おべんきょうノート

自分用です。

勝野正満手記(10p8行〜21p9行)

デジコレ
https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T16/II_230ho_/593/0000?m=all&n=20

10p
同月廿七日夕閣老松平和泉守差園の旨を以て北町奉行石谷因幡守組与力秋山久蔵三好助右衛門同心四五名を率ひ嚴父に御用あれは同道

同月二十七日夕方、老中 松平和泉守の趣意により北町奉行 石谷因幡守が構成している組の与力 秋山久蔵、三好助右衛門と与力配下の役人四、五名を率いて「父に御用があり同行し

石谷穆清因幡守(いしがやあつきよ)→安政の大獄を断行した人物。因幡守は官位でいなばのかみと読む

与力→町奉行支配下の下級武士

11p

町奉行の役宅迄可來由を述ぶ時に嚴父は在宅なるも當時の勢幕吏の暴威甚しけれは阿兄等强て倉庫の内に潜ましめ不在を以て答ふ捕吏等俟つ事少頃云ふ嚴父か友人間と往復の書類をあらん悉皆差出す可しと阿兄旨を奉し二階に登りて予に云ふ事爰に至る須らく連累の他に及はんを懼ると予をして悉皆匡底書類を出さしめ阿兄かた端より其國事に關する物を除きて捕吏の前にいたす故に其書類は大約風流上の往復而巳にして纔に吉田藩の小野湖山姫
町奉行の役宅まで来い」と言った。理由を述べる時父は在宅だったが当時の幕府の役人は非常に荒々しく乱暴な態度であったので、兄は強制的に倉庫の中へ潜ませ「不在だ」と答えた。捕吏らは暫く待った後、「父と友人間との往復書簡を残らず全て差し出せ」と言った。兄は主旨を理解すると二階に上がって私に「この事がわかるときっと他の者もとばっちりを受けてしまう、それは防がなければ」と言い、箱の底に至るまで全ての書簡を出させ兄が片っ端から国事に関する物を除いて役人の前に出した。だから書簡は大体が風流上の往復書簡であり、吉田藩の小野湖山と

役宅→その役の為に用意された住居
風流→詩歌、書画、茶など趣のあるものの事

12p
路藩の菅野狷介よりの書簡との二通をおさめらる其夜半過る頃阿兄嚴父を倉庫より出し阿倍邸の裏手の堀より道を隣邸にかつて脱せしめんとせられしも各手配あるの模様なれは却て表の方こそ意外に緩ならんと予をして先つ出て挑燈を以て異情の有無を報せしむ予旨を受け行く幸に異常なく夜又闇黒なるに乗し樓上の窓より脱せられ予は途中行違て歸れり是は一世の御別れなりし阿兄は平素酒を嗜まさるも此時飯茶碗に酒を呑み胃を撫て居られ
姫路藩の菅野狷介からの僅か二通を納めた。深夜を過ぎた頃、兄は父を倉庫から出し阿倍邸の裏手の堀から道を隣邸に繋げて脱出させようとするも、手配されている様子ならかえって表からの方が意外と監視も緩いだろうと私を先に出して提灯を持って異常の有無を報告させた。行先を調べると幸運な事に監視も無く夜の闇が深くなるに乗じて邸の窓から脱出され、私は途中で別れて帰った。これが一生の別れとなった。兄はいつもは酒を嗜む程度なのにこの時は茶碗で酒を飲み、胃を撫でておられ

深夜過ぎ→0時〜2時頃

13p
たり夫より少頃捕吏等云ふ不在といひ又今に歸り不來怪しむへしと室内及ひ倉庫中迄漏なく捜索あり翌曉に至り嚴父の歸り遅きを以て為名代阿兄の出頭ありしも本人ならては用辨相成らさる趣にて歸宅あり
同年同月廿九日阿兄石谷邸へ被呼一と通尋問の末小傳馬町なる牢屋敷御揚屋へ入獄す翌日阿倍氏使を發して親戚等を呼ふ來る者數名然して親戚中終始事を荷ふ者清水謙介氏(後に丸島弦)一人のみ又阿兄の入獄に付獄裏の模様及差

