おべんきょうノート

自分用です。

勝野正満手記(21p10行〜32p)

デジコレ
https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T16/II_230ho_/593/0000?m=all&n=20

21p
同年同月八日北堂君同月十六日娣勇并揚屋
同年同月八日に母、十六日に妹の勇が共に揚屋


22p
の格を以て女牢に入(阿勇時に仙臺候の中老たり病氣の為下宿し右此災に罹る)
同年十一月(日を失す)四名共に石谷邸に被呼改め揚屋入を被命(最初は将軍温恭公の喪百日満たさるを以て其實は全しけれ共其名牢屋敷預けなりしに其百日の過たる為此事あり)

の格をもって女牢に入る(お勇は仙台候の中老が病気の為下宿した時にこのとばっちりを受ける)
同年十一月(日を忘れる)四名共に石谷邸に改めて呼ばれ揚屋入りを命じられる(最初は将軍徳川家定公の百ヶ日法要が過ぎてから実行するのだが、名前を牢屋敷に預けている内に百日が過ぎた為こうなった)

 

同年同月廿六日獄舎焼失す時の制は孰れも出火切り放しと唱へて勝手におひ放し三日の内に歸り來る者は処刑のとき其相當の刑の二等を滅するなるも予等か如きは手當囚人と唱へ是等の時も腰繩にて率き行き北町奉
同年同月二十六日、獄舎が焼失した時の決め事はいずれも出火切り放しと呼んで『勝手に追い逃し、三日の内に帰って来た者は処刑の時相当の刑より二等下げる』としていたが、私達如きは手当囚人と呼ばれこれらの時も腰縄を引かれて行き

 

23p
行の假牢に入此獄纔に九尺四方に十二人を籠られ其内大熱病を發せしものあり臭氣鼻をつけり然して北堂と娣とは火後同道人へ被預歸宅の上謹慎せしめらる
町奉行の假牢に入った。この獄は僅か九尺の正方形の中に十二人を詰め込まれていた。その内、大熱を発病する者が出、臭気が鼻をついた。そうして母と妹は火事の後同伴者預けとなり帰宅の上謹慎となる。


安政六年二月十三日同事件に係る尋問は評定所へ移され三奉行大目付御目付の五手掛となり此日又改め揚屋入を被命其後寺社奉行松平伯耆町奉行池田播摩守評定所留役星野金吾等の尋問數面予か水戸行と云ふ事何分首尾全たからす種々苦心の末八月頃に至り事件
安政六年二月十三日、同事件にかかる尋問は評定所へ移され、三奉行大目付御目付の五手掛となり、この日また改めて揚屋入りを命ぜられた。その後、寺社奉行 松平伯老、寺町奉行 池田播摩守、評定所留役 星野金吾などの尋問が数回。私が水戸行きと答える事何分、結果は全く響かず色々と苦心の末八月頃になりこの件


24p
も稍決獄の模様と認めたれは實は大坂迄嚴父に随行自分一人は常安橋際魚太と唱る旅店に止り近傍所々を遊覧し居れる由云ひ替たるも幕吏も其先々迄探偵もせさりし由此間阿兄は再度拷問場に出されたり
もやや獄入りに決まるかと見受けられたので、「実は大坂まで父に同行した私は常安橋に到着した時に魚太と呼ばれる旅店に泊まり付近所々を遊覧していました」と言い換えたが幕吏もその先々まで事情を探ってきた。この間、兄は再度拷問場に出された。


同年十月十六日予は下御書濟を以て出獄同道人預けとなりて歸宅の上謹慎す獄に在る事一週年と十日此間獄を御揚屋に被移又奥揚屋に戻され又西奥揚屋に行く東奥にては穴隠居(爰にて同囚する連累者は日下部伊三次橋本三内成熟院信海藤森恭助飯住喜内深津伊十郎六物定
同年十月十六日、私は済口証文を以て出獄、同伴者預けとなって帰宅の上謹慎となる。獄にいたのは一年と十日、その間は獄を揚屋へ移され、また奥揚屋に戻され、また西揚屋に行く。東奥にて穴隠居(ここにて同囚されている連座者は日下部伊三次、橋本左内、成熟院信海、藤森恭助、飯住喜内、深津伊十郎、


