おべんきょうノート

自分用です。

史記 淮陰侯列傳第三十二 ①

史記巻九十二 淮陰侯列傳第三十二(司馬遼)より

 

 

 

淮陰侯韓信者、淮陰人也 始為布衣時、貧無行、不得推擇為吏、又不能治生商賈、常從人寄食飲、人多厭之者、

淮陰侯 韓信は淮陰の人である。以前布衣であった時、貧しく無法な行いだったので推薦されて官吏に選ばれる事もされず、また商売で身を立てる事も出来ず、常に人に付いて食事の世話をしてもらっていた。彼を嫌がる者は多かった。

 

常數從其下鄉南昌亭長寄食、數月、亭長妻患之、乃晨炊蓐食 食時信往、不為具食 信亦知其意、怒、竟絕去

以前下郷の南昌の亭長の家にしばしば居候していたが、数ヶ月すると亭長の妻は韓信の世話をするのが煩わしくなった。そこで早朝に飯を炊いて自分は寝床で食事を済ませ、韓信の飯時が過ぎても食事を用意しなかった。韓信はその意味を理解して怒り、最後は絶縁をして立ち去ってしまった。

 

信釣於城下、諸母漂、有一母見信饑、飯信、竟漂數十日 信喜、謂漂母曰:「吾必有以重報母」母怒曰:「大丈夫不能自食、吾哀王孫而進食、豈望報乎!」

韓信が城下の淮水で釣りをしていた時、小母達が綿を水にさらしていた。ある一人の小母は飢えた韓信を見て彼に食事を与え、その施しは綿を水通しする仕事が終えるまでの数十日続いた。韓信は喜び、その小母に「私は必ず貴女にたくさん恩返しをしよう」と言うと小母は怒った様子で返した。「立派な大人の男が自分一人食わせる事も出来ていないから、私は貴方に同情して食事を進めたのです。お返しを期待して行ったのではありません!」

 

淮陰屠中少年有侮信者、曰:「若雖長大、好帶刀劍、中情怯耳」眾辱之曰:「信能死、刺我、不能死、出我袴下」於是信孰視之、俛出袴下、蒲伏 一市人皆笑信 以為怯

淮陰の屠殺業仲間の若者で韓信を見下す者がいて、こう言った。「おまえは図体が大きく背も高く、好んで刀剣を身につけているが中身はただの臆病者なんだろう」更に群衆へ辱めるかのように言った。「韓信よ、おまえが殺せるなら俺を刺してみろ。死にたくなければ俺の股の下をくぐれ」すると韓信は若者をじっくりと見てから身を屈め、腹這いになって股下をくぐった。群衆は皆韓信を臆病者だと笑った。

 

及項梁渡淮、信杖劍從之、居戲下、無所知名 項梁敗、又屬項羽、羽以為郎中 數以策干項羽、羽不用 漢王之入蜀、信亡楚歸漢、未得知名、

項梁が長江から淮水を渡り東から西へ進出しようとした時、韓信は剣を杖付き従ったが旗本にいた頃は名前を知られなかった。項梁が戦いに敗れ、項羽に属すと項羽韓信を『郎中』に任じた。韓信はしばしば策をもって項羽に会見を願ったが、いずれも用いられなかった。漢王が蜀に入ると韓信は楚(項羽)を抜けて漢(劉邦)に帰属したが、まだ名前を知られる事はなかった。

 

為連敖、坐法當斬、其輩十三人皆已斬、次至信、信乃仰視、適見滕公、曰:「上不欲就天下乎?何為斬壯士!」滕公奇其言、壯其貌、釋而不斬 與語、大說之、言於上 上拜以為治粟都尉、上未之奇也 

『連敖』に任ぜられていた頃、法に触れて斬刑に処される事になり仲間十三人は既に皆斬られてしまった。次に韓信に順番がまわってきた。韓信が仰ぎ見ると偶然滕公(夏侯嬰)を見つけたので「漢王は天下の大業を成し遂げたいと思わないのですか?どうして私のような壯士を斬るのですか!」と言った。滕公はその言葉を優れていると捉え、その顔付きを壯士と認めて釈放し斬らなかった。共に語り合い、大いに喜び、劉邦に言上した。劉邦韓信を『治粟都尉』に任じたがまだ優れているとは見做さなかった。

 

信數與蕭何語、何奇之 至南鄭、諸將行道亡者數十人、信度何等已數言上、上不我用、即亡 何聞信亡、不及以聞、自追之

韓信はしばしば蕭何と語り合い、蕭何は彼を優れていると感じた。劉邦らが南鄭へ至る途中、逃亡者の数は数十人になっていた。韓信は蕭何が何度か言上したのに劉邦韓信を必要としないと思い込み、そして逃げた。蕭何は韓信が逃亡したと聞くと劉邦には知らせず自ら追い掛けた。

 

 

②へ続く

東北人謬見考 1

旧字体表記出来ない漢字は新字体で。( )「、」文章間の空白や改行は勝手に入れてます

 

 

