甲賀町通リ二ノ丁角ニ住ス知行四百石ヲ領セリ) 農装シテアリ乃チ共ニ山上ニ登リ城ノ陷ルヤ否ヤヲ見ルコト久シ

私は農夫達と火にあたり暖をとっていると私を呼ぶ者がいた。振り返れば同隊の伊藤又八で(伊藤又八は白虎二番隊の仲間。甲賀町通り(こうかまちとおり)のニ之丁の角に住んでいる。知行は四百石を領する)(彼も自分と同様に)農民に変装しており、共に山上に登って城が落ちたか否かを長い時間じっくりと確かめた。

 

日暮松茸山ニ入リテ相倶ニ其小屋ニ憩フ時余ノ傍ヲ過クルアリ能ク顧ミレバ豫而始終牽キ連レ行ク愛犬「クマ」ナリ(前々ヨリ始終鳥殺生等ニ行ク毎トニ牽キ連レ居ル愛犬ニ逢ヘリ) 則チ聲ヲ挙ゲテ其名ヲ呼ベバ停テ余ノ面ヲ仰ギ視ルヤ疾駆シ来リテ飛付キ歓喜ニ堪エザルノ状アリ

日暮れに松茸山に入り(伊藤又八と)一緒に小屋で休息をとっている時、私の側を通り過ぎるものがいた。よく見れば(私が)かねてよりいつも引き連れていた愛犬「クマ」だった(前々よりいつも鳥を捕獲する等に行くたびに引き連れていた愛犬と会った)ので、声を上げて名前を呼ぶと止まって私の顔を仰ぎ見るや走り寄り飛び付いてきた。喜ぶ気持ちを抑えきれないという様子であった。

 

余モ又悵然トシテ涙ナキ能ハズ其頭ヲ撫シテ曰ク愛狗能ク何ヲ以テ是ニ至ルト(我家ニ飼ヒシ犬ノ余ヲ尋ネテ来リ喜躍ニ堪ヘザルガ如シ)乃チ余腰ニ帯ヒシ結飯ヲ與フ又八ト共ニ其小屋ニ臥セリ

私もまた(愛犬との再会に安堵すると共に自らの現在の境遇を自覚した?)深い悲しみに涙が流れた。「愛しいクマ、よくここまで来てくれた」とその頭を撫でながら言った(我が家の飼い犬が私を訪ねて来た事が嬉しくて堪らなかった)私は腰に携えていた握り飯を与え、又八と共に小屋で眠った。

 

夢カ幻カノ中ニ犬ノ呼ブ聲アリ余之レヲ呵スルモ止マズ(愛犬一吠直ニ盡ス更ニ結飯一個ヲ與フ暫ク口ニ啣テ噛マズ周囲ヲ徘徊シ楽ム者如シ蓋シ其此ニ来リシ所以ハ平時余暇アレバ彼レオ伴ヒ禽鳥ノ捕獲ニ来リテ道ヲ暗シタレハ城下ノ人家兵燹ニ罹リ食ヲ求メテ来リシ者ナラン)

夢か幻かの中で犬の呼ぶ声がした。私が叱っても止まなかった(愛犬が一吠え尽くしたので更に握り飯一個を与えると暫く口に咥えたまま楽しんでいるかのように周囲をうろついていた。そうこうした由はおそらく、普段暇があれば愛犬を連れて鳥類の捕獲に来ていたので(愛犬が)道を憶えており、城下にある人家は戦火に焼かれてしまったので食糧を求めてやって来た者がいた(から獲物と思い吠えた)のだろう)

 

少焉ニシテ人アリ来リ呼ブ臥シ居ルハ誰ゾト云フ余ハ行人町ノ酒井ナリト答ヒシニ鳴呼酒井様カ僕ハ庄三ノ兄弟ナリ貴殿ハ何故ニカ此処ニ至ルト余答フルニ實ヲ以テス某曰ク白川口ヨリ退ク所ノ人七百人彼ニ在リ貴殿モ宜シク彼レニ列シ共ニ城ニ入ルベシ依テ小屋ヲ出テ山ヲ下ル時ニ(又八ト倶ニ山ヲ下ル)

暫くして人が来て「そこに伏せているのは誰だ」と呼んだ。「私は行人町の酒井です」と答えると「ああ、酒井様ですか、僕は庄三の兄弟です。貴方は何故このような場所にいらっしゃるのですか」と聞くので私はこれまでの真実(根本)を話した。彼が言うには、「白河口より退いて来た者が七百人余りいるので、貴方もその者達の列に入って一緒に城に入られるとよいでしょう」との事で小屋を出て山を下る時に(又八と一緒に山を下る)

 

近ツキ見レバ籾山八郎ナリ(籾山八郎與力ニシテ敢死隊ノ人年ノ頃三十ニ三ニ見エ)云フ余ハ大龍寺ノ 住職トナル共ニ寺ニ赴カバ馳走スベシト共ニ至ルモ何ノ品モ食フベキナシ寺ヲ出テ水尾村ヲ経テ栗實ヲ喰ヒツツ野郎ガ前ニ至ル遂ニ東山ニ入リ人足ノ姿トナリテ労ヲ取ル時ニ火災起リ東山全滅ニ期セリ(始終愛犬ヲ連レ居レリ)

近付いて見れば籾山八郎であった(籾山八郎は与力であり敢死隊の者である。年は三十二、三に見える)「私は大龍寺の住職だ。共に寺に来れば馳走しよう」と言うのでついて行ったが寺には食べるものは何もなかった。寺を出て水尾村を経て栗の実を食べつつ野郎が前(奴郎ヶ前)に到着、遂に東山に入り人足の格好をして(東山には温泉があるので)これまでの疲れを取ろうとした時に火災が起こり、東山の全滅を覚悟した(終始愛犬を連れていた)

