齋藤淺之助翁談話
齋藤淺之助翁談話
二本松藩史 コマ119〜122
翁は金澤屋の主人なり、世良参謀殺當時の事情を知悉せるを以て、一日翁を訪ひ、大要左の如き談を得たり
ご老人は金沢屋の主人である。世良参謀が殺された当時の事情を詳しく知るだろうと一日斎藤さんを訪問し、次の様なあらましを聞かせてもらった。
私は早く父に別れ母の手にて成人致しました。あの際は私は二十一歳で、今の人達とは違ひ、頓と時勢や世の中の事は辨へませんでした。母は六十歳で至つて壮健でございました。世良さんの私の家に御泊りになりしは白河に御出發前多分閏四月の上旬で御座いましたらう、十日間ばかり御滞在でした。
私は父とは早くに別れ母の手で成人致しました。あの時は私は二十一歳で、今の人達とは違い、とんと時勢や世の中の事を心得ていませんでした。母は六十歳で至って健康でございました。世良さんが私の家にお泊りになったのは白河にご出発前、多分閏四月の上旬でございましたでしょう、十日間ばかりご滞在でした。
容貌は角顔で、御年の割合には老けて見えました。身長は中丈でしたが、でつぷりと御肥太になり、仲々御酒は御強う御座いました。御支度は御出懸の時は何時も御洋装で韮山笠を召されました。頭髪は惣髪で、髷を打紐にて一束に結ばれたやうで御座います。御靴を召されました。従者の方は一人は勝見善太郎、一人は松野儀助と申し、何れも二十歳前後の青年でした。外に繁蔵といふ馬丁一人。
容貌は角顔で、お年の割には老けて見えました。身長は中丈でしたが、でっぷりと肉付き良いお体であり、なかなかお酒はお強くございました。身支度はお出掛けの時はいつも洋装で韮山笠を召されました。髪は惣髪で、髷を打紐で一束に結ばれたようでございます。お靴を召されました。従者の方は一人は勝見善太郎、もう一人は松野儀助といい、いずれも二十歳前後の青年でした。他に繁蔵という馬丁も一人いました。
御滞在中別段是れぞと申して御話致すやうの材料は私に御座いませんが、何時も私が湯殿で御身體を流してあげる事になつて居りました。時々この近くに飯坂といふ温泉地があるさうだが暇があつたら出懸けて見たい、案内を致せなどゝ申されました。
ご滞在中の事で取分けこれといってお話するような話題はございませんが、いつも私が風呂場でお身体を流して差し上げる事になっておりました。時々「この近くに飯坂という温泉地があるそうだが、暇があったら出掛けてみたい。案内せよ」などと申されました。
或日只今の信夫公園地に御供を致した事が御座います。一宇の寺院と興月庵と申す茶店があるのみで至つて淋しう御座いましたが、世良さんは興月庵に御休みになり、御酒を召し上つて居られましたが、御従士の勝見さんも松野さんも御酒を召し上がられませんでしたから「お前方は退屈であらう、あの山に登つてこの地図を引き合はせたなら、大方會津の方角も分るのであらう、一つ行つて見てはどうだ」と申されましたから、私は「あの山は羽黒山と申して鶏卵を食した者は登らぬことになつて居る靈場です、今日の御辨當に卵焼を用ひました」といふと、世良さんは呵々と御笑ひになり「いや、土地のものはさうであらうが、我等の様な旅の者には一向構はん」と仰せられましたから、勝見さんと松野さんは元込銃を肩にして跳んで往かれました。
ある日、今でいう信夫公園地にお供した事がございます。一棟の寺院と興月庵という茶店があるのみで閑散な風景でございましたが、世良さんは興月庵でお休みになり、お酒を召し上がっておられました。従士の勝見さんや松野さんはお酒を召し上がられませんでしたから「お前達は退屈だろう。あの山に登ってこの地図と照らし合わせれば大体の会津の方角も分かるだろう。ひとつ行ってみてはどうだ」と申されましたから、私は「あの山は羽黒山といって鶏卵を食べた者は登ってはいけない事になっている霊場です。今日のお弁当には玉子焼きを入れていました」と言うと、世良さんはからからとお笑いになり「いや、地元の者はそうだろうが私達のような他郷の者には全く問題にならん」と仰られましたから、勝見さんと松野さんは元込銃(後装式)を肩に担いで駆けて行かれました。
*銃において「元込は翁の記憶違いで先込の可能性がある」説もある