東北人謬見考
   謙  澄  記

戊辰奧羽戰爭ニ付テハ東北文章中事實ニ齟齬セルモノ、曲筆ニ陥レルモノ、少カラス 此等ノ事多クハ既ニ章文中ニモ註解トシテ挿入セルモ、長文ヲ要シ又ハ錯綜ニ渉リ章文間ニ挿入スル便ナラサルモノ頻ル多シ

東北人謬見考
   謙  澄  記

戊辰奥羽戦争については東北側の文章に事実と齟齬(食い違って合わない)するもの、曲筆(事実を曲げて書く)に陥れるもの、少なからずこれらの事は多くは既に章の文中にも註解として挿入したが長文が必要となったり、または複雑に入り組み文章の間に挿入するのは不便であるものがとても多かった。

 

今此等ヲ綜合シテ一括ト爲シ、此附録ヲ作リ、試ニ題シテ東北人謬見考ト稱ス 顧フニ東北人ニ在リテハ、戊辰ノ事ニ於テ要スルニ敗者ニ外ナラス、其立脚地ノ囘護ニ力ムルハ人情ノ自ラ然ラシムル所アルヘク 隨テ此等ノ事モアルヘク予ハ之ヲ諒察セサルニ非ス

今回これらを総合して一括にし、この付録を作り、どういう結果になるか試しに題して『東北人評見考』と称する。思い返すに東北人においては戊辰戦争の事において要するに敗者に他ならず、その立場の庇護を身に受けるのは人情から自然とそうさせる所がある。それによって以上の事も当然であり、私は当時の彼らの立場、状況を汲まない訳ではない。

 

然レトモ予既ニ一個ノ歴史著者タリ 乃チ、事ノ眞相ヲ闡明スルハ已ムヲ得サルノ義務アリテ存ス 是レ此附録アル所以ナリ、讀者幸ニ之ヲ恕セヨ

だが私は既に一人の歴史著作者だ。すなわち、事の真相を明らかにするのはやむを得ない世の道理があると思う。これがこの付録が存在する理由である。読者はなにとぞこれを許してほしい。

 

按スルニ、朝廷ハ本年正月十五日ヲ以テ奧羽諸藩ニ左ノ大命ヲ下セリ

考えるに、朝廷は本年一月十五日をもって奥羽諸藩に左の大命を下された。

 

徳川慶喜叛逆ニ就キ、追討ノ爲、近日官軍東海東山北陸三道自(ヨリ)進發令之旨仰出被候 就テハ奧羽ノ諸藩宜尊王大義知、相共六師征討之勢援可(ベク)旨御沙汰候事

 正月

徳川慶喜反逆につき、追討の為、近日官軍は東海、東山、北陸の三道より進発令を仰せ出された。よって奥羽諸藩は尊皇の大義を知り、共々、六師征討軍を援助するようにとのご命令である。

 正月

 

六師征討の勢→朝廷が6ヶ所の諸藩を鎮撫するために任命した征討軍のこと。山陰道鎮撫総督:西園寺公望東海道(同):橋本実梁、東山道(同):岩倉具定、北陸道(同) :高倉永祜、中国四国(同):四条隆謌、九州(同):沢宣嘉

 

近時東北史刊行會發行ノ奧羽蝦夷戰亂史ニ、此朝命ニ對シ「薩長ハ會津征伐ニツキ、仙臺藩ニ對シテ竊ニ追討應援ヲ命スル所アリキ 卽チ左ノ如シ」ト記セリ 大膽ナル立言ト謂フヘシ

この時、東北史刊行会発行の奥羽蝦夷戦乱史にはこの朝命に対して「薩長会津征伐において仙台藩に対して密かに追討応援を命じる所があった。即ち、左の通りである」と記した。大胆な主張であるといえる。

 

該書ノ論法事々皆此ノ如シ甚タ首肯ニ苦ム既ニシテ其十七日ヲ以テ朝廷ハ仙臺藩ニ
        仙 臺 中 將
會津容保、今度徳川慶喜ノ反謀ニ與シ錦旗ニ砲發シ大逆無道征伐軍發被可候間、其藩一手ヲ以テ本城襲撃速ニ追討之功奏可旨御沙汰候事(正月)トノ大命ヲ下シ尋テ米澤秋田南部ノ三藩ニ

当該書の論法のあれこれは皆この様に甚だ納得しがたく、そうしている間にその十七日をもって朝廷は仙台藩

        仙 台 中 将

会津(松平)容保、この度徳川慶喜の反謀に与し錦旗に発砲し大逆無道。征伐軍発せられたが、その藩一手をもって本城を襲撃。速やかに追討の功そうすべき(正月)との大命を下し、従って米澤、秋田、南部の三藩に

 

大逆無道→道理や人の道からひどく外れた常軌を逸した行為のこと

 

     上杉彈正大弼
各 通  佐竹右京大夫
     南部美濃守
思召之有、別紙之通仙臺中將へ仰付被候 隨テハ其藩ニ於テ兼テ聞召入被候儀モ之有候ニ付倶(トモ)々勉勵應援成功奏可之旨、御沙汰之事