人足(にんそく)→土木作業や荷役など力仕事をする労働者

爰ニ於テ大ニ火災ヲ救フ一、 狐湯ノ胡麻餅「おとめ」ニ出逢ヒ伊藤又八ト共ニ愛犬ヲ牽キ連レ青木山續キノ山ニ上リ城ノ安否ヲ窺フニ甚深霧ニテ見エズ食物モナケレバ大ニ困却セリ而シテ復タ胡麻餅「おとめ」 出逢ヒ「おとめ」ノ曰ク日向様ガ此大藪ノ中ニ隠レテ居ラルル故逢フテ聞カルベシト云ウニ依リ直ニ権六ノ母ニ逢ヒタル処(又日向の隠居ニモ會見セリ)

ここで火災の救援を大いに行った。狐湯の胡麻餅『おとめ』(売り子?)に出会い伊藤又八と共に愛犬を引き連れ青木山から続く山に登り城の安否を窺うも深い霧で見えなかった。食糧もなくとても困っていると再び胡麻餅『おとめ』に出会う。『おとめ』が「日向様がこの大薮の中に隠れておられるのでお会いして(状況を)聞かれてみては」と言うのですぐ権六の母君に会ったところ(また、日向の隠居にも会見した)

 

而シテ権六ノ母氏余ニ権六ノ居所ヲ尋ネラレシガ余ハ別隊ナレバ一番白虎隊ノ居ル所ハ一切分ラズト答フ母又云彼ノ大藪ノ中ニ私ノ隠居アリ赴カルベシト 依テ行テ飢ヲ乞フニ飯ナシ鮒ノ汁ヲススルニ其美味言フベカラズ伊藤云フニハ吾ハ城ニ入ラズ内ノ家族ハ北方漆村ノ善内ノ家ニ皆集リ居ル約束トテ別レ去ル既ニシテ大平口ヲ引揚ゲシ兵士東山ニ屯シアリ時ニ原田主馬隊ニ逢フ

権六の母君は私に権六の居場所を尋ねられたが私は「別隊なので一番白虎隊のいる場所は一切わかりません」と答えると彼女はまた「あの大薮の中に私の隠居がおりますので行かれませ」と言った。そちらへ伺い空腹を乞うと飯はなかったが(出された)鮒の汁をすするとその美味しさは言葉には出来ない。伊藤は「私は城に入らない。自分の家族は北方漆村の善内の家に集まる約束をしているから」と言ってそこで別れた。既に大平口から引き上げてきた兵士は東山に滞在していた。その時、原田主馬隊に会った。

 

二十五日ノ暁ニ院内橋ヲ経テ小田山下ヨリ天神橋ヲ渡リ道ヲ別ニシテ三ノ丸ノ赤津口ヨリ笹ヲ振リ大聲ヲ發シテ城ニ入リ始メテ命ヲ拾ヒシ心地セリ然レトモ余ハ農夫ノ装姿ニテ人足トナリテ入リシテ以テ銃ヲ持タズ庄田又助氏ニ謂請ヒ隊ニ列シ一発本込メ銃ヲ渡タサル

二十五日の夜明けに院内橋を過ぎて小田山下から天神橋を渡り道を別にして三ノ丸の赤津口から笹を振り大声を発して城に入り、初めて命拾いした心地になったが私は農夫の格好で人足になって入っているので銃を持っていない。庄田又助氏に頼んで隊に入り、一発元込銃を渡された。

 

是レヨリ本丸ヘ彈薬ヲ受取ニ行ク然ルニ圖ラズ同隊ノ永峰勇之進氏ニ面接農夫ノ姿ニテ居ルヲ改メ更ニ木綿ノヅボンヲ穿チ居ルニ逢フ依テ余モ又農夫ノ姿ヲ改メ木綿ノヅボンヲ穿チテ永峰氏ニ同隊ハ如何ト問フニ永峰氏曰ク同隊ハ西出丸ノ金吹座ニ居レリト答フ是ニ於テ永峰氏ト共ニ之レニ赴クニ隊長半隊長 小隊長其他四五人居ルヲ見ル時ニ廿五日ナリ本丸ニ兵粮受取ニ赴く途中余ノ實兄ニ逢テ家内ノ状ヲ問ヒ且ツ長脇差一本貰ヒタリ

これより本丸へ弾薬を受け取りに行くと偶然にも同隊の永峰勇之進氏が農夫の格好を改めて木綿のズボンを穿いているところに遭遇した。私もまた農夫の姿を改めて木綿のズボンを穿いて、永峰氏に「同隊はどうなったのですか」と問うと「同隊は西出丸の金吹座に居る」と答えられた。こういう訳で、永峰氏と共に向かうと隊長、半隊長、小隊長、その他四、五人居られるのを見たのが二十五日の事だった。本丸に兵糧を受け取りに行く途中、私の実兄に会って家族の状況を問い、長脇差一本を貰った。

 

夫レヨリ毎日西出丸ヲ守リ居リ玄米ヲ食シ毎夜味噌湯ヲ呑ンデ煖ヲ取ル而シテ九月上旬ニ同隊ニ入隊二番隊ト変更セラル時ニ水戸藩士並ニ小笠原藩士等ト共ニ南町御門ヲ守ル

それより毎日西出丸を守り、玄米を食し、毎夜味噌湯を飲んで暖をとる。こうして九月上旬に同隊に入隊、二番隊と変更された。水戸藩士と小笠原藩士などと共に南町御門を守る。

 