御酒宴中五老内方面(市内北端)に早駕籠が懸け聲勇しく通るを見て、望遠鏡にて御覧になり、仙臺の早駕籠か知らんと仰せられました。間もなく其處に仙臺藩岡崎賢治と申す方が御出でになりまして、會津敵状視察報告やうの御話が御座いました。敵彈の爲めに袴の裾を掠められたなどゝいふ御話で御座いましたが、松野さんと勝見さんは何嘘を吐けというやうな素振が見えました。
酒盛り中、五老内方面に早駕籠が掛け声勇ましく通るのを見て、望遠鏡でご覧になり「仙台の早駕籠かもしれん」と仰せられました。間も無くこちらに仙台藩 岡崎賢治という方が来られまして、会津への敵情視察の報告云々のお話がございました。敵弾によって袴の裾を掠められたなどというお話でございましたが、松野さんと勝見さんはなにを嘘を吐けというような素振りが見えました。
御滞在中醍醐少将が御附士二人外に野村十郎、中村小治郎などゝいふ人を御連れになり、手前共に御投宿御座いました。此の小治郎と申す方は、二十一日の日に、前に御話をした岡崎賢治といふ仙臺藩士が清水町(福島南方一里半)で暗殺致したのです。醍醐少将の御一行は世良様御同道翌日御出發で御座いました。其の折手前共に仰せられて、編笠に赤の括紐の附いた物を調へさせて、御揃ひで御出發で御座いました。ご滞在中、醍醐少将がお付きの者二人の他に野村十郎、中村小治郎などという人をお連れになり、こちらの宿にお泊りになられました。この小治郎と申す方は、二十一日に前にお話をした岡崎賢治という仙台藩士に清水町で暗殺されてしまいます。醍醐少将御一行は世良様と同行されるので翌日ご出発でございました。その時私共に命じ、編笠に赤の括り紐の付いた物を拵えさせてお揃いでご出発されました。
偖世良様の御遭難は閏四月十九日で御座いまして、手前共には駕籠で午後二時頃に御出での様に覺えて居ります。御出でになると直ぐは何時もの御部屋に御戻りになり、料紙と硯とを御取寄せになり、何か御認めで御座いました。勝見さんは入らつしやいましたが、松野さんは御見えになりませんでした。
さて、世良様のご遭難は閏四月十九日でございまして、私共には駕籠で午後二時頃にお出でになったかと覚えております。お出でになった直後いつものお部屋にお戻りになり、紙と硯をお取り寄せになり、何か認めていらっしゃいました。勝見さんはいらっしゃいましたが、松野さんはお見えになりませんでした。
この時福島藩の鈴木六太郎様が御見えでしたが、世良さんは鈴木様に御書付を御渡しなさいました。御自分でなさったのに違ひありません、表を油紙で包み、其の上を衣糸(紺糸)にて厳重に御絡げでした。鈴木様はそれを御受取なさいまして、私共に「何でも御口合ふものを澤山上げるが宜しい」と御注意になつて御歸りでした。何でも五時近くと思はれます。
この時福島藩の鈴木六太郎様がお見えでしたが、世良さんは鈴木様にお手紙をお渡しなさいました。ご自分でなさったのに違いありません。表を油紙で包み、その上を紺の衣糸で厳重に巻いてありました。鈴木様はそれをお受け取りなさいまして、私共に「何でもお口に合うものをたくさん用意するように」とご忠告になってお帰りでした。確か五時近くと思われます。
手前共では御注意に依つて、兼ねて蓮の甘煮を御嗜の事を存じて居りますから鯉の洗と共に差上げました。御夕食前御入浴で御座いまして、何時もの如く私が御流し申し上げ「今回は飯坂に御出懸けは如何で御座います」と伺つたら、「飯坂には行かれなくなつたよ」と仰せになりました。私は普通の御挨拶と思つて氣にも留めませんでしたが、今思へば御胸中の程も御察し申し、實に感慨に堪へません。
こちらはご忠告をいただいたので、以前より蓮の(実の)甘煮が好物だと知っておりましたから鯉の洗いと共にご用意しました。ご夕食前にご入浴でございまして、いつものように私がお流しして「今回は飯坂にお出掛けはいかがでございますか」とお伺いすると、「飯坂には行けなくなったよ」と仰られました。私はいつものお返事と思って気にも留めませんでしたが、今思えばご胸中をお察しして実に感慨に堪えません。
世良さんが御宿泊中は何時でも人の出入が多く、五十人七十人の賄を俄に仰せられる事が珍しくもありませんでしたから、夜でも戸締りも致さず、此の夜も別に怪しいとも何とも思はず、手前共は寝臥して仕舞つたのですが、何でも夜の二時頃で御座いましたらう、あの騒ぎが始まつたのです。
世良さんがご宿泊中はいつでも人の出入りが多く、五十人、七十人の肴を突然仰せられる事が珍しくありませんでしたから、夜でも戸締りはせず、この夜も別に怪しいとも何とも思わず、私共は就寝してしまったのですが、確か夜の二時頃でございましたでしょう、あの騒ぎが始まったのです。