た。それからしばらく経った頃、捕吏らに「不在と言い、未だに帰らないのは怪しい」と室内から倉庫内まで漏れなく捜索があった。薄らと夜が明けて父の帰りが遅い事で代理として兄の出頭があったが、本人でないと用が済まない様子だったので帰宅した。
同年同月二十九日、兄は石谷邸に呼ばれ一通りの尋問の末に小伝馬町牢座敷の揚屋に入獄する。翌日、阿倍氏は遣いを出して親戚などを呼んだ。来た者は数名で、その中で終始事を進めてくれた者は清水謙介氏(後に丸島弦という)一人のみだった。また兄の入獄に付き、獄内の様子や

 

14p
物等の都合一切知るよし無けれは人を以て髙島秋帆に問ふ秋帆は曩に疑獄に係り長々牢舎せり秋帆か令圄を脱して當時幕府に採用せらるゝ迄の周旋は嚴父の力尤多き不拘秋帆の其實を示さゝる可憎
同年十月六日正滿石谷邸に被呼嚴父と同行上京したるやの尋問あり阿兄の入獄前豫め話あり嚴父と同行せし事は彼是差支あれは其間水戸に遊ふと云ふを以て答へよと予云ふ決して同行せす其間水戸に遊へりと其答の曖昧なりと云ふを以て東奥揚屋に入獄す先奉行所にて繩にか

指物の都合など一切知る術もないので髙島秋帆に質問した。秋帆は以前嫌疑による入獄をし長い間牢屋に居た。秋帆が獄から出て、当時の幕府に採用されるようになる迄の口利きは父の力が最も多かったにも拘らず、秋帆が腹の内を示さなかったのは憎々しい。

同年十月六日、私は石谷邸に呼ばれ、父に連れ添って上京したかとの尋問があった。兄の入獄前に「父と連れ添った事は色々と差し支えるのでその間水戸に遊学したと答えるといい」と予め話があった。私は「決して連れ添ってなどいません、その間水戸へ遊学しておりました」と言ったがその答えが曖昧であると言われ、東奥の揚屋に入獄する事となる。先に奉行所で縄を掛け

指物→家具、器具。机や箪笥など

15p
け控所に引て麁膳を備は髙盛の飯を喰はしめ夫より駕古にのせて送られ牢屋敷に至れはえん魔堂と唱ふる所にて駕古より下ろされ此所にて鑓役と唱る(鑓役は牢屋同心中四五名を抜擢したる者)者より其吟味筋の大略を問はれ夫より獄の外さやと唱る締りの内に入敷臺の上にて繩をとき一枚毎に衣服を改め禁制物を所持する否を檢せし上鑓役より東奥揚屋揚屋入がある吟味筋は何になりと告く牢名主おありがたふと答ふ夫より戸外を明けて入らしむ内固より闇黒二人左右
控所に引かれ粗食を揃えて高く盛った飯を食わされ駕籠へ乗せて送られ牢屋敷に到着すると閻魔堂と呼ばれる場所で駕籠から下ろされた。ここで鍵役と呼ばれる(鍵役は牢屋内下級役人から四、五名選ばれた者)者から吟味筋を問われ、それより獄の外鞘と呼ぶ囲いの中に敷き入れた台上で縄を解き、一枚毎に衣服を改め禁止された物の検査する権利を持つ上、鍵役から「東奥揚屋揚屋入りだ、吟味筋は何々である」と告げられ、牢名主は「お有難うございます」と答える。屋外の戸を開けて入れられ中から鍵を掛けられる。暗闇より二人が左右