九月十四日ノ未明敵ヨリ擊来タル大砲音響晝夜間断ナク四方八方十六方一圓ニシテ勦スコト絶エズ志賀與三郎ハ小田山ニ陣取ル敵ノ大砲丸片ニテ屋根ヲ突キ抜キ来タリ腿ヲ撃タレシヲ見ル南御門ヲ守ラントシテ西出丸讃岐門口ヲ出ズレバ長岡清治ノ抜キ身ノ槍ヲ提ケ早ク詰メヨト馳セ来ル乃チ共ニ南町口御門ヲ守ル小田山ノ敵ハ壇ヲ築キ大砲ヲ放ツコト己マズ我兵死傷甚ダ多シ人アリ

九月十四日の未明、敵からの砲撃が始まり砲撃音が昼夜響く。途切れる事なく、四方八方十六方全体に攻撃が止む事がなかった。志賀与三郎は小田山に陣取る敵の大砲の丸片が屋根を貫いて来たので、(それによって)腿を撃たれたのを見た。南御門を守ろうとして西出丸讃岐門口を出ると、長岡清治が抜身の槍を提げて早く詰めろと駆けてきた。一緒に南町口御門を守った。小田山にいる敵は壇を築き、大砲を放つ事をやめなかった。我が軍の死傷者はとても多く、

 

大砲丸ニ中タリ介錯ヲ乞フト叫ブニ會々一壮士馳セ来リ之ヲ見テ美事ニ其ノ首ヲ斬リ城ニ入ル既ニシテ退却スベキノ命アリ而シテ大町通リヲ横ニ出テ五軒町ヨリ讃岐御門ニ出テ五六百人入城セントセシニ海老名総督大刀ヲ揮ヒ退ク者ハ斬ラント退ク者ヲ止ム時ニ大砲丸上濠ニ落チテ水泡ヲ生ズ怪ンデ問ヘバ焼丸ナリト云フ

砲弾に当たり介錯を求め叫ぶ者に会津の一壮士が駆け寄り美事(見事)にその首を斬り城に入る。既に退却せよの命令があった。大町通りを横に出て五軒町より讃岐御門に出て、五、六百人入城しようとするのを海老名総督が大刀を振るい「退く者は斬る」と退却する者を止めていた。砲弾が上濠に落ち、水泡を生じたのを不思議に思い、問えば「焼丸である」と言った。

 

一士柴某アリ五軒町ヲ西ニ向ツテ進ムニ鎧ヲ暑シ長刀ヲ揮テ躍リ入ル柴某外二三ノ勇壮其勢ヒ實ニ云フベカラズ西出丸ニハ鎧櫃ヲ累チ之レニ土ヲ盛リテ守リ居ル九月廿二日開城同二十三日猪苗代岡部新助ノ家ニ謹慎ス母ハ雀林村ニ在リテ病死ス父モ同所ニ在リテ病ニ臥スルノ報ニ接シテ之ヲ日向隊長ニ告ゲ其ノ許可ヲ得テ行キテ看護ス其ノ後東京竹橋御門外御築屋ニ謹慎ス時ニ十六才ナリ

一士の柴某は五軒町を西に向かって進み、鎧を付けて長刀を振るって躍り入った。柴某の他、二、三名の勇気ある者の勢いは実に言葉にならない。西出丸は鎧櫃を重ね、これに土を盛って守っていた。九月二十二日、開城。同二十三日、猪苗代の岡部新助の家に謹慎する。母君は雀林村で病死した。父も同所で病に伏せているという報告を受け、日向隊長に告げて許可を得て、(雀林村へ)看病へ行く。その後、東京の竹橋御門外御築屋に謹慎する。十六歳だった。

史記 淮陰侯列傳第三十二 ④

韓信使人閒視、知其不用、還報、則大喜、乃敢引兵遂下 未至井陘口三十里、止舍 夜半傳發、選輕騎二千人、人持一赤幟、從閒道萆山而望趙軍、誡曰:「趙見我走、必空壁逐我、若疾入趙壁、拔趙幟、立漢赤幟」

韓信(事前に放っていた)間者からその策が用いられなかった事を報告されると大いに喜んだ。敢然と兵を率いて井陘の狭道を下ると、井陘から三十里手前で留まり宿営した。その夜半、出陣命令が出された。軽装の騎馬兵二千人を選び、各々赤いのぼり旗を持たせて狭道を進み、山に隠れて趙軍を見渡すと戒めるように言った。「趙軍は我々が退却するのを見れば必ず塁壁を空にして追ってくるだろう。お前たちは素早くその中へ入り、趙軍ののぼりを抜いてこの赤いのぼりを立てよ」

 

令其裨將傳飱 曰:「今日破趙會食!」諸將皆莫信、詳應曰:「諾」謂軍吏曰:「趙已先據便地為壁、且彼未見吾大將旗鼓、未肯擊前行、恐吾至阻險而還」信乃使萬人先行、出、背水陳 趙軍望見而大笑 平旦、信建大將之旗鼓、鼓行出井陘口、趙開壁擊之、大戰良久

そして副将に命じて配給をさせると「今日趙軍を突破し、宴をしようじゃないか!」と言った。将は皆その言葉を信じていなかったが「承知しました」と返事をした。韓信は軍史に「趙軍は有利な地形を選んで砦を築いている。こちらの大将の旗鼓を見ないうちは、あえて我々の先頭部隊を討つことはないだろう。我々が難所に阻まれて引き返す可能性を恐れているからだ」と言った。韓信は一万の兵を先行させ河水を背にして布陣させた。趙軍はこの様子を見て大いに笑った。明け方、韓信は大将の旗を立て太鼓を鳴らしながら進軍、井陘口を出た。趙軍も塁壁を開いてこれを撃ち、暫く激戦が続いた。

