おべんきょうノート

自分用です。

三縁寺に行ってきた

8月初旬、池田屋事変殉死者へのお墓参りのため三縁寺へ。

叡電鞍馬線へさぁ乗り換えるぞと地上に出たところで突然のどしゃ降り☔️ドドドド…本当に突然の雨率が多い(雨女かもしれない)

到着する頃には雨も治まって、今のうちにと早足で向かいました。

 

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去年秋頃に行った時は5時を過ぎてしまって閉門されていましたが、今回は昼中に無事到着。

 

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正門前にも墓碑があります。

本堂周辺が整備中で人が行き来されていたので、邪魔にならないように側道から手を合わせました。

 

 

殉死士のお墓は本堂奥にある墓地の一番高い場所。鳥居が見えるその場所まで石段を登ってすぐです。

周りとはまた別の雰囲気があるので一目でわかると思います。

以下敬称略。

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新しく建てられた墓碑。

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元より建てられていた墓碑。

宮部鼎蔵肥後藩)、松田重助(肥後藩

 

宮部さんは幼少期に医者家系の叔父のところへ養子に行き、医学を学んでいた方(結局家業は継がずに兵学の道へ)松陰先生とのエピソードがテッパンネタになる程有名なのに、個人となると一般知名度がマイナー扱いになってしまうのがとても勿体なく思います😞

 

松田さんは宮部さんに兵学を習っていたり、雲浜さんに後妻となる女性(千代子)を紹介して婚儀の際には媒酌人を務めた事もあると。雲浜さん(達)はこの結婚で大和国の豪商と繋がりを持てた…と見ればいいのかな。

なんだこの後年から見たら地盤固めに余念のない感じは。

 

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大高又次郎(播州林田藩)

 

『勤王殉国事蹟』では大髙又治郎と書かれているので、こちらが本来の表記なのかも。お名前の通り次男😃

安政5年、梅田雲浜宅で住み込みしていたという事は…赤禰さんをご存知だよなぁ。翌年松陰先生と面したのは雲浜さん(赤禰さんも)が捕縛された件かも。

不安定な情勢、大高屋(具足、甲冑)は繁盛していたようで、同じ志を持つ身といっても武士や農民とは少し違う商売人としての立ち位置も気になるところ。

 

やはり武器や武具などの流通は信頼のおけるところから引っ張りたいと思いますもんね。

 

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吉田稔麿長州藩)、杉山松助長州藩)、北添佶磨(土佐藩)、望月亀弥太土佐藩)、石川潤次郎(土佐藩)、広岡浪秀(長州藩

 

いつも長州藩と書くか萩藩と書くかで迷ってしまう😌 北添さんは何故「北副」になっているの?と思ったら「副」の字は「そえる」とも読めるのか👀

彼はいつも階段落ちされる方ですね…(死因は自刃であり、階段落ちは『新撰組始末記(子母澤 著)』による創作との見解)

広岡さんは久坂さんの文久期の日記に出てきたような?河原町長州藩邸にいたような?あやふやです。

 

宮部、松田、吉田、杉山、北添、石川、大高の7人は殉難七士と呼ばれていますが、望月、広岡を入れて九士にならなかった理由はなぜだろう?

 

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上松源友胤(肥後藩

 

上松さんは宮部さんの弟子で、池田屋事変には直接関わりがない様子。文久3年7月26日、同志と共に徳大寺家臣 二条寛斎(二条斎敬右大臣の落胤)とその妻を自邸で殺害。その際に重傷を負い、死去(『七年史』)

 

所謂「天誅」については攘夷派の文久期の政局や公家との関係性も深く関わっているので、こちらもまた調べていきたいです。

 

墓碑に刻まれている人が皆こちらに埋葬されている訳ではないとの事。宮部さんもご遺体は熊本ですもんね。

 

帰り道、八幡駅で電車を待っているとまた小雨からのドドドド…☔️⚡️しかも今度は雷まで(๑╹ω╹๑ )💦

ちょうど参っている時に降らなくてよかった。これもデジャヴ。

 

次回は福勝寺か乃木神社(京都)の予定です。

そろそろお寺用の御朱印帳持っておかなきゃ(´・∀・`)