吟味筋→江戸時代の訴訟手続きのひとつ
牢名主→牢内の雑役の取り仕切りや秩序維持を命ぜられた囚人

16p
より來り雙手を採りて板間へうつぶせに為し衣をはぎて裸體となす牢名主きめ板と唱る物を持來り先そびらを打つ事一つ回こゝは地獄の一丁目日本三奉行入込の東奥揚屋と云ふ所なり命のつるを何程持てりやと但つるとは金の事なり予云ふ金は少し許持参せしも表にて役人にとられたりと名主又云ふ跡より申やらは若干の金の出來可得道ありやと予云ふ員數は不分も多少出來得へしと爰に於て名主辭をやはらげ板にて十分打すへるが規則なるも大
から来て両手を掴み板間へうつ伏せにさせ衣服を剥いで裸体にさせた。牢名主はキメ板と呼ぶ物を持って来てまず背中を打つ事一回。ここは地獄の一丁目、日本三奉行の中にも含まれる東奥揚屋という場所である。命のつるをどれ程持っている?と言われた。但しつるとは金の事である。私は「金は少し許され持参したが、表で役人に取られてしまった」と言った。牢名主は「後から言えば少しの金の工面は出来るのか」と。私は「人数分には足りないが多少は工面出来るだろう」と言った。すると牢名主は言葉を和らげ「板で充分に打ち付けるのが規則なんだが

 

17p
まけにまけ置くへしと又著衣をもゆるせり予られしは所謂地獄て佛のおもひなりし初更後寝に付疊に疊へ五人一所に五蒲團一枚なり翌日獄はすべて所用も無きに朝きはめて早くいつも雀の鳴に先達て起出流し元に至れは盟漱する水を呉る者あり上み座の者へは小さき杓に三杯下も座の者へは二杯なり始て入たる者其二三日は水を始食物なと總て臭氣鼻をまけり獄は三間四方にして如圖時々人の更迭あ
大まけにまけておいてやる」とまた着衣の許しを授かった私は、所謂地獄で仏に会ったような思いとなった。初更後、就寝時は一畳に五人、布団は一枚である。翌日、獄は特に用事もないのに朝は極めて早く、いつも雀の鳴く前に起床する。流し台に向かうと盥漱する水をくれる者がいる。上座の者には小さい杓に三杯、下座の者へは二杯、初めて入った者は、二、三日は水を始め食物など全て悪臭がし鼻を曲げる。獄は一辺三間の正方形のような形で時々人の更迭が

初更→午後7、8時から2時間の事
盥漱→手を洗い口をすすぐ事

18p
るも予か入たる時は十八人なりし
表裏吹抜にて下四尺ははめ其上四寸角の格子にて一と間の間貳寸五分位然して火後の假牢は一方口前にて間口貳間奥行五間を生ま木にて作りたれは左右のはめ板下三尺許は嚴敷しめり居殊に炎暑の候朝夕湯を持込たる蒸氣は尤耐かたかりし獄中役々あり名主は戸前疊と唱へ疊を三拾疊許も積重ねたる上に起居し獄中内部の事を總括す次に添役おかしらとも云ふ然して名主添役は牢屋頭則石出帯刀迄名前を届けあるものなり次に角役穴隠居二番役是迄を上座と唱へ平素蒲團の上に座し四つ椀にて飯を喰ひ牢法を犯せる人あるきは名主よりきめ板を借受其罪を問ひて打ち叩くの權て有す又三番役四番

あるが私が入獄した時は十八人だった。
表も裏も吹き抜けで下の四尺は羽目、その上四寸は角張った格子で一間の間二寸五分程さしてある。仮牢は一方の口を前にして、口は二間奥行きは五間を生木で作っており左右の羽目板の下三尺は隙間なく敷き詰めている為、居内は特別酷暑である。朝夕に湯を持ち込んだ際の蒸気は最も堪え難い。獄内には割り当てられた役が多々あり、名主は戸前畳と呼び畳は三十畳許され幾重に積まれた上で生活し、獄中内部の事を総括する。次に添え役、おかしらともいう。そうして名主、添え役は牢屋頭に従い、石出帯刀まで名前を届けているものだ。次に角役、穴の隠居の二番役までを上座と呼び、いつも布団の上に座し、四つ椀で食事をし牢法を犯す人がいれば名主からキメ板を借り受け、その罪を問うて打ち叩く権利を持つ。また、三番役、四番役

