おべんきょうノート

自分用です。

勝野正満手記(p33〜p40)

デジコレ
https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T16/II_230ho_/593/0000?m=all&n=20

p33
文久二年壬戌正月坂下の事あり 去歳の故とを併て嫌疑尤甚し且もと同志にて變心せし宇野東櫻なる者か水戸に行て衆を欺くの説あり因て笠間なる稲荷に詣するを名として一小刀を帯し小包を脊負て同行 四月十五日を以て江戸を發し十八日水戸上町五軒町なる尼子長三郎方に投し同町なる美濃部又五郎方に潜めり此行途中東櫻に出會せは一刀のもとに倒さん覺悟之しに何れにてか行違へり 然して聞く處によれ
文久二年壬戌一月、坂下の事(坂下門外の変)があった。去年の理由と併せて嫌疑が深まり、また同志内から心変わりした宇野東櫻という者が水戸に行き人々を惑わせようとしているとの話があり、笠間稲荷に詣でる事を名目にして小刀一振を帯し小包を背負って同行した。四月十五日に江戸を出発し十八日に水戸上町、五軒町の尼子長三郎方に泊まり、同町にある美濃部又五郎方に潜んだ。行き道の途中、東櫻に鉢合わせたら一刀で倒してやる覚悟であったがどうした事か行き違えてしまった。聞く所によれば

水戸上町→水戸の上町は武家

p34
は東櫻の毒は格別流し得さりしも此頃水戸の國情甚た多端故に予等一ヶ所に長く居り難く備前町なる岡部藤助、八幡町なる片岡為之允より下國井村なる渡邊長左衛門方に移る 六月に至り幕府の大政大いに變し越前老矦政事總て裁たりここに至て嫌疑やや砕け且越矦へ建議すへき件あり其艸稿を竹杖中に挿み道を鹿島香取にとりて江戸に出て又清水叔父の家に行き直に大野謙介氏に通し右之建議案を示し猶熟議之上中根靭負氏に付て越矦に呈す 予猶叔父の
東櫻という毒は完全に流す事が出来たようだが、この頃の水戸の国情はとても複雑で私達は一ヶ所に長く居づらく備前町の岡部藤助、八幡町の片岡為之允に渡り下国井村の渡邊長左衛門宅へ移った。六月になり幕府の政治は大いに変わり、越前老公が政治を全て取り仕切った。この時期には嫌疑がやや治まり越前公へ建議するべき件があった。その草稿を竹杖の中に挿し、鹿島香取を通って江戸に出、また清水叔父の家に行き、直接大野謙介氏に通して右の建議案を示し、熟議の上中根靭負氏に付いて越前公に呈した。私はなお叔父の

宇野東櫻→東櫻は号。宇野八郎。摂津高藩士。脱藩し江戸へ向かう。大橋訥庵の挙を幕府に密告した。文久3年1月13日江戸新橋にて尊攘過激派に斬殺される(実行犯は白井小助、高杉晋作伊藤俊輔らとされており、訥庵の挙にも参加していた)←確認中

p35
家に居る月餘にして堀田原の家に歸る 此冬阿兄大赦の命あり
同年十二月北堂君子に云ふ 阿兄明年島より歸るも傳家之寶刀及甲冑等志賀氏に在り彼れ必す容易く返さじ多年在島辛苦之末是等の事あるは遺憾なりなんぢ志賀氏に行き手段を以て取り來るへしと因て清水叔父と謀り嚴父の内命なりと云ふを以て志賀氏を欺きたれは志賀氏直に諾し不日に為持越すへきを約して歸る

家にいたが約一ヶ月後に堀田原の家に帰った。この冬、兄の大赦の命があった。
同年十二月、母が我らに言う。「(兄が)年明けに島から帰るというのに家に代々伝わる宝刀や甲冑などは志賀氏の手元にある。きっと簡単には返さないだろう。長い間島にいて辛苦の末にこんな事となっては遺憾である。お前は志賀氏の所へ行き、手段をこさえて取り返してきておくれ」清水叔父と作戦を練り、父の内命であると言って志賀氏を欺けば彼は素直に承諾したので日を持ち越す事無くして帰った。

 

p36
同年同月廿六日北堂君卽中症を發す此日朝より予清水氏に行午飯を喫し居しに急報あり直に叔父と共に歸宅せしも既に人事を辨せられす聊氣息あるのみ廿八日暁を以て瞑せらる
文久三年幕府新徴組と云ふ者を取立鵜殿鳩翁高橋伊勢守其支配たり山岡鐡太郎松岡萬是に附す其旨趣有志の者の不得志して各所に流寓する者を募ると聞予も又徵に應し幕府の上洛に先立三百餘人隊を為し木曾路を經て上京洛西壬生村に宿す然るに此徵募大に其實に