     上杉彈正大弼(米澤)
各 通  佐竹右京大夫(秋田)
     南部美濃守(南部/盛岡)

お考えがあり、別紙の通り仙台藩中将へ仰せ付けられた。従ってはその藩においてあらかじめお聞き入れられた件もある為、共々勉励し応援し、成し遂げるよう申し上げた。ご沙汰の事も

 

トノ命ヲ下セルコトモ既ニ第一章中ニ記シタリ

右ノ内仙臺ニ下サレタル大命ハ最初左ノ如クナリシト云フ

命令を下した事も既に第一章中に記した。

以上の内、仙台に下された大命は最初次のようなものだったという。

 

會津容保、今度徳川慶喜ノ反謀に與シ錦旗ニ砲發シ、大逆無道征伐軍發被可候間、其藩一手ヲ以テ本城ヲ襲撃スヘキノ趣出願、武道失不(ズ)

会津容保、この度徳川慶喜の反謀に与し、錦旗に発砲し、大逆無道。征伐軍発せられたが、その藩一手をもって本城を襲撃すべきと希望する。武道失わず。


憤發ノ條神妙之至御満足ニ思召被候 之依願、之通仰付被候間、速ニ追討之功奏可(ベク)之旨御沙汰候事
  戊辰正月

奮発の事は神妙の至りで申し分無いとお思いになられた。これよりこの通り仰せつけられたので速やかに追討へ向かうようにとの事である。

  戊辰正月


當時在京ノ仙臺藩人カ最初一手討入ヲ情願セシコトハ後文ニ立證スル如ク明確ノ事實ナルニ拘ハラス此朝命ヲ見ルニ及ヒ、忽チ驚惶シ遂ニ百方周旋シテ上掲ノモノト取替ヲ受ケタルナリ

当時在京の仙台藩人が最初に一手討ち入りを嘆願した事は、後文に立証するように明確な事実であるに関わらず、この朝命を見るに及んで驚惶(驚き恐れて)し、遂にあらゆる手段をもって周旋して上記掲載のものと取り替えを受けたのである。

 

而ルニ、仙臺藩記ニ簡単ニ會津一手討入出願ノコトナシト記シ、仙臺戊辰史ハ之ヲ敷演シテ仙臺藩ニテハ會津一手追討ヲ出願セシコトナキカ故ニ、御沙汰書ノ文意了解ニ苦シムモノアリ

そして仙台藩記に簡単に『会津(への)一手討ち入りの出願はなかった』と記し、仙台戊辰史はこれを元に引き伸ばして『仙台藩においては会津(への)一手追討を出願した事がなかったので、御沙汰書の趣旨の理解に苦しむものがあった』

 

安政5年2月下旬 松陰→月性

調停一事御心頭に懸けられ候段、實に感銘致し候 右に付き、何卒折角の御厚情徒事に相成らず候様にと種々案勞仕り候より同志へ申し談じ候處、孰れも同意に御座候

仲介の一件を念頭に留められておりました事、実に感銘致しました。右の件に付きまして、どうか折角のご厚情が無駄にならないようにと様々思案致し同志へかけ合った所、いずれも「同意」でございました。


其の段は他事に之れなく、江南・松下相和睦するすると申したる計りにては眞情は終に貫徹仕らざる事に付き

その件については隔意はなく、明倫館と松下村塾が和睦するすると申しているばかりでは真意は終いに通じなくなりますので

 

松下生悉く周布を主盟とし毎々會集仕るべく、書生の妄論も盡し、政府諸君實事上の様子も承り候はば、眞情相通じ眞の和睦に相成り申すべくと存ぜられ候

村塾生は皆周布を中心として常々集会するべく、彼らのでたらめな論も出しきり、政府諸君の実際の内情(状態)を把握すれば、こちらの言い分も通じ誠の和睦になるのだろうと思われます。


と申し候とも松下社中も先日御面會の中谷・高杉・尾寺・久保等の數子、且つは所謂有隣子等のみに御座候 何卒上人の御紹介を以て御歸在前に一夕周布へ會する様の事出來申す間敷くや 

と申しましても松下村塾も先日面会した中谷・高杉・尾寺・久保などの数人、その他は所謂有隣達だけでございます。どうか貴方のご紹介をもってお帰りなさる前に一晩周布に会う事は出来ませんでしょうか。

 

此の度成就仕り候へば誠に御調停も眞功相顕はれ誠に妙々に御座候 全體僕も一囚室に坐し黙々仕り居り候内に、松下の議論などと人に目せられ候ては人聞きも如何敷く【以下欠】

今回成功となれば実にご仲介も真の功となり誠に喜ばしくございます。そもそも僕も囚われの身であり「部屋に座し黙々と居る内に松下村塾の議論など」と人に評価されてしまっては人聞きも宜しくなく【以下欠】

安政5年2月28日 松陰→久坂

著者である山口県教育会は『観月先生は普通小田村伊之助を指す、小田村は当時松本村観月河原に移住して居ったからである、然るにこの書簡は久坂宛に違いない』という。

 

 