25p
満横須賀甚右衛門大沼又三郎中井數馬等なりし)西奥にては角役となり此獄にて松陰先生と同居せり
六物定満、横須賀甚右衛門、大沼又三郎、中井数馬となる)西奥では角役となり、この獄にて吉田松陰先生と同居した。


同年同月廿七日一同処刑の言渡あり阿兄は押込をも可申付の処父の咎に依て遠島外三人は押込を被命仍て阿兄は再度獄に被戻外三人歸宅す(予此日十六日出獄翌々十八日皮包の鮓をもたらし松陰先生を訪ふ

同年同月二十七日、一同に処刑の言い渡しがあった。兄は押込を申しつけられる所、父の咎によって遠島となる。私、母、妹の三人は押込を命ぜられた。よって兄は再度獄へ戻され、残り三人は帰宅した(私はこの日 十六日 出獄、翌々の十八日皮包みされた寿司を持って松陰先生を訪ねる。

押込→自宅(あるいは自室)を閉鎖し軟禁状態にする刑罰

此返事半紙二枚は細密に認めあり其大意自分は十六日の口書にて最早断頭を俟つのみ就ては死後同志之者小子伊藤等を始め厚く可相交云々にて詩あり歌あり實に今日貴重なる書面なりしも遺憾にも其後嫌疑中人に預け置て焼捨られたり然して廿七日評定所の屏風圍ひにて黙禮せしか此世の別れなりし)
この時の返事は半紙二枚細密に認められてあった。その大意は「自分は十六日の供述によって最早断頭を待つのみ。ついては私の死後、同志の者、塾生、伊藤などを始め彼らと厚く交流するのがいいでしょう」云々、詩あり歌ありと実に今日貴重な書面であるが、遺憾にもその後嫌疑中に人に預けたものが焼き捨てられたりもした。そうして二十七日、評定所の屏風囲いにて黙礼したのが彼とこの世での別れであった)


26p
同年十二月(日を失す)予と北堂君と娣とは押込の日數五十日に達するを以て被赦居る事數日三人共に阿倍家より親戚に引渡さる
同年十二月(日は忘れる)私と母と妹とは押込の日数五十日に達したのをもって許された。数日後三人共に阿倍家から親戚に引き渡される。


客年九月以来阿倍十次郎正誠猶幼なれは其親戚及渡り用人等の扱として阿兄の細君(是は猶戸籍を移さざりし故此灾を免かる)及桂川甫彦(是は北堂君か妹の子にて兼て同居せり)家に残るも人尚纔に飢を凌くの粮をあてたり北堂君の出獄後又右に同し
去年九月以来、阿倍十次郎正誠は未だ幼かったのでその親戚及び渡り用人などの扱いとして兄の細君(彼女は戸籍を移していなかったのでこの災いから逃れた)及び桂川甫彦(彼は母か妹の子であり、兼ねてより同居している)と家に残り僅かに飢えを凌ぐ糧を充てられた。母の出獄後、また右の件に同じ。


于時北堂君と娣とは嚴父の實弟志賀範次郎方に被行正満は同姓なる勝野吉右衛門方に行予は是より二葉大輔と名乗れり各舊誼を以て阿倍氏より一人口を給す志賀氏は嚴父とは反對なる人にて家の頗る富
この時母と妹とは父の実弟 志賀範次郎の方に行く事となり、私は同姓となる勝野吉右衛門の方に行く。私はこれより二葉大輔と名乗る。各々の古い馴染みの言葉によって阿倍氏から一人口を給う。志賀氏は父とは正反対な人で家が非常に


27p
有なるに不拘に人を偶する冷淡なるのみならす其為多分の出費を要するを名とし頻に物品なとを貪り取又勝野は獨吉右衛門而巳予を憐み呉たるも其他は甚た迷惑を鳴らし予か定食は一人口丈阿倍氏より給せしにも不拘日々糧食を料り渡しとせり
万延元年四月(日を失す)阿兄三宅島に船出す

裕福であるにも関わらず、人をもてなす事には無関心のようであった。それのみならず多額の出費が必要となるのを名目とし、頻繁に物品などを貪り取る。また勝野は仲間がいない点だけは私を憐れんでくれるもその他は甚だ迷惑と言い、私の食事は一人口丈を阿倍氏から給われているのにも関わらず、日々の食料を計って寄越した。
万延元年四月(日を忘れる)兄、三宅島に船を出す。