淺草屋宇一郎の子分二人、何といつたか今は忘れて仕舞ましたが、これが手引きをしたといふ事で御座います。二人とも其の後酷い死方をした筈です。仙臺藩と福島藩の人がどやどやと御寝所に亂入して、世良さんと勝見さんとは到頭縛られて仕舞ました。私共は勝手の一間に内部より錠を下して、恐しさの餘りに息を殺して居つたのですから、其の時の模様は少しも分かりません。
浅草宇一郎の子分が二人、何と言ったか今は忘れてしまいましたが、彼らが手引きをしたという事でございます。二人共、その後酷い死に方をしたはずです。仙台藩と福島藩の人がどやどやとお寝所に乱入して、世良さんと勝見さんとはとうとう縛られてしまいました。私共は勝手間の内部から錠を下して、恐ろしさのあまりに息を殺していたのですからその時の様子は少しも分かりません。
一同は各自軒に引上げて、世良さんや勝見さんを訊問したさうです。何でも隊長株の人が世良さんを庭先に据ゑて訊問したのだといふ事です。これは無論確實ではありませんが、其の人は女郎の着物を着て居つたといふことです。
一同は客自軒に引き上げて、世良さんや勝見さんを訊問したそうです。何でも隊長株の人が世良さんを庭先に据えて訊問したのだという事です。これは無論確実ではありませんが、その人は女郎の着物を着ていたという事です。
後年、藤原相之助は「瀬上のご子孫は戦場に臨む時、女物の下着を着用する代々の風習」と論証している
世良さんは筆紙をというて御求めになつたさうですが、馬鹿を言ふなというて興へなかつたさうです。罪人扱ひに致したのです。さうして新川端に連れていつて首を斬つたのです。首は白石に送り、死骸は土手に埋めたのですが、洪水の爲めに土手が壊れて、死骸は流されて仕舞つて、今の稲荷境内の御墓には何も埋つてはありません。
世良さんは筆と紙をと言ってお求めになったそうですが、馬鹿を言うなと言って応じなかったそうです。罪人扱いにしたのです。そうして新川端に連れて行って首を斬ったのです。首は白石に送り、死体は土手に埋めたのですが、洪水の為に土手が壊れて、死体は流されてしまって、今の稲荷境内のお墓には何も埋まってはありません。
私共が御氣の毒で堪りませんでしたのは松野さんの事です。松野さんは翌日(二十日)晝前に何處からか御歸りになりました。御駕籠でしたが、爐邊にお座りになつて、世良殿は何時もの御座敷かとのお尋ねでした。私は何とお答へして好いか口籠つて居りました。此の時は仙臺藩や福島藩の人が十四五人居つたのです。私は松野さんが駕籠から下りて這入つていらつしやるのを見て悸然したのでした。
私共がお気の毒で堪らなかったのは松野さんの事です。松野さんは翌日昼前に何処からかお帰りになりました。お駕籠でしたが、炉端にお座りになって、世良殿はいつものお座敷かとのお尋ねでした。私は何とお答えしていいのか分からず口ごもっておりました。この時は仙台藩や福島藩の人が十四、五人おったのです。私は松野さんが駕籠から下りて入っていらっしゃるのを見てぎょっとしたのでした。
すると仙臺の侠客で今助といふ大兵な男が立ち上りざまに松野さんの大小を足もて蹴飛ばし、後から羽交じめに致しまして、それから大勢で縛りました。松野さんは人違をするな、人違ひでないかと大聲で叫びますのをずんずんと引立てゝ参りました。
すると仙台の侠客で今助という大柄な男が立ち上がりざまに松野さんの大小(刀)を足でもって蹴飛ばし、後ろから羽交い締めにしまして、大勢掛りで捕縛しました。松野さんは「人違いをするな!人違いじゃないか!」と大声で叫ぶのをずんずんと引き立てて行きました。
世良さんを殺した河原に連れて行く筈なさうでしたが、松野さんが仙臺の某隊長の名を呼んで暴れ立てましたので、つひつひ隣家の照内さんの裏口で殺れて仕舞ました。何でも金箱であつたでせう、松野さんは一尺二三寸の桐製の小箱を持つて歸られたのでしたが、今助は分捕だと言つてその小箱を兩手で持ち、雀踊りして喜んで居りました。私は實に忌々しくて堪りませんでした。
世良さんを殺した河原に連れて行くような様子でしたが、松野さんが仙台の某隊長の名前を呼んで暴れましたので、ついに隣家の照内さんの裏口で殺されてしまいました。確か金箱であったでしょうか、松野さんは一尺ニ、三寸の桐製の小箱を持って帰られたのですが、今助は「分捕りだ」と言ってその小箱を両手で持ち、大変喜んでおりました。私は実に忌々しくて堪りませんでした。