 

旗鼓(きこ)→軍旗と太鼓

 

於是信、張耳詳棄鼓旗、走水上軍 水上軍開入之、復疾戰 趙果空壁爭漢鼓旗、逐韓信、張耳 韓信、張耳已入水上軍、軍皆殊死戰、不可敗

そこで、韓信と張耳はわざと旗鼓を棄て、河水の自陣に逃げ込んだ。河水ほとりの軍は門を開いて韓信たちを入れると、再び激戦を繰り広げた。趙軍は漢の旗鼓を獲ようと群がり、砦を空にして韓信と張耳を追った。しかし韓信と張耳はすでに河水ほとりの陣に逃げ込んでいる。漢軍は皆死を覚悟して戦ったので、趙軍は打ち破る事が出来なかった。

 

信所出奇兵二千騎、共候趙空壁逐利、則馳入趙壁、皆拔趙旗、立漢赤幟二千 趙軍已不勝、不能得信等、欲還歸壁、壁皆漢赤幟、而大驚、以為漢皆已得趙王將矣、兵遂亂、遁走、趙將雖斬之、不能禁也 於是漢兵夾擊、大破虜趙軍、斬成安君泜水上、禽趙王歇

韓信(事前に)出した奇襲部隊二千騎は趙軍が塁壁を空にして獲物を追うのを見ると素早く立ち入り、趙ののぼりをすべて抜き取って漢の赤いのぼり二千本に立て替えてしまった。趙軍は勝つ事が出来ず韓信らを捕らえる事も出来なかったので砦に帰ろうとしたところ、砦にはみな漢ののぼりが立っていたので大層驚いた。趙の将軍は皆漢に捕らえられたのではないかと思い込んだ。兵達はついに混乱し次々と逃げ出した。趙の将軍がこれを止めようとして斬ったが、止める事は出来なかった。そこを漢軍が挟み撃ちにして趙軍を破り、降伏させた。成安君を泜水のほとりで処刑され、趙王を生捕りにした。

 

信乃令軍中毋殺廣武君、有能生得者購千金 於是有縛廣武君而致戲下者、信乃解其縛、東鄉坐、西鄉對、師事之 諸將效首虜、(休)畢賀、因問信曰:「兵法右倍山陵、前左水澤、今者將軍令臣等反背水陳、曰破趙會食、臣等不服 然竟以勝、此何術也?」

韓信は、広武君を殺してはならない、生け捕りにした者があれば千金で買い取ろうと軍中に命令した。すると広武君を縛って麾下に届けたものがいた。韓信はその縄を解いて、東に向いて座らせ、自分は西向きで相対し、これに師事した。諸将は敵の首級と捕虜を差し出して、みな戦勝を祝い、その時に韓信に問うた。「兵法には『山陵を右にし、背にし、水沢を前にし、左にする』とあります。しかし今回の将軍は反対に、我々に背水の陣を布かせ、『趙を破ってから会食しよう』とおっしゃいました。我々は納得できませんでした。しかし遂に勝ちました、これはどのような戦術なのでしょうか?」

 

信曰:「此在兵法、顧諸君不察耳 兵法不曰『陷之死地而後生、置之亡地而後存』?且信非得素拊循士大夫也、此所謂『驅市人而戰之』、其勢非置之死地、使人人自為戰今予之生地、皆走、寧尚可得而用之乎!」諸將皆服曰:「善 非臣所及也」

韓信は答えた。「これは兵法にある。諸君らは気付かなかったようだが、兵法には『(軍を)死地に陥れて後に生き、亡地(必ず滅ぶような状況)に置きて後に存する』とあるだろう? そして私は普段から将兵の心を掌握しているわけではなかった。これは所謂、『市井の者を駆り立てて戦うようなもの』だ。その兵士達を死地に置いて各々が自発的に戦わせるよう仕向けず、彼らに生地を与えれば皆逃げてしまうだろう。これではどうして彼らを用いて勝利する事ができようか!」諸将はみな感服して言った。「お見事でございます。とても我々の及ぶ所ではありません」

故事『背水の陣』の出典。

失敗したら再起不能という一歩も後にひけない状態に身を置いて、決死の覚悟で事に当たること(学研 四字熟語辞典より)

 

於是信問廣武君曰:「仆欲北攻燕、東伐齊、何若而有功?」廣武君辭謝曰:「臣聞敗軍之將、不可以言勇、亡國之大夫、不可以圖存 今臣敗亡之虜、何足以權大事乎!」信曰:「仆聞之、百里奚居虞而虞亡、在秦而秦霸、非愚於虞而智於秦也、用與不用、聽與不聽也 誠令成安君聽足下計、若信者亦已為禽矣 以不用足下、故信得侍耳」因固問曰:「仆委心歸計、願足下勿辭」

韓信は広武君に問うた。「私は北の燕・東の斉を討とうと思うが、どうすれば成功するだろうか?」 

広武君は謝辞して答えた。「私は『敗軍の将は武勇を語るべきでなく、亡国の大夫は一国の存立を謀るべきではない』と聞いております。私は負けて国を亡くした捕虜の身、どうして大事について図ることなどできるでしょうか!」

韓信は言った。「聞くところによれば、百里奚は虞(ぐ)にあって虞は亡び、秦にあって秦は覇となったということだ。百里奚が虞にいた時には愚者であったのが秦に行ったことで智者になったという訳ではあるまい。君主が彼を任用したかどうかと、その言葉を聴き入れたかどうかの差である。もし成安君が貴方の計略を聴き入れていれば、私ごときは虜にされていた事だろう。成安君が計略を用いなかったからこそ私は貴方の側に仕える事ができるのである」