阿月の貴書達し候 御壯志妙々 京師の事何如やらんと至極案じ申し候 桂小五郎來原に與ふる書にて西城決着の事之れを承り大愉快

阿月からの手紙が届きました。とても勇ましく素晴らしく思います。京都の件はどのようにすれば良いのだろうと、とても思案しています。桂小五郎が来原に送った手紙にて『西城決着』と、これを聞きとても嬉しく思います。

 

徳川と一橋派の抗争の決着

 

右にて愚考するに 天朝の正論と西城の正議と合體して天下の俗説を推し崩し、神州を維持すること方今の急務なり  天朝の御中興も征夷の御中興も此の辰なり

以上から考えると朝廷の正論と徳川の正義を合体して天下の俗説を押し崩し、日本を維持する事が今行うべき事でしょう。朝廷の復興も攘夷の復興もこの時であります。

 

天朝の正論を守り立て候事、征夷氏長久の妙計なり 此事桂と談じ給へ 桂も赤川淡水も上京に若くべからず 桂は奥羽行の積りとか申す事、是れは急務と覺え申さず

朝廷の正論を支える事、征夷大将軍の家系の妙策です。この事は桂と話し合いなさい。桂も赤川淡水も上京に及ばないように。桂は奥羽へ行くつもりとか言っているがこれは急務ではないでしょう。

 

京師へ人材を聚め公卿の弊習を【以下中文欠】竹島論公然上書に如くべからずと存じ候 松洞も同説なり 御申し談じ成さるべく候 

京都に人材を集め朝官の悪いしきたりを【以下中文欠】竹島(開墾)論は意見書で大っぴろげにしてはいけないと思います。松洞も同意見です。申して話し合いなさってください。


◯江帾・桂・櫻任藏・長原武などへ別に添書致さず候間、秀實御申合せ御紹介下さるべく候

◯江帾・桂・櫻任藏・長原武へ添え状は致しませんので、栄太郎と話し合わせてお伝えくださるようお願い致します。

 

◯江帾文虎若し西遊の思ひ立ちも御座候はば、秀實か若しくは老兄より有隣・清太へ御添書成さるべく候 松如へは吾樓自書あるべし 併し文虎此の節何如の状態に候や

(江帾春庵の忘れ形見である)江帾文虎が西へ遊学する気があるのなら栄太郎かもしくは貴方から有隣・清太へ添え状をなさるように。土屋(蕭海)へは五郎の署名があるはずです。しかし文虎はこのところどのような状態でしょうか。

 

◯墨夷を斬らんと欲するの三義士尚ほ獄に在り候や 尚ほ在らば少しく情を通じ置きたし 其の術傳馬丁囚獄石出帯刀へ行きて問ひても分るべし 又牢屋同心に田村金太郎と申すあり

◯米国人を斬ろうと願う三義士はまだ獄にいるのでしょうか。今もいるならば少しばかり内情を交わしておきたい。その術は伝馬町牢屋敷の牢屋奉行、石出帯刀を訪れて質問してもわかるでしょう。また牢屋同心に田村金太郎という者がおります。

 

此の人鍵役と云ひて五六人あり、佐々木何某筆頭なり 其の外姓名を忘る 金太郎に住きて様子を問ふべし 又傳馬町に源左衛門 これが尤妙 と申すものあり

この人は鍵役で(その役職は)五、六人おり、佐々木何とかが筆頭です。その他の姓名は忘れました。金太郎を訪問して様子を聞きなさい。また、伝馬町に源左衛門(これがまた素晴らしい)という者がおります。

 

囚士獄中より吏に對する時の駕固をかたぐ棒頭にて奇男子なり 是れに住きて問ふもよし 左候て金一方なりと託し書を送るべし

この囚人、獄中から役人に対応する時の駕籠を担ぐ棒頭で奇男子です。この者に訪問して問うのもいいでしょう。左のようにするなら金一方(封?)程度を渡して手紙を送りなさい。


復書は恐らくは得すまじ 是れは獄中の情あり、怒ることなかれ 鍵役 牢屋同心の内 當番の内に出獄を頼むに然るべき人物あるべし 源左衛門に問ふべし

返事はおそらく来ないでしょう。これは獄中(にいる者へ)の思いやりですので、怒るような事ではありません。鍵役(牢屋同心内)当番の中で出獄を頼むのに相応しい人物がいるはずです。源左衛門に聞いてください。


◯天下の事情世間の新聞奇書等松洞と御申合せ、力を極めて捜索し長井へ御見せ、世子へ差出し候策専要と存じ奉り候 世に奇士あらば松洞へ像させ足下傳をかき、世子の耳目を驚かし給へ

◯天下の事情、世間の新聞や奇書などを松洞と話し合い、全力でもって捜索し長井雅楽へ見せ、世子へ差し出した策が最も大切であると思いました。この世に奇士がいれば松洞に肖像画を描かせて貴方が伝を書き、世子の見聞に衝撃を与えたまえ。


