おべんきょうノート

自分用です。

史記 淮陰侯列傳第三十二 ①

史記巻九十二 淮陰侯列傳第三十二(司馬遼)より

 

 

 

淮陰侯韓信者、淮陰人也 始為布衣時、貧無行、不得推擇為吏、又不能治生商賈、常從人寄食飲、人多厭之者、

淮陰侯 韓信は淮陰の人である。以前布衣であった時、貧しく無法な行いだったので推薦されて官吏に選ばれる事もされず、また商売で身を立てる事も出来ず、常に人に付いて食事の世話をしてもらっていた。彼を嫌がる者は多かった。

 

常數從其下鄉南昌亭長寄食、數月、亭長妻患之、乃晨炊蓐食 食時信往、不為具食 信亦知其意、怒、竟絕去

以前下郷の南昌の亭長の家にしばしば居候していたが、数ヶ月すると亭長の妻は韓信の世話をするのが煩わしくなった。そこで早朝に飯を炊いて自分は寝床で食事を済ませ、韓信の飯時が過ぎても食事を用意しなかった。韓信はその意味を理解して怒り、最後は絶縁をして立ち去ってしまった。

 

信釣於城下、諸母漂、有一母見信饑、飯信、竟漂數十日 信喜、謂漂母曰:「吾必有以重報母」母怒曰:「大丈夫不能自食、吾哀王孫而進食、豈望報乎!」

韓信が城下の淮水で釣りをしていた時、小母達が綿を水にさらしていた。ある一人の小母は飢えた韓信を見て彼に食事を与え、その施しは綿を水通しする仕事が終えるまでの数十日続いた。韓信は喜び、その小母に「私は必ず貴女にたくさん恩返しをしよう」と言うと小母は怒った様子で返した。「立派な大人の男が自分一人食わせる事も出来ていないから、私は貴方に同情して食事を進めたのです。お返しを期待して行ったのではありません!」

 

淮陰屠中少年有侮信者、曰:「若雖長大、好帶刀劍、中情怯耳」眾辱之曰:「信能死、刺我、不能死、出我袴下」於是信孰視之、俛出袴下、蒲伏 一市人皆笑信 以為怯

淮陰の屠殺業仲間の若者で韓信を見下す者がいて、こう言った。「おまえは図体が大きく背も高く、好んで刀剣を身につけているが中身はただの臆病者なんだろう」更に群衆へ辱めるかのように言った。「韓信よ、おまえが殺せるなら俺を刺してみろ。死にたくなければ俺の股の下をくぐれ」すると韓信は若者をじっくりと見てから身を屈め、腹這いになって股下をくぐった。群衆は皆韓信を臆病者だと笑った。

 

及項梁渡淮、信杖劍從之、居戲下、無所知名 項梁敗、又屬項羽、羽以為郎中 數以策干項羽、羽不用 漢王之入蜀、信亡楚歸漢、未得知名、

項梁が長江から淮水を渡り東から西へ進出しようとした時、韓信は剣を杖付き従ったが旗本にいた頃は名前を知られなかった。項梁が戦いに敗れ、項羽に属すと項羽韓信を『郎中』に任じた。韓信はしばしば策をもって項羽に会見を願ったが、いずれも用いられなかった。漢王が蜀に入ると韓信は楚(項羽)を抜けて漢(劉邦)に帰属したが、まだ名前を知られる事はなかった。

 

為連敖、坐法當斬、其輩十三人皆已斬、次至信、信乃仰視、適見滕公、曰:「上不欲就天下乎?何為斬壯士!」滕公奇其言、壯其貌、釋而不斬 與語、大說之、言於上 上拜以為治粟都尉、上未之奇也 

『連敖』に任ぜられていた頃、法に触れて斬刑に処される事になり仲間十三人は既に皆斬られてしまった。次に韓信に順番がまわってきた。韓信が仰ぎ見ると偶然滕公(夏侯嬰)を見つけたので「漢王は天下の大業を成し遂げたいと思わないのですか?どうして私のような壯士を斬るのですか!」と言った。滕公はその言葉を優れていると捉え、その顔付きを壯士と認めて釈放し斬らなかった。共に語り合い、大いに喜び、劉邦に言上した。劉邦韓信を『治粟都尉』に任じたがまだ優れているとは見做さなかった。

 

信數與蕭何語、何奇之 至南鄭、諸將行道亡者數十人、信度何等已數言上、上不我用、即亡 何聞信亡、不及以聞、自追之

韓信はしばしば蕭何と語り合い、蕭何は彼を優れていると感じた。劉邦らが南鄭へ至る途中、逃亡者の数は数十人になっていた。韓信は蕭何が何度か言上したのに劉邦韓信を必要としないと思い込み、そして逃げた。蕭何は韓信が逃亡したと聞くと劉邦には知らせず自ら追い掛けた。

 

 

②へ続く