おべんきょうノート

自分用です。

世良修蔵メモ

まとめの途中です。
 

世良修蔵の人となり

谷干城日記】
安政六年十一月十二日『六ツ過起る。書見、日出、支度仕る、通鑑、八大家等を読、今日も不出、頻に読む、八ツ時より周礼輪講始まる、七ツ過きを済む、夜に入り、八大家の会有り山内六三郎、村上俊平、戸倉修蔵、五十川卓介、中西卓弥氏等にて余モ加はる、四ツ過き止む、否寝る』

【加藤有隣 関之白雪】
文久ニ年十月八日『江戸長州邸有志一同より、世良修蔵君が再我出府を促して、我返るを待つづけ居るに逢ふ。本より君命の召しもあれば幸也と一諾せしに、修蔵君大に悦、相誓つて家に居ること、夫より僅かに五日、直様江京の遊学には及ひし也』

【加藤有隣 嚶鳴日記】
上日同様『扨八日、我内に帰りて見れば、長州藩大野修蔵君(修蔵君は後奥地の勤王の義戦にて打死せり)といへるも、又長州家同志等の命を以て江戸長州邸迄参られ、且は、京都にも追々長州世子等登らるる事なれば、急ぎ同伴して参られよと云而、七日前方より来りて、我返るを待ちおらるゝ由なり。扨大野氏は、壱二日先に我志の決しぬるを見て、江戸に返りぬ。我又打続きて諸親族にも暇乞して立出ぬるは、十四日の暁也』
加藤有隣の日記は後世書かれたもので編集もされている事から正確性としては少し疑問が残るとの見解。

 

 

世良の暗殺について

奥州での逸話
【仙臺戊辰史】『戊辰三月世良修蔵大坂ノ旅籠ニアリ米澤ノ使臣來リ謁ス修蔵時ニ藝妓ノ膝ヲ枕ニシ寝ナガラ公用書ヲ足ニテ使臣ニ蹴遣リシトイフ(使臣非常ニ憤慨セシ由米澤藩人ノ直話ナリ)』
『廿六日澤副總督醍醐参謀、世良修造等ハ薩長ノ諸隊長及ビ仙臺藩ノ附添朽木五左衛門ト共ニ花見ニ出デ梅林亭ニ於テ盛宴ヲ張リタリ修造ノ歌ニ
陸奥に櫻かりして思ふかな花ちらぬ間に軍せばやと』
『世良後ニ總督府付参政三好監物ノ宅ニ至リ榴ヶ岡ノ詠歌ヲ示セシニ監物之ニ和シテ
花盛り色よき敵に會津山討散さではいかで置くべき
ト詠ミシトイフ』
『一行酔ニ乗ジ騃態ヲ極メ淫褻ノ挙動人目ヲ憚カラザルモノアリ』
『仙臺藩士ヲ侮辱スル意味ノ俗謠ヲ謠ヒツ、街ヲ横行シ、酒ヲ被フリテ、士人ヲ凌辱シ市井ニ乱暴』
『良家ノ婦女子ヲ捉エテ終身拭フベカラザル辱シメヲ與へ、之ヲ誇リトスル』
 
大関理髪店(当時名称は「助床」)web内新聞記事】『福島市北町金澤屋の西隣に男髪結の 助床 と云ふのが在った。其助床の遺族の一人は現在福島上町四十三番地に理髪店を營んで居る 大関 であるが、其頃此助床の若衆を中心に 世良さんの笛 と云ふのが一時流行つた。金澤屋に宿泊した世良修蔵は興が乗ると横笛をとつてよく吹いたのである。「ヒーヒヤラ ヒヤー」と云ふ節廻しが可笑しいと云つて女達が騒ぐ、それが面白いとて世良は子供の様になつて吹いた、隣に居て夜更け此音を聞いて助床の兄イ達が蒲團の中で定めし耳を澄まして居た事であらう。何時の時代でも流行歌は先ず主婦の知らぬ間に子守から、主人の知らぬ間に番頭さんからと相場はきまつてゐるが助床でも御多聞に漏れなかつた。其頃で云ふと官軍行進曲であつた筈の此横笛は、助床では何時とはなく「世良さんの笛」と命名せられ、町家の若い衆が又夫れを真似ると云つた工合に流行したものである。世良が到頭殺されてからの事、助床の兄イや町の若衆が此世良さんの笛なるものを悪用し出した事件がある』
 