更に強いて言った。「心を委ね、貴方の計に従おう。だからどうか言葉を無くさずにいてもらいたい」 

 

廣武君曰:「臣聞智者千慮、必有一失、愚者千慮、必有一得 故曰『狂夫之言、聖人擇焉』 顧恐臣計未必足用、願效愚忠 夫成安君有百戰百勝之計、一旦而失之、軍敗鄗下、身死泜上

広武君は言った。「私は『智者も千慮には必ず一失があり、愚者も千慮には必ず一得がある』と聞いております。ですから『聖人は狂人の言葉も採りあげる』と言うのでしょう。恐れながら私の献策などとるに足らないかもしれませんが、忠誠を尽くしましょう。そもそも成安君には百戦百勝の計がありましたが、一朝にしてこれを失い、軍は高(河北省)の城下で敗れ、その身は底水のほとりで殺されてしまいました。

 

今將軍涉西河、虜魏王、禽夏說閼與、一舉而下井陘、不終朝破趙二十萬眾、誅成安君 名聞海內、威震天下、農夫莫不輟耕釋耒、褕衣甘食、傾耳以待命者 若此、將軍之所長也、然而眾勞卒罷、其實難用

今、将軍は西河を渡り魏王を虜にし、夏説を閼与で捕虜にして一挙に井陘を下り、朝が終わらないうちに趙の二十万の衆兵を破り、成安君を誅殺されました。これによって将軍の名は海内に聞こえ、その威は天下を震わせ、農夫はどうせ国が滅びるならと耕作をやめて鋤を捨て去り美衣美食して仮りそめの安逸を貪り、ただ耳を傾けて将軍の命令を待っている。これが将軍の長所です。しかし将軍の兵士は疲弊しており実は扱いにくい状態にあります。

 

今將軍欲舉倦獘之兵、頓之燕堅城之下、欲戰恐久力不能拔、情見勢屈、曠日糧竭、而弱燕不服、齊必距境以自彊也 燕齊相持而不下、則劉項之權未有所分也 若此者、將軍所短也 臣愚、竊以為亦過矣 故善用兵者不以短擊長、而以長擊短」

今、将軍は倦み疲れた兵を燕の堅城の下で更に疲弊させようとしておられます。戦おうとしてもその力では敵城を抜くことはできません。勢いが尽きて空しく日を過ごすうちに兵糧も尽き果ててしまうでしょう。弱小である燕でさえ屈服しないのであれば、斉は必ず国境に防備をして自強を行います。燕と斉が共に降服しなければ、劉・項漢・楚の天下の権の争奪戦)はどちらが勝利するか分からなくなる、これが将軍の短所です。私なりに考えを述べさせていただくと、今、燕と斉を攻めるのは過りだと思っています。善く兵を用いる者は味方の短所で敵の長所を攻撃させません、味方の長所で敵の短所を攻撃させるのです」

文久2年11月 御楯組 攘夷血盟書

文久2年11月

攘夷血盟書(気節文章)

久坂玄瑞

 

此度我々共、夷狄を誅戮し、其首級を掲げ罷帰、急度攘夷之御決心被為遊、今般被仰出勅意、速に致貫徹度存詰発足候処、恐多も世子君御出馬被為遊候て、壮士感服の至に候得共、我等孤立ニてハ心細ニ付一先帰参、尊攘之実功補佐呉候様御懇切之御教諭被仰付、一同不堪感泣之至、必竟此度之一挙も、君上も後ニ仕候、義毛頭無之、御決心之段奉祈候て之事ニ付、
この度我々は、異人を亡き者にし、その討ち首を掲げて戻り、必ず攘夷のご決心を固めていただくつもりでありましたが、この度勅意をお言い付けになられました。最後までやり抜き通すべく急いで活動を始めようとした所、恐れ多くも世子様がご出馬なされ、その豪壮勇敢さには感銘を受けましたが我々が単独行動になれば不安が残る為、一先ず帰って参りました。尊王攘夷の実行補佐につくよう、呉侯のように非常に懇意で細やかに仰せられ、一同たまらず感涙に至り、つまるところこの度の企ても、君主のお気持ちは二の次でした。義は少しもありませんでした。ご決心願いしました事に付きましては、


此後ハ益忠誠を励ミ御奉公可仕段申上引取候事ニ付、此同志中之義ハ斃るゝ迄ハ十三日夜之次第、忘却候ては不相叶百折不屈夷秋を掃除し上ハ、叡慮を貫き下ハ君意を徹する外他念無之国家の御楯となるへき覚悟肝要たり
今後は益々忠誠に励みご奉公致すべく申し上げた次第です。この同志の義は倒れる迄は十三日夜の決心だけは忘れず、必ず何度失敗しても不屈の意志でもって異人共を排除し、天子のご意向を貫き、徹する事意外に他念無く、国家の御楯となる覚悟であります。


同志中一旦連結之上ハ進退出処尽く相謀り自己之了簡ニ任すましき也
⚫︎同志、一度結集する上は進退出処など全て謀り、自分自身の思案で動かない。

 

同志中落途有之歟、又ハ所存相違有之時ハ何国まとも論弁すへし、面従腹誹ハ於武士道愧へき処なり
⚫︎同志、落伍したりまたは意見が違えた時はどこまでも議論し合う事。面従腹背は武士道の恥ずべき所である。

 

