おべんきょうノート

自分用です。

安政5年8月19日 松陰→栄太郎、松洞

安政5年8月19日

吉田松陰全集6 コマ72、73

大半は品川弥二郎が代筆をしたもの。【】は全集に未記載。山口県立山口博物館研究報告より抜粋


本日十五日直八帰ル、今十八日朝松介・仙吉帰ル
口羽気分宜シ、過日寺社奉行トナル由、先是良蔵為御祐筆、桂為大撿使、赤川直二郎ハ官中ノ舎長トナル、皆々縄ニテ縛りたる也

本日十五日(時山)直八帰る。今は十八日、朝に(杉山)松介・(国司)仙吉が帰る。

口羽(徳祐)の体調は良い。先日寺社奉行となったらしく、先に(来原)良蔵が右筆となり、桂(小五郎)は大検使となり、赤川直二郎は明倫館舎長となった。皆々、身動きが取りづらくなった。

 

尾張、水戸へ内勅降り候由、難有御文体此議ハ徳川一家之事二非ザレバ、三家々門衆議之上外大諸侯へも議が廻り可申ハ必然なり、其期二至り観望持重有之而は済ヌコトト考へ、此事追々論スル積也
尾張、水戸へ内勅が降りたそうだ。有難き御文体で「この相談は徳川一家の事ではなく、三家門が衆議の上他諸侯へも相談を回すべき」と申したに決まっている。私はその時になると時勢を窺い慎重になってしまうのは救われない事と考えるから、この事は追々意見するつもりである。

 

【玄瑞身上之事、此地下も直二郎・瑞益其外往々議論アリ、当分在京被差免カ諸国修行被差免カノ二ツ二致度候、併未タ政府之論不承候
貴邸俗論沸騰之由、直八より承候、加之工藤上洛如塗塗附何卒一策二テ御除被成度候】

(久坂)玄瑞の身の上の事はこちらでも直二郎・(松島)瑞益らがしばしば議論している。当分在京させるか諸国修行に行かせるかの二案にしたく思っている。しかしまだ藩の意見は承っていない。藩邸では俗論が勢いを増していると直八から聞き、その上、工藤の上洛まで加わると更に勢い付いてしまうからどうにか一策を講じて防ぎたく思う。

 

今日ハ流儀ノ操習ニて大井浜え皆々出張、銃陣短兵隊等有之也、此起りハ堅田家来河内紀令大二奮発、二十六人程壮士ヲ知行所より召出し練兵ヲ頼ミ、当月朔日より於松下塾日操致候より之事也、
今日は山鹿流の操習で皆大井浜へ出て、銃陣、短兵、隊列等の練習をした。発端は堅田家来 河内紀令が発起人となり、二十六人程の青年を知行所から召し出して練兵を頼み、当月朔日から松下村塾で訓練をしてもらっている。

 

亦一盛事飯田正伯も旌役トナル亦一奇二非スヤ長崎へハ山田七兵衛其外十人程行、軍艦製造ヲ目的トシテ之役配夫々有之、是ハ最早委細御存と相考、委敷不申上候
また、立派な事に飯田正伯も旗役となる。良い知らせはひとつではなく、長崎へは山田七兵衛、他十人程行き、軍艦製造を目的としての役職がそれぞれに充てがわれた。これはもう詳細を知っているだろうから、詳しくは言わぬ。

 

小国剛蔵此内帰着九州談肥後大俗論中一種之可頼ものアリ、是ハ秘説宮部より中谷へ之書直八より贈ル筈也、不知書中所言、肥前随分奮励銃陣盛、是ハ甲冑両刀ニて西洋陣ヲ用ユ、筑前ハ不甚振、然レトモ銃陣ハ専ら西洋通り二行ハル軽卒巳下ナリ、
こうしている間に小国剛蔵が帰着し、九州の内情を語った。肥後は大いに俗論真っ只中だがある意味頼もしい所がある。これは一般に知らせてはいない話だが、宮部(鼎蔵)より中谷へ、この事を書いた書簡を直八から渡す手筈である。書の内容は知らぬ。肥前は随分と奮励しており銃陣も勢いが良く、甲冑両刀を用いて西洋の陣形を模している。筑前は甚だ振るわず。しかしながら銃陣はもっぱら軽卒以下の者が西洋を真似ている。

 

筑後ニハ銃陣不用長崎蒸氣機甚盛之事共致候誇張候、要之今日之形勢議論二至テハスヘテ甚迂ナリ、宮部上京促候へ共、今冬来春まてハ閉居ノ積二申候由残念々々、
筑後柳川藩)は銃陣は用いず、長崎は蒸気機が盛んに行われているとの事だが実際はそれ程でもない。要するに今日の議論の成り行きに至っては全てが口ばかりで実行無し。宮部に上京を促したが、今冬、来春までは閉居するつもりだと言われ、残念でならない。

 

生田良佑書来候、沈実如見其人妙々、楢崎未来候、安富ハ出萩未得一面候、陳々可嘆惜之至福原氏ノ物故外ニハ薩候ヲ失ヒ内ニハ此大夫ヲ失、勤王之大缺失二可相成、気の毒千万、後嗣之処、佐世氏能其任二当り候ハゝ妙ナリ果如何
八月十九日            寅拝

生田良佑の書簡が届いた。その文章を見るに見識が深く彼はとても優れた人物である。楢崎はまだ来ず、安富(惣輔)は萩を出てからまだ一度も会えていない。惜しむべきは福原氏が亡くなった事だ。外では薩摩藩主(島津斉彬)を失い、内ではこの家老を失い、勤王派にとっては大損害であり気の毒千万だ。後継ぎは佐世君に任せると良いと思うがいかがだろう。
八月十九日          寅拝