二月二十八夜、松洞至り且つ談じ且つ書く

先日より月性法話に付き、塾中會を廢し童子皆赴ききかしむ 昨日法話終る 今日より詩經會初まる 山根 武次郎 生來る、生中々気魄あり、愛すべし

二月二十八夜、松洞が訪れて話しながら書く。

先日より月性が法話するにあたり、塾内で集まるのをやめ生徒皆そちらへ行かせています。昨日法話が終わりました。今日より詩経会が始まります。山根武次郎が来ました。中々気概があります。気にかける事。


村塾増築の議初まる 委細は瀨能まで申し遣はし置き候 此の節土砂搬運は皆塾童なり 雇人は一人もなし 大愉快、云うても盡期はなし 先々閣筆 ◯來原大いに妙 ◯周布 政之助 も亦妙
 觀月先生  座右     松陰囚奴

村塾の増築についての話し合いが始まりました。詳しくは瀨能(吉次郎)までお伝えしておきました。この頃土砂運搬は皆塾生がしています。雇い人は一人もいません。とても面白い、とは言っても期限はありません。先々閣筆。

◯来原はとても素晴らしい。◯周布政之助もまた素晴らしい。

 観月先生  座右     松陰囚奴

文久2年2月15日 淵上→下川

後で訳し直します

 

 

謹而呈一書候 今般天下に一大事之儀差起り、兼而人間の道相辨へ候者共は是非参り不申候ては難叶候事故、御願も不申上家出仕候事は何共不孝之至に御座候へ共明て難申上儀も有之出奔仕候

謹んで一書申し上げます。この度天下に重大な事件が起こり、兼ねて人道を心得ている者達は必ず参らなければ実現は難しい事ですので、お願いも申し上げずに家を出る事は何とも親不孝の至りでございますが、全てを明らかに申し上げにくい件もあり脱藩致します。

 

いづれ四月には事相済可申候へば五月始には兄弟共罷帰り可申候間必御心配無御座様偏に御願申上候 扨又借財筋之儀是迄深く御心痛遊ばされ候事

どちらにせよ四月には事が済むとすれば、五月始めには兄弟共に帰りますのでご心配をなさらぬようお願い申し上げます。さてまた借金の件はこれまで深くご心痛された事と

 

私共重々推察仕候へば、何分にも忍兼候へ共此儀も事成候上には銀主の方へも、夫々払向候様手配致置候間、私共両人他出中は払出方一切相謝置被下候様御願申上候

私も重々推察しており、何分にも忍びかねますが、この件も事を成した上で銀主の方へもそれぞれ払いに向かうよう手配致し置いておりますので、私共両人の外出中は払出方には全て謝り置きくださるようお願い申し上げます。

 

少々は尊大人様御氣之毒に思召候事も御座候半と相察申候へ共、天下の為と被思召何事も私共罷帰り候迄は御忍び被下候様、是又奉願候

少々はお義父様をお気の毒に思う気持ちもございましょうとお察ししますがお国のためとお考えいただき、何事も私共が帰るまでは耐えてくださいますよう、こちらもお願い申し上げます。

 

夫是迄色々と虚言申上候儀は何共恐入候儀に御座候へ共、御大名様を始下同志之面々、天地神明に誓候て、他言不仕と申合せ候事に付、大切の親様へも、事を明し不申候

そもそもこれまで色々と嘘を申し上げた件は本当に申し訳ない事でございますが、お大名様を始め以下同志の面々で天地の神々に誓って他言しないようにと申し合わせた事ですので、大事な親様へも内容を明かせませんでした。

 

不孝の罪天地之間に難入程御座候も此節私共兄弟孝道相立候様人より一倍相働候様兼々兄弟申合せ候 此節事起り候 人數凡五千余 其内私儀は御国に而は発端人之壱人に御座得者天子之御爲にも夫丈け人より深く御座候様存居申候

親不孝の罪は天地の間に入り難いほどでございますも、この度私達兄弟は孝道に立てるよう人より一倍と働きますよう前々より兄弟で申し合わせていたところ、この度の事が起こりました。人数およそ五千人あまり。その中で私はお国においては発端者の一人でございますが天皇の為にもそれだけ人より(関わりが)深くございますように思っております。


尊大人様にも是迄医者々々日夜之勤大事等毎日被仰候得共、かゝる大事之発端之壱人に候得者何分被聞候事も相用不申御心痛相かけ候罪は何共難相忘御座候

お義父様にもこれまで医者医者と日夜の勤めが大事などと毎日仰られますが、関わる大事の発端の一人でありますので、何分お聞かせられる事も出来ずにご心痛をおかけする罪は何とも忘れ難くございます。

 

乍併事御聞之上に而は定而御喜悦被遊候事も御座半哉と奉存候、最早かゝる一大事に相及候へば、尊大人様にも大丈夫之勇者之御心持に相成被下候はば、私共兄弟之者、如何計り恐悦之至奉存候

しかしながらお聞きの上においては定めてお喜び遊ばせる事もあるのではと思っております。最早かかる一大事に及ぶので、お義父様にも勇気ある一男児のお心持ちになってくだされば、私達兄弟もいかばかりか恐れ多くも喜びの至りでございます。

 