秘密之事件ハ父母兄弟たりとも洩すへからす、万一被召捕、八裂ニ逢とも致露顕等義有之間敷也
⚫︎秘密事は父母兄弟にも洩らさないように。万が一召し捕えられ、八つ裂きにされても決してその秘密を話してはならない。


御楯組中一人たりとも恥辱を蒙る時ハ、其余之恥辱たり、相互ニ死力を以救援し組中之汚名を取ましき也
⚫︎御楯組の一人が恥辱を受ける、それは他の者が恥辱を受けたも同様である。互いに死力を尽くして仲間を助け合い、御楯組の不名誉になる事があってはならない。


我々共死生を同し、正気を維持するに付ては、いか計離流顛沛ニ逢とも尊攘之志屈し撓へかよらす、聚散離合を以志を変するハ禽獣と謂へし、幾千里を隔とも正議凛然見苦敷振舞有之間敷也
⚫︎我々は死も生も共にし、この気概を維持するにおいては、計画が流れ実行に躓いたとしても尊王攘夷の志は決して折れず、途中で離合集散し志を変える者は、けだもの同様である。幾千里を隔てても正義凛然とし、見苦しい振る舞いはしない。


右、同志之契約致違背候時ハ、幾応も令論弁、万一承引無之ニおゐてハ、組中申合詰腹ニ及ふへし、依て天神地祇ニ誓ひ血盟する事如件

この契約に違背した時は、どのようにしても論弁を言い付け、万が一承諾しなければ御楯組の決め事により切腹とする。従って天神地祇に誓い、ここに血盟する。

 


御楯組メンバー日付順

文久ニ年
戌十一月
高杉晋作久坂玄瑞、大和弥八郎、長嶺内蔵太、志道聞多、松島剛蔵寺島忠三郎、有吉熊次郎、白井小助、赤禰幹之丞、品川弥二郎
十一月二十六日
瀧弥太郎、堀真五郎、佐々木次郎四郎
十一月二十七日
山縣初三郎、長野熊之允、山田市之允
十一月二十八日
周田半蔵、冷泉雅次郎、瀧鴻二郎
文久三年正月二十一日
三戸詮蔵
正月二十九日
佐々木男也、楢崎八十槌、吉田栄太郎、野村和作

史記 淮陰侯列傳第三十二 ③

八月、漢王舉兵東出陳倉、定三秦 漢二年、出關、收魏、河南、韓、殷王皆降 合齊趙共擊楚 四月、至彭城、漢兵敗散而還 信復收兵與漢王會滎陽、復擊破楚、京索之閒、以故楚兵卒不能西

(紀元前206年)八月、劉邦は挙兵し東の陣倉に向かって三秦を平定した。漢の二年(紀元前205年)、函谷関を出て魏の地を収め、河南、韓、殷王も皆降服した。斎、趙と共に楚を撃った。四月、彭城に至り、漢軍は敗北して引き返した。韓信はまた敗北した兵をまとめて漢王と滎陽で会い、再び楚を京と索の間で撃破した。これにより楚の兵士はこれより西へ行く事は不可能となった。

 

漢之敗卻彭城、塞王欣、翟王翳亡漢降楚、齊、趙亦反漢與楚和 六月、魏王豹謁歸視親疾、至國、即絕河關反漢、與楚約和 漢王使酈生說豹、不下 其八月、以信為左丞相、擊魏

漢軍が彭城で敗北して引き返すと塞王 司馬欣と翟王 董翳は漢から楚へと逃げた。斉、趙もまた漢に背き楚と和睦した。六月、魏王 豹が謁見し親の看病がしたいと休暇を願い出たが河関に着くとたちまち漢に背き楚と和睦した。漢王は麗生を使役して説得させたが実らなかった。その八月、韓信を『左丞相』に任じて魏を撃たせた。

 

魏王盛兵蒲阪、塞臨晉、信乃益為疑兵、陳船欲度臨晉、而伏兵從夏陽以木罌缻渡軍、襲安邑 魏王豹驚、引兵迎信、信遂虜豹、定魏為河東郡

魏王は蒲坂の軍備を固め、臨晋から攻撃されるのを塞いだ。韓信は大軍であるように見せかける為に船を並べ、臨晋から渡る素振りを見せたが実際は木罌缶を浮かべて夏陽から伏兵軍を渡河させ安邑を襲撃した。魏王は驚き兵を率いて韓信を迎え撃ったが、遂に魏豹を捕虜とし、魏国を漢の河東郡とした。

木罌缶→木製の口が小さく腹の大きな酒器

 

漢王遣張耳與信俱、引兵東北擊趙、代 後九月、破代兵、禽夏說閼與 信之下魏破代、漢輒使人收其精兵、詣滎陽以距楚

劉邦は張耳を派遣し韓信と共に兵を率いて東の趙とそこから北にある代を襲撃した。閏九月、代の兵を破り、夏説(代の宰相)を閼与で捕虜にした。韓信が魏を攻め落とし代を破ると劉邦は使者を向かわせて韓信軍の)精兵を手に入れ、滎陽に差し向けて楚を防いだ。

 

信與張耳以兵數萬、欲東下井陘擊趙 趙王、成安君陳餘聞漢且襲之也、聚兵井陘口、號稱二十萬 廣武君李左車說成安君曰:「聞漢將韓信涉西河、虜魏王、禽夏說、新喋血閼與、今乃輔以張耳、議欲下趙、此乘勝而去國遠鬬、其鋒不可當