同年同月二十六日、母が脳卒中となる。この日朝から私は清水宅へ行っていて、昼飯をいただいていた時に急報があった。すぐに叔父と共に帰宅するも既に言葉を発せられずか細く息があるだけだった。二十八日の早朝に亡くなった。
文久三年、幕府新徴組という者を取立て鵜殿鳩翁、高橋伊勢守から山岡鉄太郎、松岡万に託される傾向となる。志を持ち不遇にも各所に放浪している者(浪士)を募ると聞き私も応じた。幕府の上洛に先立ち、三百人余りの隊を為し、木曽路を経て上京、洛西壬生村に泊まる。するとこの募集は大いにその実態を

 

p37
反し何そ料らん彼疑正議家の清川八郎なと其参謀者たり全く草莽間なる擊劔家抔の多人數子分然たる者を誘引し得たる者を一隊の長とせり予は濁行なるを以て野州足利在の劔客齋藤源十郎の隊に入る
同年三月四日生麥村の事あり夷情切迫候條早々歸府し江戸表に於て指揮を可受旨被命同月十三日京師を發し又道を木曾路にとり廿八日を以て江戸に著し本所三笠町なる小笠原邸に入(新徴組の本営なり)
是より先き阿兄既に歸府清水叔父

変え、全く思いがけない事に幕府は疑った。正義派の清河八郎らがその参謀者である。在野内の撃剣家など多数子分として持つ者を誘い入れ一隊の長とした。私は優れていないので野州足利在の剣客 斎藤源十郎の隊へ入る。
同年三月四日、生麥村の事(生麦事件)あり。攘夷情勢は切迫しており早々に帰府し江戸において指揮を受けよとの命ぜられる。同月十三日、京都を出発しまた道を木曽路に進み二十八日に江戸に到着し、本所三笠町の小笠原邸に入る(新徴組の本営である)
これより先に兄は既に帰府しており清水叔父

 

p38
の許にあり
同年四月十九日予新徴組を辭し阿兄及娣と共に堀田原なる舊廬に移る此年
朝廷五月十日を期して攘夷の議あるも事不被行是より先き小人の事あり阿兄と予をして隙あらしむ後阿兄稍くさとり七月七日共に浅草邊を遊歩し一酒店に投して密話數時阿兄益さとりて隙全く解く依て爾後共に倶に進退計畫を談ずるに阿兄云當時諸藩の有志皆京師にあり上京せされは百事為すなりしと予か意又然り

の元にいた。
同年四月十九日、私は新徴組を辞し、兄と妹と共に堀田原の旧庵に移る。この年に朝廷が五月十日に期限を決める攘夷の議論があったが事は行われず。これより先に小さな事で兄と私は不和になっていた。その後、兄はようやく感付いて七月七日に共に浅草辺りを遊歩し一件の酒店に入って数時間密話をした。兄はますます悟り、すっかり誤解も解けてまた共に進退計画を話す時に兄は言った。「今、諸藩の有志は皆京都にいる。上京すればあらゆる事が可能になるだろう」私の気持ちもまた同じだった。


p39
速に家財を賣却して旅費に充て北堂の盆祭を終れは直に發途上京せん事を約して歸宅し翌八日阿兄まづ清水に行きて物品賣却の手續を為し予は跡より行き阿兄に途に遭ふ阿兄云ふ自分は少しく病あれは賣却品の事よきに取計ふへしと予其言の如くし若干の金を得て薄暮に歸宅すれは遺憾にも此日より阿兄の病甚た劇百方治り求れ共不得九月廿八日を以て鬼籍に入
同年十月(日を失す)野州足利在江川村に寄寓せる新

速やかに家財を売却して旅費に充て、母の初盆を終えたらすぐに出発する旨を約束して帰宅した。翌日の八日に兄はまず清水(叔父の所)へ行って物品売却の手続きをし、私は後から追って兄とは道で再会した。兄が「私は少々病気持ちだから売却品の事はお前の良いように取り計らってくれ」と言うので、私はその通りに若干の金を得て薄暗くなった頃に帰宅すると遺憾にもこの日から兄の病気が酷くなりあらゆる方法で治癒を試みるも叶わず。九月二十八日をもって鬼籍に入る。
同年十月(日を忘れる)野州足利在江川村に寄宿する


p40
徴組にて同隊に在りし越前人 坂井友次郎なる者を誘ひ歸りて同行十一月三日江戸を發して上京す途中水戸藩美濃部又五郎家来原大輔と名乗土浦藩士大久保親彦よりの書面を携へ京柳馬場錦小路上る所井筒屋九兵衛方に投し其儘此家に寓す此時始て嚴父の數年前地下に入られしを聞く
元治元年甲子五月(日を失す)大野謙介氏を以て水戸藩より達あり
                                       勝野保之助

新徴組の同隊にいた越前人 坂井友次郎という者を誘い、帰り道を同行する。十一月三日に江戸を経ち上京する途中で水戸藩 美濃部又五郎家来 原大輔と名乗り土浦藩士 大久保親彦からの書簡を携えて京柳馬場錦小路を上り井筒屋久兵衛宅に渡した。そのままこの家に宿泊した。この時に初めて父君が数年前に(亡くなり)埋葬された事を聞く。
元治元年甲子五月(日を忘れる)大野謙介氏伝いで水戸藩よりお達しがあった。
                                     勝野保之助