東北人謬見考 1
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東北人謬見考
謙 澄 記
戊辰奧羽戰爭ニ付テハ東北文章中事實ニ齟齬セルモノ、曲筆ニ陥レルモノ、少カラス 此等ノ事多クハ既ニ章文中ニモ註解トシテ挿入セルモ、長文ヲ要シ又ハ錯綜ニ渉リ章文間ニ挿入スル便ナラサルモノ頻ル多シ
東北人謬見考
謙 澄 記
戊辰奥羽戦争については東北側の文章に事実と齟齬(食い違って合わない)するもの、曲筆(事実を曲げて書く)に陥れるもの、少なからずこれらの事は多くは既に章の文中にも註解として挿入したが長文が必要となったり、または複雑に入り組み文章の間に挿入するのは不便であるものがとても多かった。
今此等ヲ綜合シテ一括ト爲シ、此附録ヲ作リ、試ニ題シテ東北人謬見考ト稱ス 顧フニ東北人ニ在リテハ、戊辰ノ事ニ於テ要スルニ敗者ニ外ナラス、其立脚地ノ囘護ニ力ムルハ人情ノ自ラ然ラシムル所アルヘク 隨テ此等ノ事モアルヘク予ハ之ヲ諒察セサルニ非ス
今回これらを総合して一括にし、この付録を作り、どういう結果になるか試しに題して『東北人評見考』と称する。思い返すに東北人においては戊辰戦争の事において要するに敗者に他ならず、その立場の庇護を身に受けるのは人情から自然とそうさせる所がある。それによって以上の事も当然であり、私は当時の彼らの立場、状況を汲まない訳ではない。
然レトモ予既ニ一個ノ歴史著者タリ 乃チ、事ノ眞相ヲ闡明スルハ已ムヲ得サルノ義務アリテ存ス 是レ此附録アル所以ナリ、讀者幸ニ之ヲ恕セヨ
だが私は既に一人の歴史著作者だ。すなわち、事の真相を明らかにするのはやむを得ない世の道理があると思う。これがこの付録が存在する理由である。読者はなにとぞこれを許してほしい。
按スルニ、朝廷ハ本年正月十五日ヲ以テ奧羽諸藩ニ左ノ大命ヲ下セリ
考えるに、朝廷は本年一月十五日をもって奥羽諸藩に左の大命を下された。
徳川慶喜叛逆ニ就キ、追討ノ爲、近日官軍東海東山北陸三道自(ヨリ)進發令之旨仰出被候 就テハ奧羽ノ諸藩宜尊王之大義知、相共六師征討之勢援可(ベク)旨御沙汰候事
正月
徳川慶喜反逆につき、追討の為、近日官軍は東海、東山、北陸の三道より進発令を仰せ出された。よって奥羽諸藩は尊皇の大義を知り、共々、六師征討軍を援助するようにとのご命令である。
正月
六師征討の勢→朝廷が6ヶ所の諸藩を鎮撫するために任命した征討軍のこと。山陰道鎮撫総督:西園寺公望、東海道(同):橋本実梁、東山道(同):岩倉具定、北陸道(同) :高倉永祜、中国四国(同):四条隆謌、九州(同):沢宣嘉
近時東北史刊行會發行ノ奧羽蝦夷戰亂史ニ、此朝命ニ對シ「薩長ハ會津征伐ニツキ、仙臺藩ニ對シテ竊ニ追討應援ヲ命スル所アリキ 卽チ左ノ如シ」ト記セリ 大膽ナル立言ト謂フヘシ
この時、東北史刊行会発行の奥羽蝦夷戦乱史にはこの朝命に対して「薩長は会津征伐において仙台藩に対して密かに追討応援を命じる所があった。即ち、左の通りである」と記した。大胆な主張であるといえる。