韓信は張耳と共に数万の兵を連れて東の井陘を下り趙を撃とうとした。趙王、成安君 陳余は漢が攻めてきたと知ると兵を井陘口に集めて来襲に備えた。公称、兵力は二十万とされる。廣武君 李左車は成安君に説いた。「聞くところによると漢の将軍 韓信は西河を渡り魏王を捕らえ、夏説を捕虜にして閼与は辺り一面血の海にしたばかりだといいます。今は張耳を補佐にして趙を攻め落とそうとしている、つまり彼らは勝ちに乗じて遠方で争っている状況でありその勢いは留まる事がありません。

 

臣聞千里餽糧、士有饑色、樵蘇後爨、師不宿飽 今井陘之道、車不得方軌、騎不得成列、行數百里、其勢糧食必在其後

千里の遠方から兵糧を送れば輸送は困難となり、兵士にも飢餓の色が現れる。薪を取り草を取ってから炊飯するようでは、軍中では満腹するほどの食事は不可能でしょう。現在井陘の道は狭く、車が並んで通る事も騎馬が列を組んで通る事も叶わない。それが百里も続くのだから、彼らの勢いから見ると糧食が後回しになるのは避けられない。

 

願足下假臣奇兵三萬人、從閒道絕其輜重;足下深溝高壘、堅營勿與戰 彼前不得鬬、退不得還、吾奇兵絕其後、使野無所掠、不至十日、而兩將之頭可致於戲下

どうか奇襲の為の兵を三万人貸していただきたい。私は抜け道を使ってその輜重を絶ちましょう。貴方は堀を深め塁を高くして陣営の守りを堅くし、戦ってはいけません。彼らは前に進もうにも戦えず、また後に引き返そうにも退けません。我が奇襲兵がその進路を絶てば彼らは荒野では何も手に入れる事はできません。十日もたたぬうちに両将軍韓信・張耳)の首を旗下にお届け致しましょう。

 

願君留意臣之計 否、必為二子所禽矣」成安君、儒者也、常稱義兵不用詐謀奇計、曰:「吾聞兵法十則圍之、倍則戰 今韓信兵號數萬、其實不過數千 能千里而襲我、亦已罷極 今如此避而不擊、後有大者、何以加之!則諸侯謂吾怯、而輕來伐我」不聽廣武君策、廣武君策不用

どうか私の策をお取り上げください。そうでなければ必ず両将軍に捕らえられてしまうでしょう」成安君は儒者である。常日頃から正義の兵と称して奇策や詭計は用いなかった。「私は兵法に『兵力が十倍ならば敵を包囲し、二倍なら積極的に戦え』とあると聞く。現在韓信の兵は数万というが、実際は数千に過ぎない。千里の道を進んで我らを襲おうとする時、その疲労は極限に達している。今戦わずして、後に強大な援軍が来たらどうするつもりだ!諸侯は私を臆病者と思い、大した事がないと侮り、討ち取りに来るだろう」そう言って広武君の策を用いなかった。

 

④へ続く

 

史記 淮陰侯列傳第三十二 ②

人有言上曰:「丞相何亡」上大怒、如失左右手 居一二日、何來謁上、上且怒且喜、罵何曰:「若亡、何也?」何曰:「臣不敢亡也、臣追亡者」上曰:「若所追者誰何?」曰:「韓信也」上復罵曰:「諸將亡者以十數、公無所追 追信、詐也」

ある者が劉邦に言った。「蕭何が逃亡しました」劉邦は大激怒し、両腕を失ったように思った。一、ニ日経って蕭何は劉邦に謁見した。劉邦は怒りと喜びが入り混じった複雑な気持ちで蕭何を罵った。「お前が逃げたのは何故か?」蕭何「臣は逃げたりしません、逃げた者を追ったのです」劉邦「お前は誰を追っていたのか?」蕭何「韓信です」それを聞いて劉邦は再び罵るように言った。「将軍らは逃げること十数人、その際貴方は追わなかった。韓信を追ったというのは偽りである」

数字や二人称が違っている事から司馬遷が複数の史料や伝承を参考にした可能性がある

 

何曰:「諸將易得耳 至如信者、國士無双 王必欲長王漢中、無所事信必 欲爭天下、非信無所與計事者 顧王策安所決耳」王曰:「吾亦欲東耳、安能郁郁久居此乎?」何曰:「王計必欲東、能用信、信即留不能用、信終亡耳」王曰:「吾為公以為將」何曰:「雖為將、信必不留」王曰:「以為大將」

蕭何「その将軍達を得るのは容易い。しかし韓信に至っては国士無双(国に並ぶ者のない優れた人物)です。王がこの先ずっと漢中王のままいらっしゃるというならば、韓信にこだわる必要はありません。しかし天下の争いを欲するならば、韓信でなくては共に計れる者はおりません。つまり王はどちらを選ばれるのか」劉邦「私も東方へ行き天下の争いを望んでいる。どうして鬱々と長く此漢中に居れようか?」蕭何「王が東方へ出撃したいのであれば登用し、登用しなければ韓信は逃亡するだけの事です」劉邦「お前が言うように将にしよう」蕭何「ただの将なら韓信は留まる事はないでしょう」劉邦「ならば大将にしよう」

 

何曰:「幸甚」於是王欲召信拜之 何曰:「王素慢無禮、今拜大將如呼小兒耳、此乃信所以去也 王必欲拜之、擇良日、齋戒、設壇場、具禮、乃可耳」王許之 諸將皆喜、人人各自以為得大將 至拜大將、乃韓信也、一軍皆驚

蕭何「ありがたき幸せでございます」こうして劉邦韓信を呼び寄せ大将に任ぜようとした。蕭何「王は以前から高慢で無礼な所がございます。今、大将を任命するにもまるで子供を呼びつけるようにするだけで、これが韓信が逃げ去ってしまう理由なのです。王がもし韓信を任命したいのであれば、吉日を選び、斎戒し、任命の為の壇場を設け、礼物を用意してこそ可能にするのです」劉邦はこの言葉を聞き入れた。将軍達は皆喜び、各々自分が大将にしてもらえるのだと思った。それが大将を任命する時になると韓信の事だったので一軍全員が驚いた。