URL: http://www.fmcnet.co.jp/omaturi22/syukudai3.html
 
急襲前後
【仙臺戊辰史】『十七日ニ至リ坂本大炊、遠藤久三郎(後ニ温ト號ス)ヨリ、坂、伹水ヘノ建言ニ曰ク、會津ノ降服ヲ容レザルハ世良ノ拒ムガ爲ナリトハ列藩ノ所見ナリ、之ガ爲ニ若シ暴挙ニ出ヅルモノアルニ於テハ更ニ又時局ヲ困難ナラシムルノ廉ナリ』
『坂、伹水曰ク、果シテ世良ヲシテ逆焔ヲ收メテ、平和ニ賛成セシムルヲ得バ此ノ上ノ慶事ヤアル』
『世良冷々然トシテ曰く、嘆願書モ、解兵モ承知セリ醍醐少将へ計リテ別ニ沙汰スル所アルベシ、歸リテ待タレヨ』

 

急襲当日

【仙臺戊辰史】『寝所ニ踏込ミシニ世良ハ娼妓ノ名ヲ呼ビツゝ起直リ赤坂等ヲ見ルヤ、裸体ノ儘、床ノ下ナルピストルヲ取出シ發射ヲ試ムルルモ兩度ニ及ブモ發射セズ赤坂進ミテ其手ヲ撲キピストルヲ奪フ、世良起チ上ラントシ、襖ニ凭リテ倒レシカバ赤坂ト遠藤トハ之ヲ撲チ姉歯武之進、進ミ出デゝ之ヲ捕縛セリ』
 
【大槻安広履歴】『此晩世良氏金沢屋二階ヨリ飛下リ石垣ニテ頭部打砕ク、流血面ヲ蔽フ、依テ眼上ヲ布ヲ以テ結フト雖モ全躰ヘ流血シ負傷不レ少』
『ヒシトルヲ同氏ニ向ケタルモ不発、単物一枚ニテ二階ヨリ飛下リ切石ニ頭部シタゝカ傷ク、存命難レ斗躰容ナリ』

大槻安広は世良暗殺実行メンバー。
 
【齋藤淺之助翁談話】『仙臺藩と福島藩の人がどやどやと御寝所に亂入して、世良さんと勝見さんとは到頭縛られて仕舞ました。私共は勝手の一間に内部より錠を下して、恐しさの餘りに息を殺して居つたのですから、其の時の模様は少しも分かりません』
 


↓ここまでの文献を個人的観点から纏めたもの
多人数の者が押し入り、世良修蔵は不意をつかれたが机下に備えていたピストルを構え二度引き金を引いた。しかし二発共も不発。月明りを頼りに二階から飛び降りるも着地点の悪さから切石で重傷を負い、起ち上る事が出来なくなる。

勝見善太郎は隣の物音を聞いて目を覚まし、刀を抜いて襖を盾に田辺賢吉と斬り合った。前後から取り囲んだ際に障子を蹴り破り廊下(二階)から庭に跳び降りたが、庭には浅草宇一郎の子分たちが待ちかまえていた。田辺賢吉は二階から降りて逃げる勝見善太郎を追いかけた。勝見は必死になって小刀を振るい田辺の耳の辺りを斬りつけた。二人は暫く斬り合ったが、土蔵の扉が空いているのを見つけた勝見はそこへ入った。浅草宇一郎の子分たちが後を追って取り押さえた。世良、勝見らが力つきて捕えられたのは、二十日の暗い夜明け前の四時だった。
 