該書ノ論法事々皆此ノ如シ甚タ首肯ニ苦ム既ニシテ其十七日ヲ以テ朝廷ハ仙臺藩ニ
仙 臺 中 將
會津容保、今度徳川慶喜ノ反謀ニ與シ錦旗ニ砲發シ大逆無道征伐軍發被可候間、其藩一手ヲ以テ本城襲撃速ニ追討之功奏可旨御沙汰候事(正月)トノ大命ヲ下シ尋テ米澤秋田南部ノ三藩ニ
当該書の論法のあれこれは皆この様に甚だ納得しがたく、そうしている間にその十七日をもって朝廷は仙台藩に
仙 台 中 将
会津(松平)容保、この度徳川慶喜の反謀に与し錦旗に発砲し大逆無道。征伐軍発せられたが、その藩一手をもって本城を襲撃。速やかに追討の功そうすべき(正月)との大命を下し、従って米澤、秋田、南部の三藩に
大逆無道→道理や人の道からひどく外れた常軌を逸した行為のこと
上杉彈正大弼
各 通 佐竹右京大夫
南部美濃守
思召之有、別紙之通仙臺中將へ仰付被候 隨テハ其藩ニ於テ兼テ聞召入被候儀モ之有候ニ付倶(トモ)々勉勵應援成功奏可之旨、御沙汰之事
上杉彈正大弼(米澤)
各 通 佐竹右京大夫(秋田)
南部美濃守(南部/盛岡)
お考えがあり、別紙の通り仙台藩中将へ仰せ付けられた。従ってはその藩においてあらかじめお聞き入れられた件もある為、共々勉励し応援し、成し遂げるよう申し上げた。ご沙汰の事も
トノ命ヲ下セルコトモ既ニ第一章中ニ記シタリ
右ノ内仙臺ニ下サレタル大命ハ最初左ノ如クナリシト云フ
命令を下した事も既に第一章中に記した。
以上の内、仙台に下された大命は最初次のようなものだったという。
會津容保、今度徳川慶喜ノ反謀に與シ錦旗ニ砲發シ、大逆無道征伐軍發被可候間、其藩一手ヲ以テ本城ヲ襲撃スヘキノ趣出願、武道失不(ズ)
会津容保、この度徳川慶喜の反謀に与し、錦旗に発砲し、大逆無道。征伐軍発せられたが、その藩一手をもって本城を襲撃すべきと希望する。武道失わず。
憤發ノ條神妙之至御満足ニ思召被候 之依願、之通仰付被候間、速ニ追討之功奏可(ベク)之旨御沙汰候事
戊辰正月
奮発の事は神妙の至りで申し分無いとお思いになられた。これよりこの通り仰せつけられたので速やかに追討へ向かうようにとの事である。
戊辰正月
當時在京ノ仙臺藩人カ最初一手討入ヲ情願セシコトハ後文ニ立證スル如ク明確ノ事實ナルニ拘ハラス此朝命ヲ見ルニ及ヒ、忽チ驚惶シ遂ニ百方周旋シテ上掲ノモノト取替ヲ受ケタルナリ
当時在京の仙台藩人が最初に一手討ち入りを嘆願した事は、後文に立証するように明確な事実であるに関わらず、この朝命を見るに及んで驚惶(驚き恐れて)し、遂にあらゆる手段をもって周旋して上記掲載のものと取り替えを受けたのである。
而ルニ、仙臺藩記ニ簡単ニ會津一手討入出願ノコトナシト記シ、仙臺戊辰史ハ之ヲ敷演シテ仙臺藩ニテハ會津一手追討ヲ出願セシコトナキカ故ニ、御沙汰書ノ文意了解ニ苦シムモノアリ
そして仙台藩記に簡単に『会津(への)一手討ち入りの出願はなかった』と記し、仙台戊辰史はこれを元に引き伸ばして『仙台藩においては会津(への)一手追討を出願した事がなかったので、御沙汰書の趣旨の理解に苦しむものがあった』