おべんきょうノート

自分用です。

勝野正満手記(4p〜10p7行)

デジコレ
https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T16/II_230ho_/593/0000?m=all&n=20

4p
予か家は傳る處によれは清和源氏嫡流…頼信の子乙葉三郎頼季の後裔にして仁科氏を稱し信濃國高達の城主たり天正年間小笠原村上等の諸氏と連合全国桔梗か原にて武田信玄と戦と軍利あらすして没落す時に其臣勝野角左衛門なる者あり其二子の幼なる者を携へ己か子として育て時を俟て兵を擧けしむるの意なりしも其期を不得其二子後に兄を五太夫と云ひ弟を六太夫と云ふ
太夫は井伊家に事

我が家系は伝わるところによれば清和源氏嫡流…頼信の子、乙葉三郎頼季の子孫にして仁科氏を称する信濃国高達の城主である。天正年間、小笠原村名高い諸氏と連合を組み、同国の桔梗ヶ原にて武田信玄に敗戦し没落した時、臣下である勝野角左衛門という者が二人の幼子を連れて我が子として育てた。時を経て挙兵を考えたがその機会を逃した。二人の幼子、後に兄を五太夫といい弟を六太夫という。
太夫は井伊家に仕え

清和源氏→源氏の、祖とする天皇別に21の流派の内の1つ。清和天皇から分かれた氏族
嫡流→本家筋

5p
しも六太夫は仕官を好ます旗下の士阿倍四郎の家に寄食す是予か家祖なり後代に其家にて表面は家来と唱るも内は客分にて寄席なと常に阿倍氏と同席し阿倍家の知行中不毛の地を拓き或は植樹にても為したるは皆其有となりたるは收る處三百石あまりに向へり又阿倍氏の家政取締向等總て顧問たりし扨予は天保九年十二月廿六日江戸本所三ツ目通南割下水の角なる阿倍四郎五郎政成の邸に生れ母は葛飾郡請地村なる農某の女阿左子松井氏なり
るも六太夫はまるで仕官を好まぬかのように旗下の士、阿倍四郎の家に居候した。彼は我が祖先である。後世にその家で外面は家来だと言っていたが実際は客としての待遇を受け寄席などでは常に阿倍氏と同席し、阿倍家の知行(土地)の中でやせ細っていた地を開拓し、また樹木を植えて皆良い状態に到ると三百石余りに匹敵する程の価値となった。また阿倍氏の家政取締向等総ての顧問をしていた。さて私は天保九年十二月二十六日に江戸の本所、三ツ目通南割下水の角にある阿倍四郎五郎政成の屋敷に生まれ、母は葛飾郡請地村の某農家の女、阿左子で松井氏族である。

知行→封建時代に武士に支給された土地
本所→今の墨田区

6p
故あり祖父正弘君に子養せらる又年齢を全十己亥と為す其故註を予しらす嘉永元年戌申九月廿九日正弘君没せられ忌日おはるの後神田橋門外に在りし阿倍氏の本邸なる嚴君の方に移る同年(月日を失す)阿倍家より給料貳兩壹人扶持を以て小姓被申付安政元年甲寅正月異舶禁内海に入る時阿倍氏に従て濱殿を守る此年福山藩士諸木雄助氏を烏帽子親となして元服す同年(月日を失す)四兩貳歩二人扶持を以て阿倍家にて近習被申付安政三年丙辰三月予
訳あって祖父、正弘氏の養子となる。年齢は満十歳である事を注釈する。嘉永元年九月二十九日、正弘氏が没せられ命日が終わった後に神田橋門外にある阿倍氏本邸の父君の方へ移る。同年(月日を忘れる)阿倍家より傍で助け支えるよう一人に付き二両の扶持で小姓を申し付けられた。安政元年甲寅一月、外国船禁止内海に入る時、阿倍氏に従って濱殿(地名)を守る。この年、福山藩士 諸木雄助氏を烏帽子親として元服する。同年(月日を忘れる)二人で四両二分の扶持をもって阿倍家にて近侍を申し付けられる。安政三年丙辰三月以前

烏帽子親→儀礼的親子関係の一種。男子が成人に際して立てる仮の親

7p
子病を以て没す安政五年戌午七月十日の夜半嚴君江戸を發して潜に上京せられ予随従す此行嚴君は仁科多一郎と被名乗予は大貫保三郎と変名す道を中仙道にとり駒込の先なる庚申堂に至れは水戸藩士大野謙介氏来り居同行蕨驛に至て密談數剋爰にて大野氏に別れ予は従僕の振り以て荷物を携へ行き先伏水より大坂城代たる土浦矦の臣大久保要氏の家に投し二日を經て嚴君は上京せらる(註此夜薩摩藩日下部伊三次雲雀澤信蔵と名乗て大久保氏に來り卽夜直に上京す)予は猶同家にあり此間