大鳥居等は此節に親子参り「おこと」など前以承知致候へ共勇立候て、夫や子の出陣を何之苦にも被思候事も無之、実以感心之至に御座候

大鳥居はこの時期に親子参りをし、おこと(人名)も前もって承知致しておりましたので、奮起した夫や子の出陣を何の苦しみにも思われる事もありません。実に感心の至りでございます。

 

婦人でさへ夫や子の出陣を何共相思不申、まして尊大人様兼ての御気前にては、事憂苦被遊候訳も有之間敷、母様を始まさ共迄も心配不仕候様、御引立被下候様奉願候

婦人でさえ夫や子の出陣をなんとも思っていないのです、ましてやお義父様のお気前には憂苦遊ばされる訳もあるまじきに事、母様を始め、まさ達迄も心配せぬようにお引き立てくださりますようお願い致します。

 

此場に至り候ては、人間の人物柄相分り候事故、かゝる子供二人も相持候親丈、屹度有之と人よりも被申立候様有御座度重々奉願候且又先文申上候借財之儀も、かゝる一家之内より兄弟二人出奔致位之大変故、此訳を以て御謝り被下候様奉願候

この場にいたっては人間の人柄が分かる事から、かかる子供二人も持った親だけの事があると人からも申されたく重々願っています。かつまた先ほど文章で申し上げましたが借金の件もかかる一家の中から兄弟二人脱藩したくらい大変な事ですので、この理由で謝ってくださりますようお願い致します。


此紙面之趣は、来月十五日迄は、如何なる人にても御他言被下事破れ候様にては、私共兄弟一命相捨候分は少も相厭不申候へ共、二三國之御大名様第一禁裏様へ之御申訳も無之

この手紙の事は来月十五日迄はどのような人だとしても他言して事が破れるようになっては、私達兄弟が命を捨てるのは少しも厭いませんが、二、三国のお大名様や第一禁裏様へ申し訳なくなります。

 

実に身の置処も、生ても死ても無之候間、御他言被下間敷様奉願上候右之段乍涙書残申候、余は目出度帰郷之上可申上候恐惶謹言

 文久二年二月十五日記   淵上丹二
尊大人様     玉床下

本当に生きても死んでも身の置き所がなくなりますので、ご他言されませんようにお願い申し上げます。以上、涙ながら書き残します。後は見事に帰郷の上で申し上げましょう。恐惶謹言。

 文久二年二月十五日記   淵上丹二
尊大人様     玉床下

長州藩諸隊メモ

長州藩諸隊メモ


遊撃隊(文久三年)230名

来島又兵衛、石川小五郎

禁門の変で戦闘。

 


勇力隊(文久三年)40余名
山脇勝五郎
遊撃隊分流。角力業者で編成。御楯隊に合併。


御楯(組)隊(文久二年→再結成:元治元年)11名→230名
高杉晋作太田市之進(御堀耕助)
英国公使館を焼き討ち。→禁門の変の帰国者で編成。後に整武隊と合併。


鴻城隊(文久三年)150名

森清
山口に駐屯。整武隊と合併。


整武隊(慶応三年)400余名

山田市之允
戊辰戦争に従軍。

 

 


パトロン隊(文久二年)1000名

隊長不明
火薬工場の女子・一向宗徒の女子で編成。

 


真武隊(文久三年)50名
秋良雄太郎
別名、南奇兵隊。後の第二奇兵隊の母体。

第二奇兵隊(慶応元年)125名

白井小助
大島郡一帯の民衆を集めて編成。後に健武隊と合併。

膺懲隊(文久三年)175名

赤川敬三
清光寺に駐屯。後に健武隊と合併。


健武隊(慶応三年)400余名

赤川敬三
戊辰戦争に従軍。

 

 


奇兵隊文久三年)375名
高杉晋作、山内梅三郎

長州革新勢力の中心部隊。

 

 


集義隊(文久三年)120名

桜井慎平

下級武士・豪農で編成。俗論派と戦う。

八幡隊(文久三年)200名

堀真五郎
集義隊と合併。鋭武隊と改称。


鋭武隊(慶応三年)400余名

駒井政五郎
奥羽方面で戦闘。

 

 


衝撃隊(文久三年)200余名
岡部富太郎、湯川丑兵衛

芸州口で彦根藩兵を撃破。

 

 

精鋭隊(文久三年)70余名

平岡兵部
撰鋒隊分流。俗論派と戦う。


酬恩隊(文久三年)56名

柳恭蔵
芸州口・関戸で戦闘。

 

自力隊(文久三年)200名
田辺嘉三郎

小郡津市の民兵部隊。郷土防衛隊。

 

社僧隊(文久三年)160名
円教
僧侶・神官で編成の砲兵部隊。禁門・馬関で戦闘。


エレキ隊(文久三年)80名

秋本治郎助

豪農で編成。領内自警団。

 

東津隊(文久三年)150名

秋本新蔵

豪農で編成。郷士防衛隊。

 