かように何も知らんで世良さんが手前共にあらつしやるものとのみ思つて御出でになる方を暗し討ちにするのですもの、是れには母も大に歎いて軍事局に歎願致しまして、手前共には何誰も御出でにならぬ様に御取計を乞ひました、馬丁の繁蔵も手前共に来ようとしたのを、主人は軍事局に御出でになると詐つて、長樂寺に往かせ、同寺の爐邊で、不意に後から斬り付けて殺したさうです。
このように何も知らないで世良さんが金沢屋にいらっしゃると思ってお出でになる方を騙し討ちにするのですから、母は大変嘆いて軍事局に嘆願しまして、こちらには誰もお出でにならないようにとお取り計らいを頼みました。馬丁の繁蔵もこちらに来ようとしたのを、主人(世良)は軍事局にお出でになると偽って長樂寺に向かわせ、同寺の炉端で後ろから不意打ちして殺したそうです。
手前共では是非世良さん主従の菩薩を御弔ひ申したかつたが、何分、世間を憚りまして公然に致されませんでした。幸ひ桑折の無能寺(福島より北三里)は俗録も御座いましたから、永代回向料を納めまして内々御追善を致しました。三七日の法養も済んだ後でしたが、仙臺軍事局の人が御出でになりまして、それは奇特の事だと誉められました。一時は何うなる事かと心配致しました。
私共では是非世良さんと従者達の菩薩をお弔いしたかったのですが、何分世間の風評を気にしまして公然には出来ませんでした。幸い桑折の無能寺は俗録もございましたから、永代回向料を納めまして内々にご追善をしました。三七日忌法要も済んだ後でしたが、仙台軍事局の人がお出でになりまして、それは感心な事だと褒められました。一時はどうなる事かと心配しました。
其の年の十一月の事でした、備前岡山藩の参謀が同町新布袋屋に御泊りで御座いまして、長州藩の方も澤山見えました。私共へ町役人同道早速出頭せよとの事で御座いましたから、私共では大に驚き、豫て官軍が凱旋すると金澤屋は関所になると言ふ噂も御座いましたので、母はお前何事かあつては家の大事であるから、自分が引受けると申して、母が出頭致しました。
その年の十一月の事でした。備前岡山藩の参謀が同町の新布袋屋にお泊りでございまして、長州藩の方もたくさん見えました。私共へ町役人が「同道し早速出頭しろ」との事でございましたから、私共は大変驚き、官軍が凱旋すると金沢屋は関所になるという噂もございましたので、母は「お前に何かあったら家の大事だから私が引き受ける」と言って出頭しました。
所が案外にも非常の御取扱で御座いまして、よく取計つて呉れた、ようこそ供養をして呉れた、今日の正客はお前であると隊長方が申されて、母を床の間の前に座らせ、大變な御待遇でした。其の時長州藩の内田庄之助と云ふ方が(世良さんと義兄弟の契を結んだと云ふ方です)これを書いて下すつたのです。
ところが意外に予想外な事でして、「よく取り計らってくれた、よくぞ供養をしてくれた、今日の主賓は貴女である」と隊長方が申されて、母を床の間の前に座らせ、大変なご待遇でした。その時長州藩の内田庄之助という方が(世良さんと義兄弟の契を結んだという方です)これを書いてくださったのです。
福島驛金澤屋の老母の志を感じて即興
この杖を頼み力や雪の旅 其白
(訳略す)
薩摩藩大山格之助様が庄内から御引上げの際手前共に御一泊下さいまして、御懇の御言葉が御座いました、そして翌年四月五日に此の御手紙を下さいました。
薩摩藩 大山格之助様が庄内からお引き上げの際、こちらへご一泊くださいまして、ご親身なお言葉がございました。そして翌年四月五日にこのお手紙をくださいました。
任幸便一筆申入候
先以家内各御中無御恙過し被成御座珍壽之至不過之候
扨昨冬は段々配意に預り忝存入候
偖官香一把差送候間世良氏之幽魂に御備可被給候
何卒何卒行先き大事に御取扱希入候尚委細使より可申入先は右御依頼之爲に匆々如是候也
四月五日
薩摩国 大山格之助
一筆失礼致します。先ず以ってご家族様各位、無事平穏にお過ごしでおられ喜びの至りでございます。さて昨冬は数々のご配意に預かり、恐れ入ります。線香を一束送りますので世良氏の墓にお供えください。どうかどうか、目的地まで手厚く取り扱っていただきたく思います。尚、詳細は使いの者よりお伝えしますのでまずは早々に先程の用件の事、お願い致します。
四月五日
薩摩国 大山格之助