おべんきょうノート

自分用です。

安政元年3月20日 真木→會澤

安政元年3月20日

真木和泉守遺文

コマ150

淵上祐二郎は郁太郎の兄、祐之の事か。*真木和泉遺文では郁太郎になっているが、その他史料では祐之。


寸楮奉啓。時下漸暖に相成候處、御闔家樣益御履吉可被遊恭賀奉存候。次に鄙生依舊碌々消日罷過申候。乍恐御降心被遊可被下候。扨先年以來追々裁書候處、皆々江戶より返り、如何御動止被遊候哉。

寸楮恭しく申し上げます。この節漸く暖かくなりましたが、ご家族様におかれましても益々ご健勝の事と存じます。私は日々励んでおり、いつものように何事も無しに過ごしております。さて幾年か前より少しずつ書を送り直していましたが、皆々江戸より戻ってきましたのでいかがなされたのかと

 

朝暮懸念罷在候處、四五年前仙臺生遊歷之節、御樣子相承り、御失意に者被爲在候へ共、御康勝に者被爲渡候由、先づ安心仕候。兩三年以前、弊藩より御入門申上度、鄙生より御願吳候樣相囑候間、一書認相托申候處、右書者江戶より返申候。

懸念しておりましたところ、四、五年前に仙台の者(小野寺謙治)が遊歴してきた時に様子をお聞きしました。ご失意にはあられるものの、健康でお過ごしとの事で一先ず安心致しました。二、三年前、我が藩よりご入門を申し上げたく、私からお願いしてもらいたいと頼まれ、一書認め託しておりましたが、その書も江戸より戻ってきました。

 

去夏鄙生宿元より其儘風便奉呈候由、屆候哉相分不申、三百里外隔絶、殊に御互多忙故、御往復も十分出來兼、殘念之儀に奉存候。扨尊藩者漸々御復舊に而、去年以來者、前中納言樣御雪寃のみならず、幕府御後幹被爲遊、攘夷之事等專ら御指揮被爲遊候由、無此上目出度御儀奉存候。

さる夏、私は寄宿元でそのまま先程の噂を聞きました。便りが届いているのかも分からず、三百里も離れていては遠く隔たりがあり、互いに多忙でもありますので、交流も十分に出来かね、とても残念でございました。さて、貴藩も少しずつ復旧が進み、去年からは前中納言様が身の潔白をお示しされた事にのみならず、幕府を後退させる為の攘夷活動をご指揮なされているそうで、この上無く喜ばしい事でございます。

 

併天下君臣悉くの武備廢弛之央、嘸々御心配被爲遊候御事と奉恐察候。合衆國僻陋之小戎不足憂候へ共、國脈新敷候へば、却而墨夷・佛郎等よりも難御可有、且彼之俄羅斯强大之勢に而經界之儀申出、夷狄にも智者有之と相見、不容易儀に御座候へ共、前中納言樣被稱在候へば、乍恐御廟算多、天下高枕、彼者不幸に候へ共、我之幸此時に御座候。

しかし天下の主君・臣下は皆軍備を怠っておりますから、さぞさぞご心配されている事とお察し致します。合衆国の堅苦しさや用心不足に憂いておりますが、藩論を新しくすればかえってアメリカ・フランスなどよりも制御が難しくなりましょう。かのロシアという強大勢力は境界の件で申し出があり、外国人にも智者がいると見受けられました。容易ではございませんが、前中納言様がお声掛けいただければ朝廷のご算段も多く、国家は安心出来、奴らを泣き目に合わせられる。その時こそが私の喜びでございます。

 

一。此節弊邑水田醫生淵上祐二郎と申者、先生御高義奉欣慕御塾之端に御加被遊度、

是非鄙生より御願申上吳候樣相願申候。此者是迄は肥後に一兩年罷越、未だ學業者相積不申候へ共、志者確實而、勿論儒學改業之心得に御座候、乍憚鄙生同樣御光寵被初付候樣奉願候。

一、この頃我が村水田の医学生 淵上祐二郎と申す者が先生のご高義を敬慕しており、塾席の末端に加えていただきたく、是非私からもお願い申し上げます。この者はこれまで肥後に一、二年参上し、未だ学生の身ではありますが、志は確実にあり、勿論儒学家へ転身の心構えでございます。恐縮ですが私同様、お目に掛けていただけますようお願い致します。

 

一。鄙生等近狀粗御耳に入候儀は無御座候哉。村上守太郎儀御塾にも久敷罷在、不輕御愛顧被遊候間、學業相應相遂、鄙生幷木村三郎等、從來竹馬筆硯之友に而、互に切磋罷在候處、少し當途候而、人物學文共に大違に相成、第一學問事業は狡點に無之而者、水府之樣之事に相成、成就不致抔と公然申候位に而、種々不都合之事御座候間、三郎鄙生始五六輩三四度も急度忠告仕候處、頓と聽入不申、其內に心術不相濟事も御座候間、皆々絕交仕候。

一、私自身の近状報告は特にございません。村上守太郎が久しく来塾され、多くのご愛顧をいただきましたが、学業も相応に成し遂げ、私や木村三郎等、これまで竹馬の友、筆硯の友として切磋琢磨していましたところ、目標において互いの性格や学問共に大きなずれが生じてしまいました。第一、学問事業にずる賢い点はございませんが、水戸のような事になってしまうので(水戸学は)受け入れない等と公然と申した件で色々と不都合な事になり、急いで三郎君、私を始め、同志五、六人へ何度忠告してもとんと聞き入れず、その内、心のありようでは済まない事もございましたので皆々交流を絶ちました。

 

其末江戸に於て狂妄之取計、終に及自殺申候。其毒流泛溢、去々子年に相成候而、大に潰、同志中大夫以下十三四人嚴罰を蒙り、三郞等三人は縲紲に被繋、鄙生は野弟大鳥居敬太方へ幽居之命を受、城南四里外に被逐申候。誠以殘念至極不堪初齒事に御座候。

その後江戸において出過ぎた計画を立て、終いには自害に及びました。その起因が毒のように流れ氾濫を起こし、一昨年の子年を境に大いに乱れ、同志中家老以下十三、四人が厳罰を受け、三郎君等三人は獄に繋がれました。私は義弟 大鳥居敬太宅へ幽居の命を受け、久留米城から四里離れた場所に追われました。誠に残念で堪らず、歯を食いしばる程でございます。

 

先生前日之御苦心今更奉恐察候事に御座候。鄙衷乍憚御慈照奉願候。今日に於而は、箇樣片札に而も奉呈候事嚴禁に御座候へ共、密に奉申上候。御電覽彼遊候後は、必御放火奉願候。恐惶頓首。

三月二十日。眞木和泉守保臣華押。會澤老先生座下。

先生が以前ご苦心されていた事、今更ながらにお気持ちをお察し致しました。恐れながら私の気持ちに情けをかけてくださるようお願いします。現代においてはこのような大金を包んで差し上げる事は厳禁でございますので、秘密裏に上納します。ご覧になられた後は必ず燃やしてください。恐惶頓首。

三月二十日  真木和泉守保臣華押   會澤老先生座下

 


ひなふり二首奉入尊覽候、心中御推察被遊度奉存候。

鄙振り二首をお贈りしますのでご覧になってください、心中をご推察していただきたく存じます。

 

むすほるゝ心をとけと常陸帶の東路かけてわかゝこつかな

千年川おもひふかめし心とはきみなか川をくみてしらなん

(訳略す)

千年川は鄙生が門前を流るゝ水に而御座候、所謂筑後川也。

千年川は私宅門前を流れる川で、所謂筑後川です。