佐分利隊(文久三年)250名

佐分利顕民

小郡地区の民兵部隊。


金剛隊(文久三年)80余名
長蔵寺今雄

阿武郡小畑村の僧侶・山伏で編成。


義勇隊(文久三年)50名
佐々木亀之助

周防上関の農民で編成。非常部隊。


市勇隊(文久三年)120名
樽屋新七

萩西田の商人らで編成。

 

狙撃隊(文久三年)200余名
平賀惣四郎

猟師で編成。


屠勇隊(文久三年)150名

隊長不明、創設案は吉田稔麿
山口方面の被差別部落民から編成。

 

小野隊(文久三年)150名
小野恒太郎

小郡二島の民兵部隊。武装自警団。

 

 

 

義昌隊(元治元年)50名

森永吉十郎

別名:荻野隊。小郡に駐屯。振武隊と合併。


南園隊(元治元年)230名

佐々木男也
石見口で戦闘。振武隊と合併。


振武隊(慶応三年)400名
三好重臣
南園隊と義昌隊の併合部隊。東日本全域で戦闘。

 

 


正名団(元治元年)180名

高杉晋作
武士・庶民で編成。馬関防衛隊。

 

忠憤隊(元治元年)80余名

大楽源太郎
西山塾生で編成。攘夷部隊。


育英隊(元治元年)75名
笹川謙蔵

益田家の家臣で編成。石見口で戦闘。

 

浩武隊(元治元年)100余名

泉純成
若手家臣団で編成。久賀村付近で戦闘。


忠勇隊(元治元年)70名
甲斐真翁、真木直人、松山深蔵
禁門の変で戦闘し壊滅。


鐘秀隊(元治元年)50余名

隊長不明
無給の者で編成。後に昭武隊と合併。

昭武隊

 


報国隊(元治元年)250余名

熊野直介
長府藩の正規軍。北越方面で戦闘。

 

 

 

斉武隊(慶応元年)300余名

楢崎八十槌、佐藤新右衛門

富田村に駐屯。

 

干城隊(慶応元年)185名
福原駒之進、佐世八十郎

別名:護国干城隊。官軍の主力部隊。

 


維新団(慶応二年)400余名

隊長不明
農民・力士・猟師・山伏・神官・僧侶で編成の民兵部隊。

 

 

良城隊(慶応二年)130余名

隊長不明
領内の農民で編成。駒ヶ峯・旗巻峠で戦闘。

 

 

 

 


岩国民兵団(四境戦争時)


・戢翼団(しゅうよくだん)100人
神社浪人の混成団。藩兵に先立って和木村に進駐し、小瀬川の緒戦に輝かしい戦功を立てる。
・武揚団  50人
大畠・日積の農兵団。玖波・大野に出撃して活躍。
・敢従団  73人
城下近辺の農兵団。開戦後、大野を攻撃。
・電撃団  40人
真宗僧侶で編成した砲兵団。士隊に従って和木村を守った。
・賈勇団  50人
城下町の町人の兵団。町奉行の指揮下に町内の警備。
・神機団  100人
城下近辺の農商の兵団。地雷火を敷設する特殊部隊。芸州出陣はなかった。
・義勇団  100人
和木村農民の村境自衛の一団。8月に神鋭団と共に大高良山へ進駐。
・北門団  275人
坂上撫育方管下の農兵団。浅原口より出撃の長州兵団を援助し、しばしば幕軍側面を攻撃。
・輯光団(しゅうこうだん)260人
城下近辺の農兵団。多田に駐屯。
・神鋭団  225人
河内地区の農兵団。8月に芸州に進駐。
・就義団  617人
玖珂組代官管下の農兵団。予備兵団として訓練待機。
・忠果団  481人
由宇組代官管下の農兵団。予備兵団。
・勁武団  245人
柳井町奉行兼代官管下の農商兵団。予備兵団。

 

 

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安政5年4月13日 高杉→松陰

松陰全集6コマ48、49

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玄瑞君も益慷慨、浪華過京師至愉快々々、京師之事實悦可懼可、

玄瑞君も益々意気盛んとし、大阪を越え京都に至ったと聞きとても心が浮き立つようです。京都の事象に直に触れ、さぞ驚喜している事でしょう。


実ニ天下之安危是於決矣、有志之士几臂書枕之時ニアラサルナリ 能眼回諸侯之赤心見、能鼎護明天子扶、然而京師・浪華・江武之地避、以大義謀、是我カ望所也

実に一国の安危はこういう時に決まるのです。志の有る士は机にかじりつき書を枕にしている場合ではありません。よく眼をこらして諸侯の誠心を見極め、鼎(の三足の支え)のように天皇をお守りする。しかしながら京都・大坂・江戸の地は避け、大義の計略を巡らせる。これが僕が考える展望なのです。

 

然則先生者于ヨキ地居謂可、故先ツ父兄之心安使、密ニ門人以沛公為使乎、是固先生常為所、然も我弟子心より而之發、能免セヨ
それならば先生は良い地に居ると言ってよいでしょう。だからまずは父兄を安心させようと、沛公も密かに門人を使わせたのです。これはいつも先生が為そうとしていた事です。そのように僕は弟子心から申し上げます。どうかお許し下さい。