ご子息が病気により死去。安政五年戌午七月十日の夜中、父君は江戸を経ってひっそりと上京され、私も付き従った。この行き道、父君は仁科多一郎と名乗られ私は大貫保三郎と変名する。中仙道を通り駒込の先にある庚申堂に至ると水戸藩士の大野謙介氏が来たので同行し、蕨驛に至りこの場所で密談を数刻してから大野氏と別れ、私は従者の振りをして荷物を携え行き先を伏水から大坂城家臣である土浦候の臣、大久保要氏の家に泊まった。二日後に父君は上京された(注訳、この夜薩摩藩日下部伊三次雲雀澤信蔵と名乗り大久保氏に会いに来た。即夜すぐに上京する)私は同家に居てこの間

 

8p
大久保の三男杢之助等と金剛山に登り又一ノ谷に行く同年(八月十五日か)大久保要氏より呼て云ふ嚴父等の尽力により水戸家に勅諚御下附の事となれり然るに其文意甚た手ぬるし此の如くならんには勅意の貫徹無覺束依ては直に上京嚴父に其旨を傳ふ可しと予旨を奉して上京賴支峰の家に行て嚴君に謁せしも勅書は既に東下の後なり然して嚴父と梅田梁川伊丹座田其他所々を奔走同十九日京を辭して淀川堤より陸路を經て又大久保氏に行く(堤上始て慧星みる長一尺許)
大久保の三男、杢之助達と金剛山に登り、また一ノ谷に行く。同年(八月十五日か)大久保要氏から呼ばれ、「君の父君らの尽力により水戸家に勅諚の下付を賜るようになった。それなのにその内文はとてつもなく手緩く、勅意を貫くには主旨がはっきりせず頼りないので直接上京し父君にそう伝えるべきだ」そう言われ、私は上京した。賴支峰の家に行き父君に謁見するも勅書はすでに東下した後だった。そうして父君と梅田、梁川、伊丹、座田、その他所々を奔走した。十九日、京都を目指して淀川堤より陸路を経て又大久保氏の所へ向かう(堤上から初めてハレー彗星を見る。長さ約一尺)

 

9p
廿日同氏を發し暗り峠より奈良に出て伊賀越を經て四日市に出始て東方虎刺病あるを聞く二川驛より東は驛毎に前後へ茅を以て神棚を作り惡疫を驅除する迚て徹夜太鼓を鳴し神佛の名を唱へて奔走為に宿泊するを不得夜道を馳て他の驛に宿する事往々有之廿六日戸塚驛にて大野氏に出會同道品川驛なる京平方に宿し翌日嚴父は安藤傳蔵氏に予は大野氏と同道同氏之宅に行二宿之後歸宅す是大野氏後事を慮するか故なり爾來嚴父は戒心あり出入毎に必す予を供されたり(此頃慧星長四五間
二十日、大久保氏宅より発ち暗い峠から奈良に出て伊賀越えを経て四日市に出ると東方に「虎刺病」が流行っていると聞いた。二川駅より東側は駅毎に前後へ茅で神棚を作り悪疫を駆除しているとの事で徹夜で太鼓を鳴らし神仏の名を唱えて奔走した為に宿泊出来ず。夜道を走って他の駅に宿泊する事が多々あり、二十六日、戸塚駅にて大野氏に出会い同道し品川駅という都へ無事宿泊し、翌日父君は安藤傳蔵氏に「私は大野氏と同道して彼の家に行き、二日宿泊した後に帰宅する」としたので大野氏は後始末を思い巡らせただろう。以来、父は油断を怠らないようになり出入りの度に必ず私をお供に付ける事にした(この時の彗星の長さは四〜五の間

虎刺病→コレラ

10p
に渉れり)同年九月廿五日水戸藩髙橋柚門行徳驛より嚴父を呼ふ嚴父又予を供して小網町より船にて行徳に行く到れは則柚門一人を止めて云ふ曩に都合ありて舟橋に越したれは直に來れ尤歸路も自ら護衛のあるあり愁る勿れと爰にて予は去り嚴父は舟橋驛に一宿して歸らる于時柚門天涯隻影自相愁云々の詩あり
に渡る)同年九月二十五日、水戸藩 髙橋柚門が行徳(地名)から父君を呼んだ。父君はまた私をお供に小網町から船で行徳へ出行き、そこで柚門を一人止めて言った。「先に約束があるから舟橋を越えられるなら直接来てくれ。もっとも、帰路も自分の護衛を付ければ思い悩む事もない」と。こうして私は去り、父君は舟橋駅に一泊して帰った。この時柚門、天涯隻影自相云々の詩がある。

髙橋柚門→高橋多一郎