おべんきょうノート

自分用です。

文久2年2月4日 遊清五録

『遊清五録』序

高杉晋作が藩命で上海に渡った際、受けた衝撃を綴った日記。
藩命を受けたのが文久元年12月23日。長崎より千歳丸に乗船、上海へ渡るのが文久2年2月4日。

この日記は「航海日誌」「上海掩留日録」という二編日記と「内情探索録」「外情探索録」「崎陽雑録」という記録資料からの一部分

 

予、支那行の命を受け、家君に告げて曰く、自性は鈍にして才は疎なるに、計らずも此の大命を承く、且つ児に兄弟なし、今海外に遠遊さば、家君膝下の養を為す者なきなりと。

僕は支那(清国)行きの命を受け、父上に言った。「私の気質は愚鈍で才は乏しいにも関わらず、計らずもこのような大命を受けました。その上私には男兄弟がいません。今海外に行けば父上のお傍で孝行を尽くす者がおりません」と。

 

家君曰く、汝闇愚の少年何を以って此の大任に当るを得んや、然れども君命一たび下れば如何ともすべからざるなり、汝勉強するに我を以て念と為さずして、死を以て君命に奉ずべしと。予因りて策を決す。

父上は「お前は未熟な若者である。どのようにしてこの重要な任務を遂行することができようか(いや、できまい)しかし藩命が一たび下されたならどうにもならないであろう、お前は勤勉に命を為すにあたって父のことは心配せず、死ぬ気で君命に従え」と仰った。その言葉によって僕は決心した。

 

江戸を発し崎港に到り、幕吏某に陪従して、支那上海港に遊ぶ。其の間に聞見する所を録して一冊子と為し、遊清五録と謂ふ、初め余江戸を発し、■みて過庭の教に随ひ、勉強して以て君命に奉ぜんと欲す。而るに計らずも不幸にして遊中疫疾に罹る。
江戸を出発して長崎港に到り、幕吏のある人の従者として支那の上海港に遊学する。その間に見聞したことを記録して一冊の本とし、『遊清五録』と名付けた。最初に僕は江戸を出発し、■みて孫過庭の教えに倣い、任務を遂行して藩命に従おうとした。しかし予想外な不幸が襲い、病気にかかった。

幕吏某→幕府の小人目付 犬塚鑅三郎

病気は麻疹のよう

遊中病全くは癒えずと雖も漸くにして、平素に復す能はず、しかのみならず鈍性疎才、遂に因循怠惰に至り、君父の命に負く。

遊学中、病気は完全に治らなかった訳ではないがやはり普段の体調には戻らず、そればかりか鈍性疎才な僕はぐずぐずと怠惰に陥り、藩公の命に背いた。

 

実に慨歎に堪へざるなり。唯だ区々たる日記以て他日の遺忘に備へんと欲す。豈に国家に益あらんと謂はんや。黙生春風崎港の客舎に於て書す。
誠に嘆き憤るに堪えない。ただつまらない日記を書いて後日これらの見聞を忘れないようにしようと思う。どうしてこの記録が国家に益がないと言おうか(いやきっと役に立つだろう)黙生春風(この高杉晋作)が長崎港の客舎において書く。

 

此の書、或は漢字を以てし、或は国字を以ってし、便に随ひて筆を取り、実事を記さんと務め、敢えて文字に意を用ひず。唯だ要は、真の知己をして幕府支那行の始末を知らしめ、他日我邦の外国行鑑と為さんとするのみにして、博く諸友人に示さんと欲せざるなり。

この書は時には漢文で書き、時には和文で書き、折を見ては筆を取り、真実を記録しようと務め、あえて文体に工夫をしなかった。ただ重要な点は、同志に幕府による清国行きの実情を知らせ、後日我が藩の海外行きの参考にしてもらおうとするだけであって、広く多くの友人に示そうとは思っていない。

 

形勢を探り情実を察するは、智者の難しとする所にして、吾が生の及ぶ所に非ざるなり。区々たる雑録、聞見する所を記すのみ。

海外の形勢を探り実情を視察するのは知恵ある者でも難しいとすることであって、僕のような者の力の及ぶ所ではない。つまらない雑録であって見聞したことを記録しただけだ。

 

他に山水の景を写し、風雅の言を吐くに到りては、予の敢て好まざる所なり。即ち詩文詩家の先生に託すのみ。
他に山水の風景を描き風流な詩歌をつづるなどということは、僕はどうにも好まない所である。だからこうしてこの記録を詩文詩家の先生に託すばかりだ。

 

五月七日 仏暁、小銃の声陸上に轟く。皆云はく、是れ長毛賊と支那人と戦ふ音なるべし。予即ちおもへらく、この言信なるは実戦を見ることを得べし

五月七日 夜が明け、小銃の音が陸上に轟く。皆が言うに、これは長毛賊と支那人が戦う音らしい。その言葉が本当ならばつまり実戦を見れるのではと思った。

ここでいう支那人清朝側の兵士ではなく、アメリカ人が中国兵を雇用してつくった自衛軍『洋槍隊』の事。長毛賊とは、太平天国軍の兵士たちを意味する。彼らは頭部前半を剃って辮髪を結うという、言わば満州族王朝である清朝が漢族を服従させるために押し付けたヘアースタイルに対し、意図的に髪を伸ばして反抗の意思を表わしていた。

五月二十一日 此の日終日閑座す。因りて熟々上海の形勢を観るに、支那人は尽く外国人の便役と為れり。英・法の人街市を歩行すれば、清人皆傍に避けて道を譲る。実に上海の地は支那に属すると雖も、英仏の属地と請ふも又可なり
五月二十一日 この日は一日中静かに待機していた。上海の形勢を観察すると、支那人はことごとく外国人の便利屋になっているようだ。イギリス人、フランス人が街を歩けば、清朝人は皆傍に避けて道を譲る。実に上海の地は支那に属するといえども、英仏の植民地といっても過言ではない。

 

七月二十一日 予君命を奉じて幕吏に随従して支那上海港に至り、又彼地の形勢及北京の風説を探索し、我日本も速に攘夷の策を為さずんば、遂に支那の覆軼を踏むも計り難しと思しなり

七月二十一日 僕は藩命を賜わって幕府の役人として上海港に至り、その地の形勢及び北京の風評を調べ、我が国に速やかに攘夷の策をなさなければ、支那と同じ轍を踏んでしまうと思った。