おべんきょうノート

自分用です。

安政3年5月下旬 久坂→松陰

松陰への初めての手紙

 

久坂玄瑞、再拝し謹んで二十一回孟士義卿吉田君の座前に白す。 今茲春、鎮西に遊び、肥後に入りて宮部生を訪れ、談吾兄の事に及ぶ。
久坂玄瑞より、再拝謹んで二十一回猛士義卿吉田君の座前に申し上げます。今春、私は九州の鎮西に遊学し、肥後の国に入って宮部鼎蔵氏を訪ねた際、話題が貴兄の事に及びました。

 

生、吾兄を賞讃すること娓々としてやまず。誠の欽慕せること一日に非ず、且つその言を聞きて、欽慕益々堪ふべからざるなり。 乃ち将に短簡を修し以てその鄙衷を陳べんとす。 

彼は貴兄を何度も賞賛し続け、終わりが見えぬほどでした。元より私は貴方を敬慕する事一日ではありませんが、更にその言葉を聞いて益々深く敬慕致しました。そこでちょうど良い機会ですので、この書簡にて私の思いを申し述べようと思いました。

 

而して誠は吾兄を識らず、吾兄も固より誠を識らざるなり。 半面の識なくして乃ち短簡を修せんと欲す、自らその鶻突を免れざるを知る。 
然れども、誠その面を識らずと雖も、しかし吾兄の慷慨気節にして天下の豪傑の士たることを識る。 

私は貴兄の事を知らず、貴兄も当然私の事をご存知ないでしょう。少しの面識もないのにこのような書簡をお渡しするのは、私もはやぶさが突き進むかの如く)突然であると感じずにはいられません。

しかし、私は貴方のお顔を知らなくとも、悲憤慷慨の気持ちを持つ貴方が天下の豪傑の士である事を理解しています。

 

之を識らずとは謂ふべからず。 而して吾兄獨り誠を識らざることしかり。 

ですので、知らないと言うべきでは無いのかもしれません。ただ貴兄一人が私の事をご存知でないだけなのです。

 

誠や鈍駑閽昧、謂ふに足るものなし。 而れども、皇國の土に居り、皇國の粟を食む、即ち皇國の民なり。 
私は鈍で愚者で言うに足らない者ですが、皇国の地に居り皇国の粟を食す、すなわち皇国の民です。

 

それ方今、皇國の勢如何や。綱紀日に弛み、士風日に頽れ、而して洋夷日に跳梁し、屢々互市を乞ふ、その意、必ず我が釁を窺ひてその欲するところを伸すに在るなり。 
そして今、皇国の情勢はいかがでしょうか。国治は日々弛み、武士の風紀は日々廃れ、そして諸外国は日々我が物顔でのさばり、度々貿易を望む。その真意は必ず我が国の隙を窺い、奴等の要求を貫こうとしているのであります。


而して廟議は、暫く互市を許すを以てし、すの隙に兵備を巌にするに若かずとなす。 殊に知らず、互市を許さば即ち天下の人益々その無事に狎れて益々般楽怠傲し、兵備ついに巌なるべからざることを。 
しかし幕府は暫く貿易を許そうとし、その間も兵備を固める策を講じていない。とりわけ、貿易を許すのは天下の人々が益々その無事に慣れ益々楽になり怠惰し遊び傲り、ついには兵備を固める事を忘れるかもしれません。

 

昔、弘安の役に、元使屢々我れに至る。 その書辭禮ならざるを以て、遂にその使を斬れり。 
昔、弘安の役の時に元の使者が度々訪れました。我が国は使者の書辞が非礼である事を理由に、その使者を斬りました。

弘安の役は弘安4年(1281年)に元軍と日本軍とで起こった戦い。天候の利で日本軍が勝利した。

 

元師十萬來寇するや、精兵を以て之に當たり、彼れ一敗蕩然として生歸する者僅に三人。元また我が邊を窺はず。 
これを起源に元軍が十万の兵で侵入してくると、我が国は精兵をもってこれに当たり、元軍を敗り、生還者は僅かに三人。そして元は再び我が国を攻めては来ませんでした。

 

あゝ我れに男子國の稱ある、うべならずや。もし方今をして弘安の如からしむれば、彼れ互市を請はゞ我れこたへて日はん、國法の禁ずるありと。 彼之を強ひば即ち宜しくその使を斬るべし。 

ああ、私からの男児が国を称えるだけでは宜くないと私は思う。もし今が弘安の時であるとすれば、かの国が貿易を求めてくれば「我が国の法で禁じられているのだ」と私は答える。更に強く求めてくれば、その使者を斬るべきだ。


天下の人皆いはん、彼れ必ず來寇す、般楽すべからざるなりと、綱紀必ず張り、士風必ず・・・・・・(以下闕損) 

天下の人は皆言うでしょう、「あれは必ず報復に来る、遊び耽っている時ではない」と。国治を必ず張り、武士の風紀も必ず(以下欠損)