 

玄瑞ハ又別世界且夫京師者、最醫人集會所、避慊及不義、其形醫而其心丈夫、以京師居、實其処得、賓卿者京師行惡シ又伊勢行も惡シ九州行最然々々、有隣君之遊學此節はカタテ悪シ久保ヲシテ京師浪華之間伏見邊に居シムル大妙之事、然雖為可不事、残念々々、
玄瑞はまた別の環境におり、その京都は医学を志す者が最も多く集まる場所です。義を果たさぬかとの心配には及びません。彼の身なりは医者ですが、その心は立派な一男子です。京都に居れば活躍の場を得るでしょう。賓卿(中谷正亮)は京都へ行くのはよくなく、伊勢へ行くのも不都合です。九州へ行くのが一番かと思います。冨永有隣君もこのような時期に遊学するというのはとんでもないことです。久保を京都から大阪の間、伏見あたりへ居させるというのは大変結構とは言え、実行は難しいでしょう。残念です、とても。

 

僕之遊學議論宜舗御頼仕候此先達之議論行ルゝカ行不ルカ之処内々先生之御心得之風ヲシテ小田村君と御相談成下被候ハゝ有難存奉候若シ此議論行申不候ハゝ手段亦アルマシキコトニモナシ然乍成ル事ナレハ相成候様御計頼奉候
僕の遊学に関する話し合いの件、宜しくお頼み申し上げます。上役たちの間で話し合いがもたれるかどうか、内々、先生にも取り計いして頂き、先生の義理の兄上でもある小田村さんとご相談頂ければありがたく存じます。もしこの件に関する申し合わせがなくとも、他にも江戸遊学を実現するための手段はあるでしょうが、何とかなるものであればそのようにお取り計らい下さいますようお願い申し上げます。

 

昨日初度之法事、大困リ致候。何分立タリ坐シタリスルニ目カマイソウナヤウニ御坐候今日も少々者客も之有候得共昨日と者大違ニ御坐候明日カラハ讀書少々仕ラレ候間彌次郎カ誰カヲ御遣シ下被可候様希奉候對讀テナクテハ難儀仕候

昨日、祖父 又兵衛の初七日の法事があり本当に大変でした。何せ立ったり座ったりの忙しさで、目が回りそうなくらいにございました。今日も少しは来客もあるのですが、昨日とは大違いでございます。明日からは読書をする時間も少しは得られますので、弥二郎か他の者をお寄越しくださいますようお願い申し上げます。対読ではなくては、読書もなかなか捗りません。

 

○秋良・小助之上京、ニ州之害爲乎、幸爲乎、僕其別知未、秋良病決而二日酔ナランカ玄瑞之上書愉快々々、半井激發亦悦可、晋惟馬関之議懼足不、然雖玄瑞之上書決而幕府之言受可不在、其言所馬関ハ清末・長府領も御坐候中々此議ハ小藩二て武備も行届不二候間丸二本藩御引取成被候段ナト之議論妙策也

○秋良敦之助と白井小助の上京は長門・周防の)二州にとって害となるか、それとも幸となるか、僕にはまだ分かりません。秋良の病欠は二日酔いではないでしょうか。玄瑞の意見書はとても面白かったです。半井(春軒)が奮い立った事も喜ばしく、僕としては馬関の件は恐るるに足らず。しかし玄瑞の意見書は決して幕府の言うことを受け入れるべきではないとしています。言うところ、馬関の地には清末・長府領もございます。中々この件は小藩では武備も満足に届かず、全て本藩(萩藩)で引き取るのが良い等と申しております。妙策と思います。

 

○野村カ上京も又意有矣

○野村(淳助)の上京にもまた考えがあるのでしょう。

 

○肥後ナト之ウワサ之無様子僕甚怪焉、竹嶋論秋良氏待不

○肥後等の噂がない様子で僕は甚だ怪しんでいます。竹島(開拓許可を幕府に取り付ける件)については秋良氏を待つことはできません。

 

○土屋氏亦一歌人

○土屋(矢之介)氏もまた一歌人です。

 

○仙臺片倉・尾州成瀬・薩侯之大刀、僕恠焉、僕今京師之議論者度、唯近耳遠足在也、草々、此如シ、再拝謹白

○仙台 片倉・尾州成瀬・薩候の大刀については、僕は信用出来ません。僕は今回の京都での件については、身近から聞きはしても、実際には遠方での出来事に過ぎません。取り急ぎ。再拝謹白。


十三日  晋作  松陰先生御案下へ

十三日 晋作 松陰先生御案下へ

 

ニ白、幾重之天下之形勢此節之如クナレハダイフン愉快々々、先生能自愛セヨ晋再拝
追伸、幾重の天下の形勢はこのようになれば、だいぶん面白くなりそうですね。先生、どうぞご自愛下さい。晋 再拝

 

(外封)
サトリトカ云モノヲ開カト思ガ宜舗佛書之有候ハゝ御送下被候

松陰先生御案下

悟りとかいうものを開こうと思うので良い仏教書がありましたらお送りください。
松陰先生御案下