羽目→壁などの上に板を並べて張ったもの

19p
役五番役本番本助番是を中座と唱え蒲團は用ひさるも三つ椀にて喫飯す又大隠居角隠居上座隠居樂座隠居本座隠居假座隠居是も上座にて蒲團に座し四つ椀にて喫飯するも權力なき者にて人の打手叩かるゝをわびてやるが勤めなり中座三つ椀の内にも何隠居とかりしも忘れたり下座におきやく向ふもすそう飯つ喰ひ朝夕雪隠の掃除を為し又上座の手足をもみ汚れ物を洗ふ毎朝早く起き戸前の開かざる内に結髪を為し戸前開けは子ばと唱へ米の烹汁を持來る是は洗濯の為なり夫より煎湯を持來り又少頃にして飯と味噌汁持來る然して中座以下の者は食事方役人の見張居る内に食するなれは御手當有難しと頭を下る其手

番役、本番、本助番、これらを中座と呼び、布団は用意されるも三つ椀で食事をする。また、大隠居、角の隠居、上座の隠居、楽座の隠居、本座の隠居、假座の隠居、これらも上座で布団に座し四つ椀で食事をするも権力の無い者なので人が打ち手で叩かれるのを詫びてやるのが勤めである。中座、三つ椀の内にも何の隠居かがいたが忘れてしまった。下座に据えると対面して食事をし、朝夕便所の掃除をし、また上座の手足を揉んで汚れ物を洗う。毎朝早く起き戸前が開かない内に髪を結い、戸前が開くと小鳩が鳴き、米の煮汁を持ってくる。これは洗濯の為だ。男が沸かした湯を持って来る。また暫くしてご飯と味噌汁を持って来る。そうして中座以下の者は食事を役人の見張りが居る内に食べるのが習慣で、手を合わせて有難しと頭を下げる。その手

 

20p
を以て直ちに汁を飯にかけて鵜呑になし香の物なとは取置て跡て喰ふ其手際おつき者は半はにて取上けらるゝなり此飯を地獄飯と唱へ極々麁米を烹立たる湯の中へ入れてむらし置きたるものなり又日々飯(常の飯を沙場飯と唱ふ)菜菓子を買うも孰れも南鐐一片とて天保三枚位の品を持來り余は當番の同心と使の者か貪ほるなり名主は大低此沙場飯のみを喰ひ其他は等級に應して或は一椀或は半椀なり又奉行所に呼出さるゝとき士分の者は士分の者は駕古平人は
で直ぐさま味噌汁をご飯に掛けて鵜呑みにし、香の物等は取り置いて後から食べる。その手際が悪い者は途中で取り上げられてしまう。この食事を地獄飯と呼び、極々少量の米を沸き立つ湯の中へ入れて蒸らし置いたものである。また日々の食事(日常飯を沙場飯と呼ぶ)、おかず、菓子を買うといずれも南鐐一片から天保三枚程度の品を持って来て、余りは当番の仲間と遣いの者が貪り食う。名主は大抵この沙場飯だけを食べ、その他は等級に応じて、或いは一椀、或いは半椀である。また奉行所に呼び出される時、士分の者は駕籠、平民は

南鐐→江戸時代に流通した銀貨の一種

天保天保三年〜九年の間に造った金銀貨

21p
歩行なり其駕古に乗者も獄中にておきゃく向通りの如き壹錢を持たさる者は途中傳馬人足等か殊更目の廻る迄駕古をゆすり又奉行所の假牢に在る中も別て何等の世話をも為さゝるも上み座の役人となれは呼出毎に壹錢つゝの小遣錢を名主より貰ひ行く然るときは傳馬人足と警固の同心とに多分の利益あれは同心等か度々來りて腰繩を緩め或は茶烟艸なとし為呑住返駕古のかき方迄が異るなり
歩行である。その駕籠に乗る者も獄中で客分扱いでも一銭を持っていない者は道中で伝馬夫に目が回るまで駕籠を揺すられ、また奉行所の仮牢にある中でも区別し何等の世話をしていようが上座の役人となれば呼び出し毎に一銭ずつの小遣いを名主から貰って行く。ある時は伝馬夫と警護役とにたくさんの利益を与えれば下級役人が度々来て腰縄を緩め、或いは茶、喫煙等をしながらの行き来、駕籠内の過ごし方までが違う。