此年(月日を失す)阿倍氏の親戚大久保八郎左衛門氏好人物なりし予を憐み手傳と號して呼へり(安藤傳蔵氏の周旋と見え)呼かまにまに行きしに取扱上頗る不平なりしも大志を懐ける身なれは何も修行と心得色にも出さざりき
文久元年辛酉長州藩日下玄瑞氏堀辰之助方よ

この年(月日を忘れる)阿倍氏の親戚 大久保八郎左衛門氏が気立ての良い方で私を憐れみ手伝いというていで呼ぶ(安藤伝蔵氏の周旋とみえる)呼ばれるままに行くも待遇についてはとても不満があったが大志を抱ける身であれば何事も修行と心得て顔色には出さなかった。
文久元年辛酉、長州藩 久坂玄瑞氏、堀辰之助方よ


28p
り退塾櫻田邸の小屋に移り予を呼ふ 曩に予松陰先生と同獄中先生之言を聞き大にさとる處あり 獄を出る時同藩人飯田松伯尾寺信之允などへの傳言をもたらす故を以て同姓勝野の玄關纔に三疊敷に居るに右の二人及日下高杉時山伊藤入江等の諸士と頻に往來せり
り退塾。櫻田邸の小屋に移り、私を呼ぶ。以前、私は松陰先生と同獄中に先生のお言葉を拝聴し大いに悟る所があった。獄を出る時、同藩人の飯田松伯、尾寺信之允などへの伝言を渡す理由で同姓勝野の玄関、僅かに三畳、敷に居ると右の二人と久坂、高杉、時山、伊藤、入江などの諸士が頻繁に行き来した。


聲に應して大久保氏を辭し同邸に行く于時長藩邸は師範の塾生に非されは邸内に宿するを不許故に予と河本杜太とは山縣半蔵師の門弟となる 居る事月餘日下氏麻布邸に移り予又共に行く
声に応じて大久保氏の所を退出し、同邸に行く。この時、長州藩邸は師範の塾生でなければ邸内に泊まるのを許さなかったので私と河本杜太は山縣半蔵氏の門弟となる。滞在する事一ヶ月余り。久坂氏は麻布邸に移り、私もまた共に行く。


杜太は其前去る予はさきの故を以て同邸にては馬醫吉松淳蔵の門弟となる
此年北堂君志賀氏の逆待をいきどふられ續て病臥せらる依て娣と謀て浅草堀田原なる安藤

杜太はその前に去る。私先程の理由から同邸においては馬医 吉松淳蔵の門弟となる。
この年の母は志賀氏の悪い待遇に腹立ち、続いて病に伏せられた。そういう訳で私は妹と話し合って浅草の堀田原にある


29p
傳蔵氏の家を借り三名共に移る貧居は固より甘んする處なれは北堂君も稍く健康となられたり 此間娣と予と更紗縫と云ふ事を為して活計を營みかたはら長娣初山君の助くる處あり 此よりさき春獄公中根靭負氏を以て金若干を賜ふ但嚴父の高誼を重せられしによる
安藤伝蔵氏の家を借り三名一緒に移った。貧しい住まいなのは元より仕方のない所だったが母もようやく健康になられた。この間、妹と私と更紗縫という事をして生活を営む傍ら初山氏の母君の助けがあった。これより先、春獄公、中根靭負氏によって金を若干賜う。父との並々ならぬよしみを重んじられた所による。


此年(月日を失す)訥庵大橋先生輪王寺の宮を奉して兵を擧くるの事あり予又預る同盟殆と二百餘名先寛永寺に入て宮を奪ひ奉り日光に至て兵を擧るの計畫たり事固より秘密なるも予は先生の許可を得其實を告けて北堂君に訣す 于時北堂君大
この年(月日を忘れる)大橋訥庵先生が輪王寺宮擁立で攘夷先鋒挙兵をするという話があった。私は、預かった同盟殆どの二百余名で先に寛永寺に入って宮を奪い日光に至って挙兵するという計画は元より秘密であるも、先生の許可を得た上でその実を答え母に別れを告げる。この時母は