・八畳と十畳の間の鴨居の中央には切り込んだ刀痕が残り、高さ二メートルの位置にまで及んだ。

・土蔵の文庫蔵には勝見のおびただしい血痕が残されていたと伝わる。

以上の2点は風説による。

 

取調べ時

【仙臺戊辰史】『密書露顕ノ上ハ是非二及バズ、不心得ノ段ハ深ク謝ス、希クハ廣大ノ慈悲ヲ以テ一命ヲ救ハンンコトヲト』
 
【大槻安広履歴】『流血面ヲ蔽フ、依テ眼上ヲ布ヲ以テ結フト雖モ全躰ヘ流血シ負傷不少、瀬上氏以前ノ密書ヲ出シ世良氏ヲ尋問ス、小嶋勇記並安広モ問フと雖モ更ニ答ヘラレズ、暫クアリテ失謀セリ』
 
【齋藤淺之助翁談話】『一同は各自軒に引上げて、世良さんや勝見さんを訊問したさうです。何でも隊長株の人が世良さんを庭先に据ゑて訊問したのだといふ事です。これは無論確實ではありませんが、其の人は女郎の着物を着て居つたといふことです。世良さんは筆紙をというて御求めになつたさうですが、馬鹿を言ふなというて興へなかつたさうです。罪人扱ひに致したのです』
 
 大村三良 著「ふくしまわが町」
『二十日の未明、寝込みを襲われた世良は、ピストルを放って抵抗しましたが、多勢には叶わず、捕らえられて各自軒へ引き立てられました。仙台藩士たちは、憎しみのあまり、その場で処刑しようとしましたが、これを止めたのも宇一郎だといわれています。』


↓何故止めたのか

谷林博 著「世良修蔵
『はじめは各自軒において斬首するつもりであった、が、目明しの浅草手一郎の反対によって、近くの川原に変更された。各目軒は井上くらが経営していたが、母が未亡人となっていて浅草宇一郎と同棲していた。宇一郎は自分の屋敷内で殺害されることをはばかって、瀬上主膳に嘆願し聞き入れられたという』

「女郎の着物を着た隊長株の人」については、遊女といた瀬上が世良捕縛の報に慌てて自分の着物と遊女のとを着間違えた等の眉唾が諸説あるも、後に瀬上主膳のご子孫がインタビューで「会津の武士は戦いの時に女物の襦袢を着るのが儀礼だった」旨を答えているとの事。(未確認)(分かり次第追記)

 

処刑時
【齋藤淺之助翁談話】『さうして新川端に連れていつて首を斬つたのです』
 斎藤翁自身は見ていない。
 
所持品
【仙臺戊辰史】
元込ミニエール銃一挺
ピストル一挺
短刀一腰
刀(清光銘)一腰
セコンド 一ツ
がま口 一ツ(金五、六十両入)
紺木綿縮単衣 一枚
蒲色風呂敷 一枚
 
 周囲の反応
木戸孝允日記】
慶応四年 閏四月二十一日(暗殺翌日)
『今日却って國論紛々未知所以何事(略)夜古箱を探り久坂高杉等の書を得る今日の事又不偶然也』
明治元年六月十一日(長府政府への書簡)
『九條卿も捕となられ大山格之助木谷修蔵等も盡く死し實に可憐之至に御坐候』
情勢混乱により情報が錯綜しており大山格之助にも死亡の報告が出ていた様子(実際は生きてる)


【長岡雲海公傳附録(巻一)】
明治元年 六月六日
『中山源次右衛門、志方司馬助來る、云ふ、相馬口先づ靜なり、然し仙臺國論二つに成り居、嘆願書は中村に出し候處、不圖肥後陣中に來り大慶のよし、鷲尾右源太と云ふ人之よし、兎角罪を會にをはせ、伏罪せむとの義にて、修理不分明なり、長州参謀瀬良周蔵も、全く會之奸計にて殺害に會ひたるよし、其次第は僞書を作り、仙藩を激怒させたるよしなり』