 

信拜禮畢、上坐 王曰:「丞相數言將軍、將軍何以教寡人計策?」信謝、因問王曰:「今東鄉爭權天下、豈非項王邪?」漢王曰:「然」曰:「大王自料勇悍仁彊孰與項王?」漢王默然良久、曰:「不如也」

韓信が拝礼を終え上座に着いた。劉邦「丞相がしばしば将軍を推薦したが、将軍は私にどのような策を教示してくれるのか?」韓信は感謝し、劉邦の問いに答えた。「今東へ向かい権力をかけて天下の争いをするならば、その相手は項王ではありませんか?」劉邦「その通りである」韓信「王ご自身のお考えだと勇悍仁彊の基準では項王とどちらが優れていると思いますか?」劉邦は暫く黙っていたがようやく口を開いた。「私は項王には及ばないだろう」

 

信再拜賀曰:「惟信亦為大王不如也 然臣嘗事之、請言項王之為人也 項王喑噁叱咤、千人皆廢、然不能任屬賢將、此特匹夫之勇耳 項王見人恭敬慈愛、言語嘔嘔、人有疾病、涕泣分食飲、至使人有功當封爵者、印刓敝、忍不能予、此所謂婦人之仁也 項王雖霸天下而臣諸侯、不居關中而都彭城 有背義帝之約、而以親愛王、諸侯不平

韓信は再拝して祝福し、答えた。「はい、私もまた王は項王に及ばないと思います。しかし私はかつて項王に仕えた事がありますので項王の人となりについて申し上げます。項王が怒気を持ち怒鳴りつければ多くの者は皆平伏しますが、付き従う賢将を信頼して任せる事が出来ません。これでは単なる思慮分別なく血気にはやるだけのつまらない勇気になります。項王が人と謁見する時は恭敬で慈愛があり言葉も謳うような柔らかさ、病人がいれば涕泣して食事を分け与えます。しかし部下が封爵すべき功績を上げた場合、封爵の印を授けるそぶりを見せながらもなかなか決心出来ず手の内で弄び、印が摩滅するほどになってもまだ与えられずにいるのです。これは婦人の仁と言えます。項王は天下に覇を唱えて諸侯を臣下にしましたが関中へ居らず彭城を都としました。また義帝の盟約に背き、自らの親愛で諸侯を王に引き立てた事は不公平です。

 

諸侯之見項王遷逐義帝置江南、亦皆歸逐其主而自王善地 項王所過無不殘滅者、天下多怨、百姓不親附、特劫於威彊耳 名雖為霸、實失天下心 故曰其彊易弱 今大王誠能反其道 任天下武勇、何所不誅!以天下城邑封功臣、何所不服!以義兵從思東歸之士、何所不散!且三秦王為秦將、將秦子弟數歲矣、

諸侯は項王が義帝を遷して江南に追い払うのを見ると、皆が郷里に帰りその旧主を追い払って自身が善い土地の王になりました。項王軍が通過して残滅しなかった場所はありません。天下は多く怨み、民衆は親しみ懐くこともなく、ただ威勢と強さに脅かされただけです。ですので項王は実際には天下の心を失った名ばかりの覇者なのです。それ故にその権威は弱まりやすいのです。今、我が王が項王と反対のやり方を行い、天下の武勇の士を信頼出来れば、誅伐出来ない相手がいるでしょうか!天下の名城を功臣の封地として与えれば、心服しない者がいるでしょうか!正義の軍に東に帰りたがっている将士を従わせれば、散らない敵がありましょうか!かつ三秦王(雍王章邯・塞王司馬欣・翟王董翳)は秦の将軍として子弟を率いる事数年、

思東歸之士の帰巣本能を項羽討伐の原動力にした

 

所殺亡不可勝計、又欺其眾降諸侯、至新安、項王詐阬秦降卒二十餘萬、唯獨邯、欣、翳得脫、秦父兄怨此三人、痛入骨髓 今楚彊以威王此三人、秦民莫愛也 大王之入武關、秋豪無所害、除秦苛法、與秦民約、法三章耳、秦民無不欲得大王王秦者

その間に戦死・逃亡させた人数はとても数えきれません。またその兵士を欺き諸侯へ降服しましたが新安に至り項王は秦の降服した兵士二十余万人を偽って穴埋めにし、三秦王だけがこっそりとこの難から逃れました。秦の父兄における三秦王への怨念と痛みは骨の髄まで入っています。今、楚は権威でこの三人を王にしていますが、秦民に愛情を抱く者はおりません。王が武関から関中へ入られるとほんの少しも危害を与える事もなく、秦の苛法を除いて秦民に法三章を約束されました。秦民で我が王を秦王に望まない者はおりません。

 

於諸侯之約、大王當王關中、關中民咸知之 大王失職入漢中、秦民無不恨者 今大王舉而東、三秦可傳檄而定也」於是漢王大喜、自以為得信 遂聽信計、部署諸將所擊

諸侯との約束において王は当然関中の王になられるはずで、ございました。だから王が自らの職を忘れて漢中に入った事を秦民は残念に思ったのです。今、王が東方へ挙兵すれば三秦の地は檄を伝えるだけで平定するでしょう」こうして劉邦は大いに喜び、自ずと韓信を得るのが遅かったとさえ感じた。遂に韓信の策を聴き入れて諸将の攻撃目標を割り当てた。

 

③へ続く