30p
に歡はれ清水叔父に托する處の指添と阿兄の大刀とを取り來られ予に授けて曰く父兄に代りて大名を青吏に垂れよ其事國に益あらは妾か身再ひ囹圄に困められ縦令嚴刑を受るも甘する處なり雖然必す輕擧する勿れと語今猶耳にあり
大いに喜ばれ清水叔父に託していた所の予備の短刀と兄の大刀を取りに来られ私に授けて言った。「父兄に代わって大名を青吏に示しなさい。その事が国に益があるならば、我が身は再び牢獄に込められ例え厳刑を受けようと甘んずる所です。そうは言えども必ず軽はずみな事はしないように」と。今尚耳に残っている。


予涙を奮て行く 先生曰事ここに至りて不會者多し宜くほこさきを治て後擧を謀るへしゆめ諭らるる勿れと予旨を受て尾高長七外一名と共に去る時既に未の刻なれは吾妻橋を渉て午飯を喫するにあたり長七云ふ訥庵氏も又人によって事を為すものなり士の事を為す何そ多數を要せん 己れ上野の地理をしる今夜三人事を擧し事敗れは一
私は涙を奮わせて行く。先生が言うに「ここに至って共に行けなくなった者が多い。進む先を直して後方から挙兵する計画にしよう。決して油断しないように」と、私はこの旨を受けて尾高長七、その他一名と共に去る。時既に未の刻だったので吾妻橋を渡って昼食をする時に長七は言った。「訥庵氏もまた人によって事を為す者だ。志を為すのに何故多数を必要とする?私は上野の地理を知っている。今夜三人で事を起こし、失敗すれば

未の刻→13時〜15時

31p
死あるのみと予云事頗る壯なるも決て目的を果さじ其上死して汚名を残さん人數の多寡も固より目途の如何に在り是等の事万々二三の手にて可成事ならすと論辨再三長七遂に予を詈るに至るよつて懐ふに路傍の小店是等の言を再三するは尤嫌疑あり因て假に彼に服する真似を為す
一死あるのみだ」と。私は「言う事はとても血気盛んだが、決起して目的を果たせずその上死して汚名を残すのか。人数の多い少ないも元より目的がどうかによるだろう。これらの事があって万が一でも二、三の作戦で可能になる」と再三弁論した。長七は遂に私を罵るに至る。道端の小店前でこれらの話を繰り返すのは最も嫌疑がかかると思ったので、彼に従う振りをした。


長七又云ふ今朝會したる者を誘引せは十四五名の死士を得るは容易ならん今より先つ宇野東櫻方に行ん案内せよと予茲に於て始て活路を得たり其故東櫻の偶店は浅草馬
長七はまた言う。「今朝面会した者を誘引すれば十四、五名の死士を得るのは簡単だ。今から先に宇野東櫻の所へ行く。案内しろ」私はここにおいて初めて活路を見出した。東櫻の並んだ店は浅草


32p
道なる醫王院の境内町にして此邊縦横に長屋ありて馬道より山の宿通に抜け道あり予幸に此邊の地理に委敷けれは二人を寺の門前に待せ置き直に山の宿通に出て垂れ駕古を雇ひて脱走清水叔父に行く
馬道の医王院の境内町、この辺り縦横に長屋があって馬道より山の宿通に抜け道がある。私は幸いにもこの辺の地理に詳しいので二人を寺の門前に待たせておきすぐに山の宿通に出て籠を雇って脱走し、清水叔父の所へ行った。


叔父云ふ脱し來れる大によし北堂君今朝八幡宮に詣てくじをとれるに其表甚た凶なれは事必す敗れんと今迄此所にくどき居られしを百方慰諭して歸らせたりと叔父の家に止る二三日にして家に歸りしも爾後戒心あれは容易く他出せさりし
叔父は「脱走して来るのは大いに良いが、君の母君は今朝八幡宮に詣でて『くじを引くと凶だったから挙兵は必ず敗れてしまう』と今迄ここにしつこく居られた所を私が幾度も慰め諭して帰らせたんだ」と言った。叔父の家に泊まる事二、三日にして家に帰るも、その後改心したのか容易に外出するようになった。