おべんきょうノート

自分用です。

王陽明思想(陽明学)について

松陰先生を主として、幕末長州勢を追うと思想上に必ず出てくるであろう「陽明学」は勢いで読み出してもなかなか理解が難しい (専門書、哲学書故に)

読むに当たっても専門用語がバンバン出てくるので、『四書五経』の予習は必須。

 

四書五経(ししょごきょう)

「四書」とは論語』『大学』『中庸』『孟子の四つの書物です。「五経」とは易経』『詩経』『書経』『礼記』『春秋』の五つを指します。お、多い…

 

そもそも陽明学とは?

中国 明の時代に王陽明という儒教者が起こしたもの。孟子性善説の系譜。←こちらも松陰先生はよく勉強なされたり村塾生への書簡などに記されてました

陽明学という呼び方は明治以降に広まったもので、その以前は「王学」と呼ばれています。なので、史料でも王学で記されている事が多いです。

 

王陽明 思想の根本は?

知行合一

致良知

万物一体の仁

大まかにはこの3つ。


知行合一致良知はセットで考えた方が理解しやすいかと思います。

ここでいう「」というのは知識の意味じゃなく、生まれたときから与えられている知…つまり知能、知恵のようなものを指しています。

だからといって知行合一は《 知識を得たから行動する、天から与えられた性質を知ったから行動する 》という意味でもありません

自分の心の中にある、「しなければいけないこと」を、そのまま「止むに止まれず実行する、天から命じられた性を信じてそのまま行なう」という事。これが知行合一致良知です。

いい言い方をすればとても「純粋」であるといえます。

学の中で「知は行の始めにして、行は知の成なり」と陽明は言っていますが、知を生まれながらの知恵、知能と据えるなら行に対して始め終わりの概念は少々変では?と私は思います。

 

万物一体の仁王陽明抜本塞源論にあたります。

抜本塞源とは、災いの原因になるものを徹底的に取り除くこと。木の根を抜き、水源をふさぎ止めるという意味。

「物事をめちゃくちゃにしてはいけない。正しいところに正しいものを当てはめる」

要するに、心の本体を人欲で惑わされないよう純粋に行動するという事。

「これを言えば人に嫌われるだろうな 」とか「これを実行すれば面倒な事になりそうだな 」と躊躇するのが人欲で、最低な行為だと示しています。

つまり松陰先生が野山獄内で受け取った、村塾生からの(家老 間部の暗殺は)支持できないと諌める書簡は彼の敬愛する思想に反するもので、故にぶちギレたというわけです。

 


この先は蛇足

ここまで陽明学を考えてみて、疑問に思った事がたくさんあります。

心の本体は天命の性なの?とか

無善無悪なの?とか

行なっている事は本当に問題がないの?とか

そもそもどうやって判断するの?とか

ちなみに陽明は無善無悪に対して伝習録で曖昧な判断を下しています。

彼の弟子が「心の本体が無善無悪で絶対だから、意も知も物も無善無悪ですよね?」と聞いたのですが、陽明は判断出来ずにどっちつかずの返答をしました。そして弟子達に「 “全ては無善無悪である” などと、あんまり本当のことを言わないように… 」と釘を刺したのです。

 

何故か?

それは答えを決めてしまうとむちゃくちゃになってしまうことが目に見えていたからではないでしょうか。「心が絶対だったら何をしても、心のままに行なうのが許される」のが陽明学

つまり、性格がよく、判断能力が素晴らしく、行動の先が見える人であれば何も考えずに実行しても安心。

ちゃらんぽらんで、すっとこどっこいで、本能丸出しの人間(や、その下の人)が、知行合一を免罪符として自分の心のままに行動を起こせば、世間の顰蹙を買う可能性がある。

人間は“個の存在”、“種の継続”が最優先なので金銭、食料、異性問題が起こりやすい。

 

つまり実行するには人を選ぶ哲学です。

 

 

中国の陽明学者の言葉で人類に対する絶対的な信頼を表す「満街の人全て聖人」という語があるのですが、私はこんな無防備で無責任な絶対的信頼は、自分自身に対してのみ掛かる言葉だと思います。

また、お釈迦さんの例え話で「熱い火箸を掴む時、熱いと理解して掴むのと、熱いと知らずに掴むのとどう違うのか」という話があります。

注意を払わなければならないところを、ちゃんと把握しなさいという事です。

 

 

ここまで陽明学の初歩中の初歩をまとめましたが哲学の本質は思考なので、これからも考えていけたらと思います。

ありがとうございました。